第4話「性感帯になるらしいね」

――どうしようもなく海風を浴びたくなる日がある。


受験勉強に勤しんでいた息抜きに、しばらくぶりに海へ訪れた。お気に入りの、軒下ベンチに腰掛ける。


「おーい! すぐるー!」


声のする方を見上げると、自転車に跨った稲垣絢いながきじゅんが手を振っていた。遠目でもあの輝き様。

返事代わりに頭をぺこりと下げると「ちょっと待っててー」との伝言を残して彼女は立ち去る。


「……2ヶ月ぶりなのに……」


稲垣絢が、自分を覚えていてくれたことが嬉しかった。天と地ほど違う存在の彼女が、なぜ自分にこうして声をかけてくれるのだろうか。

そんなことを悶々と考えていたところで突然背後から腕がまわる。


「久しぶりだね」


見惚れていた女性に抱きしめられた。フローラルな香水の匂いと甘い匂いが優の鼻腔をくすぐる。なんだかアンバランスな香りだ。


「よかったー嫌われたかと思ったー」


絢はぐりぐりと顔を肩に押し付ける。どうにもできず、ただ彼女のされるがまま優は微動だにしなかった。


「会いたかったよ」


首筋に柔らかい何かが触れた。にやりと口角をあげてこちらを見つめる絢の顔を見て、先ほどの「何か」が彼女の唇であったことは容易に想像がついた。


「……いつか通報されますよ」


優は顔を赤らめ、「最低です、本当に」と呟いたが、心臓の音は隠せなかった。


「何で? 嫌じゃないでしょ」

「……そんなこと……ないですよ」


絢の笑みが、やたらと妖艶に思えた。彼女はこれまた長い手を天に伸ばし、背伸びをしながら隣に座った。


「最近はずっと海来てなかったよね?」

「この時間帯には……」


勉強に疲れた休日の夜には何度か訪れていた。母の帰りが早く、そして妹のご飯を作る必要がない日はそんな息抜きが許される。


「ふーん」


久方ぶりの稲垣絢。

今日の髪型はストレートに近く、ただ横に流しているだけのセットだ。海風に吹かれれば、彼女の髪はさらさらと揺れる。


「ねえ、連絡先交換しようよ」

「え、何でですか……?」

「だって、そっちの方が会いやすいじゃん」


水原優は黙り込んだ。彼女の素性が分からない状態で、自分の連絡先を教えることに抵抗がある。


「まあ……急ぐことでもないか」


下を向いて押し黙った優の様子を見て、彼女は何となく心情を察したらしい。


「あ、すみません……」

「えー謝ることじゃないのに」


ケラケラと彼女は笑う。伸びた前髪が彼女のチャームポイントを隠してしまう。


「そうだ! 学生証見せてあげるよ、ほらこれ」


彼女は財布をバックから取り出して、国立大学の校章の入った学生証を取り出した。優が必死こいて追いかけている大学の学生証。


[稲垣絢:経済学部 経済経営学科]


優の目指している学部学科と同じだ。


「本当だったんだ……」

「あはは、疑ってたの?」

「そ、ういうわけじゃないですけど」


優が必死に手を伸ばして掴み取ろうとしている合格を、彼女は去年掴み取ったのだ。得体の知れない女性であることに変わりはないが、目の前の彼女に尊敬の念が湧く。


「今ひとり暮らしなんだー。機会があればおいでよ」

「でもこれお家は反対方向じゃないですか」


学生証に記載されている住所は、優の住む町から距離がある。高校の学区も違うようだ。


「うん、だから大学生になったらおいで」


優が大学生になる時。稲垣絢は隣にいるのだろうか。飄々としている彼女は、気がつけば手元から離れてしまうようなあやふやさを内包している。


「なんか幼いですね」

「あはは、証明写真でしょ? それ高3の私だからね」


写真に映る彼女は、今よりも髪が伸びていて、レイヤーを入れたボブカットだ。


「……あ、これ……」

「んー? どうかした?」


今よりも少し幼い顔立ちの証明写真には、見覚えるある制服が映り込んでいる。この制服は――


「もしかして、これ水明館高校すいめいかんこうこうですか?」

「そうだよ」


水明館高校は、隣学区の公立トップ校だ。朔ヶ丘高校さくがおかこうこうよりも歴史が古く、県内トップの公立校はこの高校だ。全国にも名の知れた古き良き高校というイメージがある。


「まあ学区内にたまたま水明館があっただけだよ」

「でもすごいです……」

「朔ヶ丘の方がよっぽど羨ましいよ……」


彼女は伏し目がちに足元を見つめる。悲哀漂う彼女の顔はいつも何か別のものを見つめている。


「行きたかったなー朔ヶ丘」


彼女はどこか寂しそうな顔をした。飄々とした彼女が時折見せるこの顔に、どうしようもなく胸が詰まる。


「しかし、まだ暑いねー」


彼女は長袖の裾を捲り、手のひらで風を仰いだ。確かにここ数年は温暖化の影響か夏が異常に長引いている。


「汗かいてきちゃった」


いつもの調子を取り戻した絢は、笑いながら手のひらで首の汗を拭った。どうやら、伸びかけていた襟足は切ってしまったようだ。


「何、今度は首見てるの?」


絢は優を挑発するかのように横目で見やった。


「……襟足、切ったんですね」

「また伸ばそうかな。優に首筋見られるの恥ずかしいし」

「……揶揄わないでください」


彼女の身体を見つめる度に指摘されていたらキリがない。優はため息をついた。


「ね、首触ってもいいよ」

「触りませんよ」

「首は急所だから。優は特別だよ」


優の話なんて全く聞かず、絢はまたもや優の手を優しくとった。先ほど彼女が手のひらを当てていた場所に誘導される。


「少しだけ触って」


これは変質者なのだろうか。

首筋を見せるように稲垣絢は前屈みになって急所を晒す。なんだかそれがとても無防備に思えて胸の奥がきゅっとなった。促されるまま、軽く背骨から一直線に指でなぞる。


「ふ、はは……あはは」


彼女はくすぐったそうに背中を丸めて優から与えられる刺激に反応する。なんだかそれがとても破廉恥に思えて、すぐに指を離した。


「あれもういいの?」

「……くすぐったそうだったので」

「はは、くすぐったいところって性感帯になるらしいね」


どうしてそんなワードが飛び出る話にまで波及させるのだろうか。優は口を閉じて彼女の話を流した。


心臓が大きく音を立てていたが、その音色には気づかないふりをした。



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