隣の庭のサクランボ

いろは杏⛄️

隣の庭のサクランボ

 隣の庭のサクランボはいつも甘く感じる――私の祖国にある諺で、日本で言うところの『隣の芝生は青く見える』という諺と同義だ。


 日本の大学へ留学して3年――まさにその諺の意味を痛感している。


 🍒


 同じゼミの男の子――日本人の顔を区別することがあまり得意ではないということを差し引いても、取り立てて印象に残らない、そんな子がいた。


 当然私も興味がなかったのだが、風の噂でその男の子に彼女ができたことを知った――その瞬間から、全く興味のなかった彼がまさに隣の庭のサクランボに見えるようになったのだ。


 🍒


 私には所謂、悪癖がある。


 甘かろうが、甘くなかろうが隣の庭にサクランボがあったら食べてみたくなるのだ。

 どうせ食べるならば甘い方が好きだけれど。


 だから、小綺麗な服を着てお洒落をしたり、無造作だった髪を整えてみたり、およそ彼女のために頑張る彼の姿を見ると、まるでサクランボがどんどん熟しているような気さえした。


 🍒


 そうして食べ頃を伺っていた折に、ゼミでの飲み会が開催された。

 お酒の場ということもあり、ゼミ生たちは皆どこか高揚していた。故郷の法律の基、16歳からビールを飲んでいた私はこの程度では酔うことはないが、その雰囲気に乗じて彼に近づき、色々な話を聞いた。


 曰く、彼女のために実家を出て一人暮らしを始めたとか。

 曰く、同棲とまではいかなくても半同棲くらいの生活をしたかったのだが、思ったほど彼女が家に来てくれないとか。

 曰く、お互いに経験がなく清い関係が続いているとか。


 聞けば聞くほど、その甘さが想像できてしまい思わず過剰に唾液が分泌されてしまう。

 その唾液で喉を潤すと、ウイスキーの瓶を片手に再び彼との話に興じるのだった。


 🍒


 そんな調子で2次会まで大量のお酒を飲み続けた彼は見事に酔い潰れており、半分意識がない状態だった。


 こいつどうすんだよ――といった声が上がる中で、ゼミ生のリーダーが皆に声を掛ける。


「誰かこいつの家知ってる人いる? こんなんじゃ1人で帰れねぇだろうしよ」


 あまり目立つタイプではなかった彼は当然ゼミ内での交流も薄かったため、誰も答える人はいなかった――私を除いて。


「私、ちょうどさっきこの子の家の場所聞いたのよ。私と同じ路線みたいだから送っていくわ」


 私がそう言うとリーダーが助かったと言わばかりの表情を浮かべる。


「ありがとう、助かるよ! おい、聞いてたか? 送ってくれるみたいだからちゃんと家まで帰るんだぞ」

「……うぅ、迷惑かけて……ごめん……」


 それでその場は解散となる。皆は『送り狼に気をつけて』や、『あれ? どっちかでいえば送られ狼じゃね?』等と口々に言いながらも各々の岐路に足を向かわせる。


「……ほ、本当にごめんね……」


 なんとか残っている意識でそう伝えてくる彼。


「気にしないで――ゆっくり帰りましょう」


 私はそう言って彼に肩を貸しながらゆっくりと彼の家へ向かっていったのだった。


 🍒


「鍵、ある?」


 家の扉の前に着き、彼に問いかける。


「……ポ、ポケットに……入ってたと……思う」

「……ちょっとごめんなさいね」


 そう言って彼のズボンのポケットを弄ると、鍵の感触があったため取り出して鍵穴に差し込む。


 1Rの間取りだったためそのまま見えていたベッドへ彼を連れていき、横たわらせる。


「……あ、ありがとう……お礼は……また……ちゃんと……」


 既に限界だったのだろう――そう言って彼は意識を手放した。


 そして、首尾よく隣の庭に足を踏み入れることができた私は、目の前に横たわるサクランボを見て、再び唾液を滴らせたのだった。


 🍒


 玄関に戻るとそのまま帰るわけがなく、鍵と念入りにチェーンまでかけた上でシャワールームへ向かった。


 一糸纏わぬ姿になった私はまるで食前の儀式のごとくシャワーで全身を清める。

 儀式を終えタオルで全身を拭くと、そのままの姿で彼の下へ赴く。


 その寝顔を横目に、サクランボの皮を剥くが如く着ている衣類を剥いでいく。

 そして汚れなき綺麗な実が露わになったところで私はこう呟く。


Guten Hungerいただきます


 そしてわたしは目の前のサクランボに齧り付いた。


 甘い――!


 その甘美さは極上のものだった。そしてこのサクランボが隣の庭のモノであるというスパイスがさらにサクランボの甘さを引き立てる。

 この甘さは私にとってどの快楽よりも強く、病みつきになる。


 そのため1つでは物足りず2つ、3つとその極上の甘みを貪るように次々と啄んでいったのだった。


 🍒


 存分に最高のサクランボを味わった後に、中から種を取り出す。

 それをティッシュに包み、あえて隣の庭に備え付けてあるゴミ箱へ捨てる。


 それから身支度を整えると彼に近づき、そっと耳打ちをする。


「Es hat sehr gut geschごちそうさまでしたmeckt」


 隣の庭のサクランボは食べ尽くしてしまったから……また引越でもしないといけないわね――サクランボの木が庭にある家の隣にでも。

 そんなことを思いながら彼の家を後にするのだった。

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