第2章「約束の絆」~君が落ちた青い春~
第1話「古い写真」
放課後の図書準備室に、夕暮れの光が差し込んでいた。澪は図書委員としての仕事を終え、最後の片付けを行っていた。古い本の埃を払い、元の場所に戻していく。そんな日常的な作業の中で、彼女は一冊の分厚いアルバムを見つけた。
「これ、なに?」
表紙には「文化祭記録 1990-2010」と記されている。何気なく開いた頁に、澪は息を呑んだ。15年前の写真。音楽室でピアノを弾く少女の姿が写っていた。その横顔は、まぎれもなく陽菜そのものだった。
「あ、見つけちゃった」
背後から陽菜の声が聞こえる。澪が振り向くと、そこには懐かしそうな表情を浮かべる陽菜が立っていた。
「これ...」
「そうね。私、なの」
陽菜はそう言って、澪の隣に腰を下ろした。夕陽に照らされた彼女の横顔が、写真の少女と重なって見える。
「どうして...」
「説明するのは、まだ早いわ」陽菜は優しく微笑んだ。「でも、あなたはもう気づき始めているでしょう?」
アルバムをめくると、そこには当時の学校生活が記録されていた。文化祭でのピアノ演奏、図書委員会の活動、校庭での昼食風景。そのどれもが、現在の陽菜の行動と不思議なほど一致している。
「この写真、私が撮ったの」陽菜が一枚の写真を指さす。夕暮れの校舎を写したそれは、まるで絵画のように美しい一枚だった。「あの時は、毎日が特別で...」
その言葉は途中で途切れた。陽菜の瞳が、どこか遠くを見つめている。
「放課後のピアノ、覚えてる?」陽菜が突然聞いてきた。「私たちが作った曲」
澪は首を横に振った。しかし、心の奥で何かが疼くような感覚があった。
「そう...」陽菜は寂しそうに微笑む。「でも、きっと思い出すわ。私たちの約束を」
夕暮れの図書準備室に、不思議な空気が漂っていた。時間が歪んでいるような、過去と現在が交差しているような感覚。
「もう、こんな時間」陽菜が立ち上がる。「また明日ね」
その背中が、夕陽に溶けていくように見えた。アルバムには、もう一枚の写真が挟まれていた。文化祭の後、誰かと一緒に写る陽菜。しかし、その隣の人物の顔だけが、不自然なほどぼやけていた。
佐伯先生が部屋の前を通りかかり、中を覗き込んだ。その表情には、何か言いたげな陰が浮かんでいた。
「一ノ瀬さん、まだいたの」
「はい、片付けを...」
「そう」先生は少し間を置いて続けた。「懐かしいわね、そのアルバム」
澪は何か聞こうとしたが、先生は優しく首を振った。
「急いで帰りなさい。日が暮れるわ」
図書準備室に、最後の夕陽が差し込んでいた。アルバムの中の少女は、15年の時を超えて、今も変わらない微笑みを浮かべている。
その夜、澪は不思議な夢を見た。誰かとピアノを弾く夢。優しい旋律が響き、確かな温もりが伝わってくる。目が覚めた時、頬には涙が伝っていた。
第2話「消えた記録」
次の日、澪は図書室の片隅にある資料室を訪れていた。古い記録を探すため、ほこりの積もった棚の前に立つ。
「何を探してるの?」
突然の声に、澪は小さく息を呑んだ。振り向くと、そこには陽菜が立っていた。
「学校の記録を」
「私のこと?」陽菜は優しく微笑む。「見つかるかしら」
二人で古い記録をめくっていく。1990年代の学籍簿、行事記録、部活動の記録。しかし、15年前の記録には不自然な欠落があった。まるで誰かが意図的に取り除いたかのように。
「あ」陽菜の声が小さく響く。
一枚の新聞の切り抜きが、記録の間から滑り落ちた。古びた紙面には、かすれた活字が並んでいる。
『本校生徒 事故死 ー 文化祭準備中に転落か』
見出しを読んだ瞬間、陽菜の表情が曇った。澪が記事に目を向けようとすると、陽菜は素早くそれを手に取った。
「まだ、駄目」陽菜の声が震えている。「今は...」
資料室の窓から、夏に近づく陽光が差し込んでいた。陽菜の姿が、一瞬透けて見えたような気がした。
「ねえ」陽菜が話題を変えるように切り出す。「放課後、ピアノ室に来てくれない?」
「どうして?」
「思い出してほしいの。私たちの曲を」
その時、資料室のドアが開く音がした。佐伯先生が立っていた。
「こんなところにいたのね」先生の視線が、陽菜のいる方向を素通りする。「一人で何を探してるの?」
澪は混乱した。陽菜は確かにそこにいるのに、先生には見えていないのだろうか。
「私、もう行くわ」陽菜が小さく告げる。「放課後、待ってる」
その姿は、夏の陽射しの中に溶けていくように消えていった。残された澪と佐伯先生。先生の表情には、何かを知っているような陰が浮かんでいた。
「一ノ瀬さん」先生が静かに話し始める。「時には、忘れることも必要なのよ」
「でも...」
「でも、思い出すべきこともある」先生は窓の外を見つめながら続けた。「その時が来たら、私に話しかけて」
放課後、音楽室からピアノの音が聞こえてきた。澪は足を止め、その音に聞き入る。どこか懐かしい旋律。心が震えるような、優しい音色。
ドアを開けると、夕陽に染まった音楽室で陽菜が弾いていた。その姿は、15年前の写真と重なって見える。
「来てくれたのね」陽菜が振り返る。「一緒に弾きましょう」
澪は迷いながらも、ピアノの前に座る。鍵盤に触れた瞬間、見知らぬはずの旋律が、指先から自然に流れ出した。
「覚えてるのね」陽菜の目に、涙が光る。「私たちの曲を」
夕暮れの音楽室に、二人の奏でる音色が響いていった。時間が止まったような、永遠が流れているような、不思議な瞬間。
その日の夜、澪は再び夢を見た。15年前の夏の日、誰かと交わした約束の夢。目覚めた時、心の奥で何かが確かに動き始めていた。
第3話「重なる風景」
音楽室で陽菜と過ごす時間が、日常となっていた。その日も放課後、二人でピアノを弾いていた。
「あ、この廊下の先にも」陽菜が突然話し始めた。「昔は音楽準備室があったのよ」
「準備室?」
「ええ。古い楽器とか、使わなくなった譜面台とか」陽菜は懐かしそうに目を細める。「でも、10年前の改築で無くなってしまったわ」
澪は立ち止まった。その情報は、どこからも聞いたことがなかった。
「よく知ってるね」
「ああ」陽菜は少し慌てたように視線を逸らす。「誰かから聞いたのかしら」
二人は廊下を歩いていく。夕暮れの光が、窓から差し込んでいた。
「あ、三谷先生」陽菜が突然声をあげる。
「三谷先生?」
「ほら、数学の...」陽菜の言葉は途中で途切れた。「ごめんなさい。もう退職されたのよね」
澪は首を傾げた。三谷という名前の先生は、確かに数年前まで数学を教えていたという。しかし、陽菜が転入してきたのは今年の春。どうして知っているのだろう。
「陽菜は、この学校のこと、よく知ってるよね」
「そう...かしら」陽菜の声が少し震える。「でも、私にとってはとても大切な場所だから」
その時、廊下の向こうから佐伯先生が歩いてきた。
「一ノ瀬さん」先生は澪だけに声をかける。「まだ学校にいたの」
「はい、陽菜と...」
澪が横を向いた時、陽菜の姿はなかった。最初からそこにいなかったかのように。
「陽菜...ですか」佐伯先生の表情が複雑に揺れる。
「先生には、見えないんですか?」
「何が?」
「陽菜が、ここにいるの」
先生は長い間黙っていた。夕暮れの廊下に、重い空気が流れる。
「一ノ瀬さん」先生が静かに口を開く。「あなた、水城さんのこと、少しずつ思い出してきているのね」
「思い出す...?」
「ええ」先生はそれ以上何も言わなかった。「さあ、もう遅いわ。帰りましょう」
帰り道、澪は学校を振り返った。夕陽に染まる校舎の窓辺に、陽菜が立っているような気がした。手を振る仕草が、夕暮れの中に溶けていく。
その夜、澪は古い新聞記事を探した。15年前の事故のこと。しかし、図書館のデータベースからも、その記録は消されていた。
夢の中で、誰かが語りかけてくる。
「約束したでしょう?」
「私のこと、絶対に忘れないって」
目覚めた時、澪の枕は涙で濡れていた。窓の外では、夏の気配が色濃くなっていた。時間が、ゆっくりと、しかし確実に動き出している。
そして陽菜は、少しずつ、透明になっていくような気がした。
第4話「見えない存在」
図書委員会の活動中、澪は古い会報を整理していた。ふと目に留まったのは、15年前の文化祭特集号。表紙には大きくピアノコンサートの記事が載っている。
「これ...」
演奏者として「水城陽菜」の名前が記されていた。隣には誰かとの連弾の記録があるが、その名前部分だけが不自然に擦り切れている。
「あの記事、見つけたのね」
陽菜の声に振り向くと、彼女は窓際に佇んでいた。夏の陽射しが強くなり、その姿がより透明に見える。
「どうして、他の人には見えないの?」
陽菜は静かに微笑んだ。「それは、まだ言えないわ」
その時、図書委員の千夏が部屋に入ってきた。
「澪、誰かと話してたの?」
「ううん...」
千夏は不思議そうな顔をして、本棚の方へ向かう。陽菜はそっと澪に近づいた。
「ねえ、放課後、中庭に来てくれない?」
「中庭?」
「昔の、秘密の場所」
放課後、澪は中庭へと向かった。古い銀杏の木の下に、陽菜が立っていた。
「この木の下で、初めて話したのよ」陽菜が懐かしそうに見上げる。「あなたは一人で本を読んでいて...」
風が吹き、銀杏の葉が揺れる。その音が、どこか遠い記憶を呼び起こすような気がした。
「でも、私には覚えていないわ」
「うん、そうね」陽菜は寂しそうに微笑む。「でも、きっと思い出すわ」
二人は木陰に腰を下ろした。夏の陽射しが葉の間から漏れ、斑模様を地面に描いている。
「私ね」陽菜が静かに語り始める。「あなたにしか見えないのは、きっと理由があるの」
「理由?」
「ええ。私たちには、果たさなければならない約束があるから」
その時、下校時のチャイムが鳴り響いた。陽菜は立ち上がり、夕陽に向かって歩き出す。
「また明日ね」
その姿は、まるで光の中に溶けていくようだった。
帰り際、澪は佐伯先生と出会った。先生は中庭を見つめ、何か考え込むように立っていた。
「先生?」
「ああ、一ノ瀬さん」先生は優しく微笑んだ。「昔を思い出していたの」
「昔...」
「ええ。この木の下で、よく二人で本を読んでいたわね」
その言葉に、澪の心が強く揺れた。「二人」という言葉が、深い意味を持つように感じられた。
その夜、澪は再び夢を見た。銀杏の木の下で、誰かと一緒に本を読んでいる夢。そこには確かな温もりと、優しい声が存在していた。
目覚めた時、窓の外では夏の星が瞬いていた。そして澪は気づいた。陽菜の姿が、日に日に透明になっていくことに。時間が、確実に流れ始めているのだと。
第5話「秘密の場所」
教室の空気が妙に重かった。夏が近づき、蒸し暑さが増してきていた。
「屋上、行かない?」
陽菜の声に、澪は顔を上げた。昼休みの教室で、陽菜だけが澪の席の横に立っていた。他の生徒たちには、その姿が見えない。
「屋上?立入禁止じゃ...」
「大丈夫」陽菜が微笑む。「誰も来ない場所があるの」
階段を上がり、重い扉を開けると、強い日差しが二人を包んだ。陽菜は慣れた様子で屋上の端へと歩いていく。古い給水塔の影に、小さな空間があった。
「ここが、私たちの秘密の場所」
風に揺れる古い風鈴の音が、懐かしい思い出のように響く。
「前から、ここにあったの?」
「ええ」陽菜はしみじみと風鈴を見つめた。「15年前から」
澪は息を呑んだ。陽菜の存在が、ますます不思議なものに感じられる。
「私ね」陽菜が静かに語り始めた。「ずっとあなたを探していたの」
「私を...?」
「ええ。約束があったから」
夏の風が二人の間を通り抜けていく。陽菜の姿が、一瞬透き通って見えた。
「でも、どうして私だけに見えるの?」
「それはね」陽菜は海の方を見つめた。「あなたの中に、私の記憶があるから」
その時、風鈴が強く鳴った。陽菜の手が、澪の手に重なる。温かい。確かな存在を感じる。
「あの夏の日、私たちは約束したの」陽菜の声が風に乗って流れる。「でも、私は...その約束を果たせなかった」
遠くで、蝉の声が響いていた。夏の訪れを告げるような、切ない音色。
「何を約束したの?」
「それは」陽菜が優しく微笑む。「あなたが思い出すことなの」
屋上の片隅で、二人は黙って空を見上げていた。風鈴の音だけが、静かな時間を刻んでいく。
「あのね」陽菜が突然言った。「私の時間は、限られているの」
「時間?」
「ええ。だから...」
その言葉は、風に消されてしまった。陽菜の姿が、夏の陽射しに溶けていくように見える。
「もう、戻らなきゃ」陽菜が立ち上がる。「でも、また来ようね。私たちの場所に」
放課後、澪は一人で屋上に戻ってきた。風鈴は、確かにそこにあった。古びた青い風鈴。誰かの大切な思い出のように、静かに揺れている。
「一ノ瀬さん」振り向くと、佐伯先生が立っていた。
「先生...」
「その風鈴」先生が優しく微笑む。「大切なものなのよ」
澪には、先生の言葉の意味が分からなかった。ただ、風鈴の音が、どこか遠い記憶を呼び起こすような気がした。
夏の風が、静かに吹いていた。
第6話「同じ夢」
深い青の世界。澪は夢の中にいた。
「ここで待ってるから」
誰かの声が響く。懐かしい声。確かな温もり。
目が覚めると、頬には涙が伝っていた。
朝の教室。陽菜が静かに近づいてきた。
「昨夜、夢を見たでしょう?」
澪は驚いて顔を上げた。「どうして...」
「私も、同じ夢を見たの」
陽菜の瞳が、懐かしさに潤んでいた。
「青い世界で、誰かを待つ夢」
「ええ」陽菜が頷く。「私たちが最後に会った場所」
授業が始まる前の教室。二人だけの時間が流れていく。陽菜の姿が、朝の光に透けて見えた。
「記憶が、少しずつ戻ってきてるの」澪が静かに言った。
「うん。でも、まだ全部は...」
「なぜ、私の記憶は消されたの?」
陽菜は窓の外を見つめた。朝の光が、彼女の横顔を優しく照らしている。
「それは、あなたを守るためだったの」
「守る?」
「ええ。あまりにも辛い記憶から」
その時、教室のドアが開いた。クラスメイトたちが次々と入ってくる。陽菜の姿は、朝の光の中に溶けていった。
放課後、音楽室でピアノを弾いていると、また同じ夢の断片が蘇ってきた。青い世界。待ち合わせの約束。そして、果たせなかった何か。
「思い出したの?」陽菜が隣に座る。
「少しだけ」澪は鍵盤に手を置いたまま言った。「でも、まだ...」
二人で連弾を始める。懐かしい旋律が、夕暮れの音楽室に響いていく。
「この曲も、私たちで作ったのよ」
「いつ?」
「あの夏の終わり」陽菝の指が一瞬止まる。「文化祭の前に」
演奏が終わると、陽菜はゆっくりと立ち上がった。
「もうすぐ」
「何が?」
「全てを思い出す時が」
夕暮れの光が、陽菜の姿をより透明に見せていた。
その夜、澪は再び青い世界の夢を見た。今度は、もう少し鮮明に。音楽室でピアノを弾く二人。文化祭の準備。そして...事故の記憶。
目が覚めた時、記憶の欠片が少しずつ繋がり始めていた。なぜ陽菜が自分にしか見えないのか。なぜ記憶が消されたのか。
窓の外では、夏の星が静かに瞬いていた。もうすぐ、全ての真実が明らかになる。そんな予感が、澪の心を満たしていた。
時計の針が、確実に進んでいく。残された時間が、少しずつ減っていくように。
第7話「重なり合う記憶」
図書室の窓から、真夏の陽射しが差し込んでいた。澪は古い新聞を読んでいた。15年前の文化祭の記事。そこには確かに、ピアノ演奏会の写真が載っている。
「見つけたのね」
振り向くと、陽菜が立っていた。夏服姿の彼女は、陽光に透けて見えるほど儚げだった。
「このピアノ演奏会」澪が記事を指さす。「二人で演奏したの?」
「ええ」陽菜が懐かしそうに微笑む。「練習したわね。毎日放課後に」
その瞬間、澪の中で記憶が蘇った。放課後の音楽室。二人で向かい合ってピアノを弾く姿。笑い合う声。温かな記憶。
「私...思い出した」
「うん」陽菜の目が潤む。「少しずつ、戻ってきているのね」
夏の日差しが強くなり、陽菜の姿がより透明になっていく。
「でも、なぜ...」
「事故の後、あなたは全てを忘れることを選んだの」陽菜が静かに語り始める。「あまりにも辛い記憶だったから」
その時、図書室のドアが開いた。佐伯先生が立っていた。
「一ノ瀬さん」先生は澪だけを見つめる。「その記事、見つけたのね」
「はい...」
「私も覚えているわ。あの文化祭の日のこと」
陽菜は黙って二人を見つめていた。夏の陽射しの中で、その姿はますます儚くなっていく。
「先生は、全て知っているんですか?」
「ええ」先生は窓の外を見た。「あの日のことも、その後のことも」
突然、澪の頭に鮮明な映像が浮かんだ。文化祭の準備。ピアノの練習。そして...事故の瞬間。
「あ...」
記憶が押し寄せてきて、澪は頭を抱えた。
「まだ早いわ」陽菜が慌てて言う。「全ては、その時が来るまで」
佐伯先生は黙って澪を見つめていた。その目には、深い思いが宿っている。
「一ノ瀬さん」先生が静かに言った。「時には、忘れることで守られる記憶もあるの。でも、いつかは向き合わなければならない」
陽菜の姿が、夏の光の中にゆっくりと溶けていく。
「また、音楽室で待ってるわ」
その声が消えた後も、図書室には不思議な余韻が残っていた。
夕方、澪は音楽室へ向かった。夕陽に染まる部屋で、陽菜が待っていた。
「この曲を覚えてる?」陽菜がピアノを弾き始める。
優しい旋律が響き渡る。澪の心の中で、記憶が少しずつ形を取り始めていた。
二人で作った曲。文化祭で演奏するはずだった曲。そして...果たせなかった約束。
夏の夕暮れが、静かに過ぎていく。時間が、確実に動き出していた。
第8話「透明な存在」
蝉の声が響く午後。教室に残っていた澪の耳に、ピアノの音が聞こえてきた。
「また、弾いているんだ」
誰もいないはずの音楽室から流れる旋律。陽菜の奏でる音色は、夏の陽射しのように透明で儚かった。
音楽室のドアを開けると、陽菜が振り返った。その姿が、一瞬窓からの光に溶けそうになる。
「聴きに来てくれたのね」
「うん」澪はピアノの横に立った。「最近、陽菜の姿が...」
「見えづらくなってきてる?」陽菜が優しく微笑む。「ええ、そうなの」
二人で窓際に腰掛ける。夏の日差しが強く、まぶしいほどだった。
「私の時間は、限られているの」陽菜がゆっくりと語り始める。「この形で会えるのも、あとわずか」
「どうして?」
「約束を果たすため」陽菜は空を見上げた。「15年前の、あの約束を」
その時、廊下から足音が聞こえてきた。クラスメイトの千夏が顔を出す。
「あれ、澪?誰かと話してたの?」
「ううん...」澪は戸惑いながら答えた。
「そう?」千夏は不思議そうな顔をして立ち去った。
陽菜は静かに立ち上がり、ピアノの前に座る。
「この曲、完成させなきゃいけないの」
「文化祭の曲?」
「ええ。私たちの最後の...」
陽菜の指が鍵盤に触れた瞬間、澪の中で記憶が蘇る。二人で必死に練習した日々。笑顔で約束を交わした瞬間。そして...。
「まだ、その先は早いわ」陽菜が演奏を止める。「でも、もうすぐ全てを思い出せるはず」
夕暮れが近づき、音楽室が橙色に染まっていく。陽菜の姿が、より透明になっていた。
「私ね」陽菜が窓の外を見つめながら言う。「あなたに会えて、本当に良かった」
「陽菜...」
「15年間、ずっと待っていたの。あなたが記憶を取り戻すのを」
放課後の校舎に、二人の影が重なる。しかし陽菜の影は、もう床に映らなくなっていた。
「もうすぐ」陽菜が立ち上がる。「全ての記憶が戻ってくる。そして...」
その言葉は、夕陽の中に消えていった。
その夜、澪は再び夢を見た。文化祭の準備。ピアノの練習。そして、交わした約束。
しかし、その先は霧の中。まだ、その時は来ていないようだった。
窓の外では、夏の星が瞬いている。時間が、ゆっくりと、しかし確実に流れていく。
そして陽菜は、少しずつ、この世界から消えていこうとしていた。
第9話「夏の予感」
梅雨が明けた朝。澪は教室の窓から、眩しいほどの青空を見上げていた。
「今日から、本格的な夏ね」
陽菜の声が聞こえる。振り向くと、そこには制服姿の彼女が立っていた。朝の光を受けて、その姿はより一層透明に見えた。
「陽菜、どんどん...」
「ええ」陽菜は自分の手を見つめた。「私の時間が、少なくなってきているの」
朝の教室は、まだ誰も来ていない。二人だけの静かな時間が流れる。
「あのね」陽菜が切り出した。「文化祭まで、あと一ヶ月だったの」
「15年前の?」
「うん。私たちは、そこで演奏する約束をしていた」
突然、澪の頭に鮮明な映像が浮かんだ。夏の終わりの音楽室。二人で必死に練習する姿。笑顔で交わした約束。
「少しずつ、思い出してきたわ」
「そう」陽菜の表情が明るくなる。「でも、その先は...」
教室のドアが開く音がした。クラスメイトたちが次々と入ってくる。陽菜の姿は、朝の光の中に溶けていった。
放課後、澪は音楽室へ向かった。夕暮れの光が差し込む中、陽菜がピアノを弾いていた。
「この曲」澪が言う。「私たちが作った...」
「ええ。文化祭で演奏するはずだった曲」
二人でピアノの前に座る。陽菜の指が、透き通るように見えた。
「でも、演奏できなかった」
「うん」陽菜の声が震える。「事故の日まで、私たちは毎日練習していたのに」
その瞬間、澪の中で何かが揺れた。事故。まだ霧の中にある記憶。しかし、確実に近づいてくる真実。
「陽菜、私...」
「まだよ」陽菜が静かに遮る。「その時が来るまで、もう少し」
夕陽が二人を包み込む。陽菜の姿が、光の中に溶けていくように見えた。
「私の時間は、もうあまり残されていないわ」陽菜が窓の外を見つめる。「でも、約束は果たさなきゃいけない」
「どんな約束?」
「それは」陽菜が微笑む。「あなたが全て思い出した時に」
音楽室に、二人の演奏する旋律が響く。懐かしく、そして切ない音色。
佐伯先生が、廊下から二人を見守っていた。その目には、深い思いが宿っている。
「もうすぐね」先生が小さくつぶやいた。「全ての記憶が戻ってくる時が」
夏の風が、カーテンを静かに揺らしていた。時間は、確実に進んでいく。
そして陽菜は、この世界からゆっくりと消えていこうとしていた。
第10話「記憶の扉」
夏の日差しが強くなった午後。澪は図書室の奥で、古い記録を探していた。
「見つかったの?」
振り向くと、陽菜が本棚の影から現れた。夏服姿の彼女は、まるでガラス細工のように透き通って見える。
「うん」澪は一枚の写真を取り出した。「文化祭の実行委員会の記録」
そこには、15年前の委員会メンバーが写っていた。前列の中央に陽菜。そして、その横に...。
「私...」澪の声が震える。
「ええ」陽菜が優しく微笑む。「私たちは、一緒に実行委員だったの」
その瞬間、澪の中で記憶が洪水のように溢れ出した。
委員会での打ち合わせ。プログラムの編集。そして、文化祭のフィナーレを飾るはずだった二人のピアノ演奏。
「どうして」澪が呟く。「どうして私は、全てを忘れていたの?」
陽菜は窓の外を見つめた。夏の陽射しが、その姿をより透明に見せている。
「それは、あなたが選んだことだったの」
「私が?」
「ええ。あまりにも辛い記憶から、自分を守るために」
図書室に重い沈黙が流れる。外では蝉の声が響いていた。
「でも、もう大丈夫」陽菜が続ける。「あなたは、強くなった」
その時、佐伯先生が部屋に入ってきた。陽菜の姿は、本棚の影に溶けていった。
「一ノ瀬さん」先生が静かに声をかける。「その写真、覚えているでしょう?」
「はい...少しずつ」
「あの日のこと、思い出せる?」
澪は首を振った。しかし、心の奥で何かが確実に動き始めていた。
「事故の日、私たちは...」
その先の言葉は、喉の奥で詰まった。まだ、その記憶は霧の中。
放課後、澪は音楽室に向かった。夕暮れの光の中、陽菜がピアノを弾いていた。
「この曲、もうすぐ完成ね」陽菜が言う。
「うん」澪が隣に座る。「でも、あの時は...」
「ええ。演奏できなかった」
二人の指が鍵盤に触れる。懐かしい旋律が、夕暮れの音楽室に響いていく。
「でも今度は」陽菜の声が透明な空気に溶けていく。「約束を果たさなきゃ」
その夜、澪は再び夢を見た。文化祭前日の出来事。二人で最後の練習をしていた音楽室。そして...。
目が覚めた時、枕は涙で濡れていた。記憶の扉が、少しずつ開いていく。
そして時間は、確実に流れていた。
第11話「揺れる想い」
真夏の日差しが、音楽室を金色に染めていた。放課後、澪は一人でピアノを弾いていた。
「その曲、上手くなったわね」
陽菜の声に振り向くと、夕陽に透けるような姿で彼女が立っていた。
「でも、まだ完璧じゃない」
「ええ」陽菜がピアノの横に座る。「あの時も、私たちはずっと練習していたわ」
二人で連弾を始める。懐かしい旋律が、夏の空気に溶けていく。
「陽菜」澪が突然、鍵盤から手を離した。「私、思い出したの」
「何を?」
「文化祭の前日。私たちがここで...」
陽菜の指が止まる。夕暮れの光が、その透明な姿をより儚く照らしていた。
「ええ」陽菜の声が震える。「私たちは、約束したのよ」
「必ず、二人で演奏すると」
「そう。でも私は...」
その時、廊下から足音が聞こえた。佐伯先生が立っていた。
「一ノ瀬さん」先生が静かに声をかける。「もう、思い出したの?」
「はい、少しずつ」澪は窓の外を見つめた。「でも、その後のことは...」
陽菜は黙って二人を見つめていた。その姿は、夕陽に溶けそうなほど透明だった。
「あの日」佐伯先生が続けた。「あなたたちは、最後の練習をしていた」
「先生も、見ていたんですか?」
「ええ。二人の演奏を聴きながら、文化祭が楽しみだと思っていたわ」
突然、澪の頭に鮮明な映像が浮かんだ。夕暮れの音楽室。最後の練習。そして...。
「まだよ」陽菜が急いで遮る。「その先は、もう少し待って」
夏の風が窓から入り込み、カーテンを揺らす。陽菜の姿が、風に散るように薄れていく。
「私、もう行かなきゃ」
「陽菜...」
「でも大丈夫」陽菜が微笑む。「もうすぐ、全てを思い出せる時が来るわ」
その声は、夕暮れの空気に溶けていった。残された澪と佐伯先生。
「先生」澪が呟く。「私、陽菜のことを...」
「ええ」先生が優しく頷く。「あなたは、彼女のことが好きだったのよ」
その言葉に、澪の心が大きく揺れた。記憶の中の想い。失われた時間。そして、果たせなかった約束。
夜、澪は再び夢を見た。文化祭前日の夕暮れ。二人で交わした約束。そして、その直後に起きた出来事。
目覚めた時、記憶はまだ霧の中。でも、確実に近づいていた。全ての真実が明らかになる瞬間が。
第12話「迫る真実」
夏の暑さが頂点に達した午後。澪は音楽室で一人、ピアノに向かっていた。
「もうすぐね」
振り向くと、陽菜が窓際に立っていた。その姿は夏の陽射しに溶けそうなほど透明で、まるで光そのもののようだった。
「うん」澪は鍵盤に触れたまま答えた。「あの日のこと、少しずつ思い出してきた」
陽菜はゆっくりとピアノの前に座る。その動作さえも、空気の揺らぎのように儚かった。
「文化祭の前日」澪が静かに語り始める。「私たち、ここで最後の練習をしていた」
「ええ」
「そして、約束したの」
「覚えているのね」陽菜の声が震えた。
二人で連弾を始める。懐かしい旋律が、夏の午後に響いていく。
「私、陽菜のことが...」澪の指が一瞬止まる。
「うん」陽菜が優しく微笑む。「私も、あなたのことが好きだった」
その瞬間、澪の中で記憶が鮮明に蘇った。
文化祭前日の夕暮れ。最後の練習を終えた後、二人は約束を交わした。明日の演奏が終わったら、気持ちを伝えようと。
「でも」陽菜の声が遠くなる。「私は、その約束を果たせなかった」
突然、事故の場面が澪の脳裏に浮かび上がった。練習後、楽譜を取りに二階に戻った陽菜。古い手すりが外れ、陽菜が落ちていく瞬間。
「あっ...」澪が頭を抱える。
「まだ早いわ」陽菜が慌てて言う。「その記憶は...」
その時、佐伯先生が音楽室に入ってきた。
「一ノ瀬さん」先生が心配そうに近づく。「大丈夫?」
「先生...私、思い出しそうで...」
「ええ」先生は窓の外を見つめた。「でも、全ては時が来るまで」
陽菜の姿は、夏の光の中にゆっくりと溶けていった。
「私の時間も、もうわずかよ」最後の言葉だけが、空気に残る。
その夜、澪は再び夢を見た。文化祭前日の出来事が、より鮮明に。二人の約束。そして、その直後の悲劇。
目が覚めた時、全ての記憶が戻りそうな予感があった。でも、まだその時ではない。
窓の外では、夏の星が静かに瞬いていた。時間は、確実に最後の瞬間へと近づいていた。
そして陽菜は、この世界から消えゆく存在として、最後の時を待っていた。
第13話「記憶の解放」
蝉の声が響く午後。澪は音楽室で一人、窓の外を見つめていた。
「もう、全て思い出せそう?」
振り向くと、陽菜が立っていた。夏の強い陽射しに、その姿はほとんど透明になっていた。
「うん」澪は静かに頷いた。「あの日のこと、少しずつ...」
陽菜はピアノの前に座り、優しく鍵盤に触れた。
「文化祭前日」澪が語り始める。「私たち、ここで最後の練習をしていた」
「ええ」
「そして、約束したの。明日の演奏が終わったら...」
「気持ちを伝えようって」陽菜の声が震えた。
その瞬間、全ての記憶が鮮明に蘇った。
練習を終えた後、陽菜は楽譜を取りに二階へ。古い手すりが外れ、陽菜が落ちていく。澪は、その光景を目の当たりにした。
「陽菜!」
突然の叫び声が、音楽室に響いた。
「ようやく、思い出したのね」陽菜の声が、風のように優しい。
澪の頬を、涙が伝う。
「私、見ていたのに...助けられなかった」
「違うわ」陽菜が近づく。「あなたは悪くない」
「でも...」
「それより」陽菜が微笑む。「伝えたい言葉があるでしょう?」
二人は向かい合った。夕暮れの光が、音楽室を金色に染めていく。
「陽菜」澪の声が震える。「私、ずっと...」
「うん」
「あなたのことが、好きだった」
陽菜の目に、光る涙が浮かんだ。
「私も」陽菜の声が、風のように揺れる。「ずっと、あなたのことが好きだった」
その瞬間、陽菜の姿がより透明になっていく。
「ごめんね」陽菜が言う。「約束を、あの時果たせなくて」
「陽菜...」
「でも今、ちゃんと伝えられた」
佐伯先生が、静かにドアを開けた。
「一ノ瀬さん」先生の声が優しい。「全て、思い出したのね」
「はい」澪は涙を拭った。「もう、大丈夫です」
陽菜は窓際に立ち、夕陽に向かって歩き出す。
「ありがとう」最後の言葉が、空気に溶けていく。「また、会えて本当に良かった」
その姿は、夏の夕暮れに溶けるように消えていった。
永遠の一瞬が、そこにはあった。15年の時を超えて、やっと果たされた約束。
そして新しい約束が、始まろうとしていた。
第14話「永遠の約束」
夏の夕暮れが、音楽室を金色に染めていた。澪はピアノの前に座り、静かに鍵盤に触れる。
「私たちの曲、もう一度弾いてみる?」
陽菜の声が、風のように優しく響いた。その姿は夕陽に溶け込むように透明で、まるで光そのものだった。
「うん」
二人の指が鍵盤に触れた瞬間、懐かしい旋律が広がり始める。15年前に作った曲。約束の証だった音色が、今、再び響き渡る。
「あのね」陽菜が演奏しながら言う。「私、この時を待っていたの」
「待っていた?」
「ええ。あなたが全てを思い出し、そして前に進めるようになるまで」
夕暮れの光が、二人を優しく包み込む。
「あの日、私が言えなかった言葉」陽菜の声が震える。「今なら、ちゃんと伝えられる」
演奏が続く中、陽菜の姿がより透明になっていく。
「私ね、15年間ずっと」陽菜が続ける。「あなたのことを見守っていたの」
「陽菜...」
「だって、私たちには約束があったから」
最後の音が響き渡る。その瞬間、陽菜の体が光の粒子となって、夕陽の中へと溶けていく。
「ありがとう」陽菜の最後の言葉が、空気の中に残される。「これからは、ちゃんと前を向いて」
佐伯先生が、音楽室のドアの前で静かに立っていた。
「先生」澪が振り向く。「もう、大丈夫です」
「ええ」先生が優しく微笑む。「あなたは強くなった」
窓の外では、夏の風が吹いていた。失われた時を取り戻し、そして前に進んでいく。それが、陽菜との新しい約束。
数日後、澪は音楽室で一枚の写真を見つけた。文化祭前日の二人の姿。ピアノの前で笑顔の陽菜と、その隣で照れる自分。
「これからは」澪は空を見上げた。「ちゃんと覚えていられる」
夏の光が、静かに音楽室を照らしていた。どこからか、懐かしいピアノの音が聞こえるような気がした。
時を超えた想いは、永遠の中に生き続ける。そして新しい季節が、静かに始まろうとしていた。
「また、いつか」
澪はそっと微笑んだ。永遠は、この想いの中にある。
第15話「夏の終わりに」
蝉の声が遠くなり始めた午後。澪は一人、音楽室のピアノの前に座っていた。陽菜が消えてから、数日が過ぎていた。
窓から差し込む光が、少しずつ秋の気配を帯び始めている。鍵盤に触れると、懐かしい旋律が自然と指から流れ出す。二人で作った曲。約束の証。
「上手くなりましたね」
振り向くと、佐伯先生が立っていた。
「先生...」
「あの日以来、毎日練習していますもの」先生は窓際に立ち、外を見つめた。「陽菜さんも、きっと喜んでいると思います」
澪は静かに頷いた。陽菜との最後の時間から、彼女は毎日この曲を弾いていた。もう二度と会えない人への、静かな手紙のように。
「先生は、ずっと知っていたんですよね?」
「ええ」先生は懐かしそうに微笑んだ。「あの文化祭の前日も、私は二人の練習を見ていました」
夏の陽射しが、ピアノの上に金色の模様を描いている。
「でも、なぜ私は記憶を...」
「あまりにも辛い出来事でした」先生が静かに答える。「あなたの心が、自分を守るために」
澪は鍵盤に手を置いたまま、窓の外を見つめた。
「でも今は」澪が言う。「ちゃんと覚えていられます」
「ええ。あなたは強くなった」
突然、風が吹き込み、カーテンが大きく揺れた。一瞬、そこに陽菜の姿が見えたような気がした。
「先生」澪が立ち上がる。「私、来年の文化祭で、この曲を弾きたいんです」
「文化祭で?」
「はい。15年前に果たせなかった約束を」
先生は優しく微笑んだ。「素敵な考えですね」
その時、図書委員の千夏が顔を出した。
「あ、澪。文化祭の実行委員、やってくれない?」
「実行委員...」
「うん。音楽部門の責任者として」
澪は窓の外を見た。夏の終わりの空が、眩しいほど青い。
「うん、やります」
その答えに、佐伯先生が静かに頷いた。
放課後、澪は一人で屋上に上がった。陽菜との秘密の場所で、古い風鈴が今も揺れている。
「陽菜」澪は空に向かって呟いた。「私、前に進むわ。でも、決して忘れない」
夏の風が、優しく頬を撫でていった。どこかで、ピアノの音が聞こえるような気がした。
新しい季節が、静かに始まろうとしていた。そして澪は、陽菜との約束を胸に、一歩を踏み出そうとしていた。
第16話「新しい始まり」
夏の終わりを告げる風が、校舎を吹き抜けていた。澪は文化祭実行委員会の資料を手に、音楽室へと向かう。
ドアを開けると、夕暮れの光が金色に差し込んでいた。ピアノの前に立ち、澪は静かに鍵盤に触れる。
「もう少しで、新しい文化祭の準備が始まるのね」
佐伯先生が、いつの間にか後ろに立っていた。
「はい」澪は窓の外を見つめながら答えた。「今度は、私が責任者として」
先生は澪の横に立ち、共に夕暮れを見つめる。
「陽菜さんも、きっと喜んでいると思います」
「ええ」澪は微笑んだ。「だから、ちゃんとやり遂げたいんです」
その時、一陣の風が吹き込み、楽譜が舞い上がった。澪が拾い上げると、それは15年前の文化祭プログラムのコピーだった。
「これ...」
「ええ」先生が頷く。「あの時の記録です」
プログラムの最後に、二人の名前が記されていた。フィナーレを飾るはずだった演奏。
「先生」澪が決意を込めて言う。「来年の文化祭で、この曲を完成させます」
「素晴らしい決意ですね」
夕暮れの音楽室に、懐かしい旋律が響き始める。澪の弾くピアノの音色が、優しく空間を満たしていく。
「不思議ね」澪が演奏しながら言う。「もう陽菜は見えないのに、傍にいるような気がする」
「それは、きっと」先生が優しく微笑む。「永遠の絆があるからでしょう」
最後の音が消えていく中、千夏が部屋に入ってきた。
「澪、明日の実行委員会の資料、できた?」
「うん、もう大丈夫」
夕陽が沈みかける空を、三人で見上げる。
「新しい文化祭」千夏が言う。「きっと素敵なものになるよ」
「ええ」澪は静かに頷いた。「必ず」
帰り道、澪は校舎を振り返った。夕暮れに染まる窓辺に、かすかに陽菜の面影を感じる。
「私、頑張るから」心の中でそっと呟く。「だから、見守っていてね」
夏の終わりの風が、優しく澪の頬を撫でていった。新しい季節の始まりを告げるように。
時を超えた想いは、永遠に心の中で生き続ける。そして澪は、陽菜との約束を胸に、確かな一歩を踏み出そうとしていた。
これは終わりではなく、新しい物語の始まり。永遠の青い春が、また新たな季節へと移ろいでいく。
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