蟻と娘

阿々 亜

蟻と娘

 薄いアクリルケースの中に土が詰められている。

 土の中に網の目ように隙間ができており、その隙間をたくさんの黒い蟻たちが動いている。

 そんな蟻たちを、内田千鶴うちだ ちずるはぼーっと眺めていた。

 眺めていることに特に理由はない。

 この蟻たちを見ているとなんとなく気持ちが落ち着くのだ。


 そんな癒しの時間を、内線のコール音を不躾に打ち破る。

 邪魔をしないでほしいと思うが、致し方ない。

 ここは彼女の職場なのだから。


「何かしら?」


「旦那さんと娘さんがいらっしゃっています」


 そうだった。

 今日は夫が娘を迎えに行ってくれる日だった。


「ありがとう。通して」


 数分後、彼女の夫の暎二えいじと娘の菜月なつきが彼女のオフィスに入ってくる。

「ママ―!!」と、三歳の娘が千鶴に駆け寄り、千鶴は娘を抱き上げる。


「幼稚園は楽しかった?」


「うん、楽しかった!! 今日、ママの絵を描いたんだよ!!」


 千鶴が菜月を下ろすと、手に持った画用紙を広げて見せてくれた。

 クレヨンで女性らしき人物が描かれている。

 三歳時の絵では判別できないが、おそらく千鶴なのだろう。


「まあ、美人に描てくれたのねー。ありがとー」


 そう言って千鶴は娘を抱きしめる。

 日に日に自分に似てくる娘が千鶴は愛おしくてたまらなかった。


「千鶴、そろそろ、例の法案の採決の時間だよ」


「あ、そうだった!!」


 暎二にそう言われて、慌ててオフィスの壁に備え付けてあるテレビを付ける。

 チャンネルを変えて国会中継に合わせる。


『起立多数。よって、本案は委員長報告の通り可決いたしました』


 そんな文言が流れ、議場が拍手の音にあふれる。


「おめでとう。千鶴」


「ありがとう。あなたとお義父さんのおかげよ」


 そう言って千鶴は暎二に微笑んだ。


 暎二はとある大企業の役員で、父親はその企業の会長であった。

 国内でも有数の資金力があり、政界にも影響力が強い。

 この法案は、国内の深刻な少子化への懸念から賛成意見も多かったが、生命倫理の根本を揺るがすものであり、反対の声も強かった。

 それを短期に成立までこじつけたのは、暎二と暎二の父親の各政党への圧力の賜物であった。


「必要な法案だったとは思うが、これから日本はどうなるんだろうね……」


「生物は進化していくものよ。人間も例外じゃないわ」


「これは進化の過程だと?」


「必要に駆られて変化したのだとしたら、それは進化よ」


「実に生物学者らしい考え方だ」


 そう言って暎二は苦笑いした。


「せっかくオフィスまで来てもらって悪いんだけど、まだ仕事が残ってるの。先に帰っててくれる?」


「ああ、わかった」


 暎二は菜月をつれてオフィスを出ようとするが、菜月が「えー、ママも一緒に帰ろうよー」と駄々をこねる。

「少し遅れて帰るだけだから、我慢して」と千鶴が申し訳なさそうに菜月を諫め、しぶしぶ父親に連れられ、オフィスを出てて行った。


 二人が出ていったあと、千鶴は再びアクリルケースの前に戻った。

 そして、蟻たちを見ながら、堪えていた笑いがこみ上げてきた。

 残っている仕事などない。

 二人の前で笑いを堪えるのが限界だったのだ。


「ふふ、ふふふ……あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ!!」


 ついにやった!!

 とうとうやった!!

 これでこの国は、私と私の娘を認めたんだ!!


 狂ったように笑う千鶴をよそに、蟻たちは黙々と働き続ける。

 このアクリルケースの中の蟻たちは、全て雌だった。

 雌だけでありながら、すでに何世代も交代している。


 単為生殖。

 本来は有性生殖する生物において、雌が単独で子を作る繁殖法であり、ミツバチ、スズメバチ、アリ、アブラムシといった小型の無脊椎動物で見られるものである。


 人間をはじめとする哺乳類では原則単為生殖で繁殖することはできないと言われている。

 哺乳類の遺伝子にはゲノムインプリンティングという母親由来か父親由来かを示すラベルがあり、どちらの親のものが発現するかが決まっている。

 単為生殖で、親がどちらかの性だけだと全く発現しない遺伝子が生じてしまい、子は生存できなくなる。


 だが、千鶴の研究チームは、人間の女性の卵子の染色体を変異させ、人間の単為生殖を可能にする技術を、四年前に開発したのだ。

 しかし、千鶴をはじめ研究チームは、この技術が一般利用されることはないだろうと思っていた。

 生命倫理に大きく抵触するからだ。

 この技術は論文発表のみで、別の技術への転用を検討されるはずだった。


 だが、そこで、神の悪戯、いや……悪魔の悪戯が起こってしまう。

 若く、美しく、聡明な千鶴に、大企業の御曹司である内田暎二が惚れ込んでしまったのだ。

 千鶴は暎二に全く興味がなかったのだが、暎二のアプローチは執拗で、最後には彼女の上司たちまで言いくるめ、罠に嵌められ関係を持ってしまった。

 千鶴は暎二を激しく憎悪したが、そこで千鶴はある復讐を思いついた。

 暎二との間に子供ができたことにして、単為生殖技術で子供を出産し、暎二に育てさせようと考えたのだ。

 かくして菜月が生まれた。

 彼女だけの遺伝子を引き継いだ彼女だけの娘だった。

 その菜月を暎二は自分の子供だと思って育てている。

 それだけではない。

 暎二には絶対に子孫を残させない。

 そのために暎二と結婚したのだ。

 暎二は生涯、自分の子孫を残せたと思ったまま死んで、その血を絶やすのだ。


 ここに至り、彼女の倫理観は完全に壊れてしまっていた。


 このように自分の遺伝子だけを残したい女性が世の中にはたくさんいるのではないか?

 単為生殖技術は世の中に必要なものではないか?


 そう考えた千鶴は暎二と暎二の父親を利用し、少子化対策としてある法案を成立させよう働きかけた。


 それが先ほど可決した“単為生殖医療推進法案”である。

 この法案により、単為生殖技術は国内で広く利用可能となるのだ。


「あは、あは、はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ!!」


 自らの野望の成就に千鶴は笑い続けた。

 笑い続ける千鶴をよそに、アクリルケースの中の蟻たちは働き続ける。

 いや、その中に急に動かなくなるものがいる。

 よく見ると巣の中は、生きている蟻よりも死んでいる蟻のほうが多かった。


 単為生殖で生まれた個体は短命なのだ……



 蟻と娘 完

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