第3章「記憶の迷宮」~君が落ちた青い春~
第1話「古い記録」
夏の日差しが強くなり始めた7月初旬、文化祭実行委員会の準備が本格的に動き出していた。澪は準備室の古い書類を整理しながら、陽菜との約束を思い出していた。
「文化祭、一緒に何かやりましょう」
陽菜の言葉には、どこか切実なものが感じられた。澪はその理由が分からないまま、頷いていた。
「あら、古い資料が出てきたわね」
佐伯先生が覗き込む。ほこりを被った段ボールの中から、15年前の文化祭プログラムが出てきた。
「これ...」澪が手に取ると、佐伯先生の表情が微妙に変化する。
「ああ、あの年の...」
言葉を途切れさせる先生。澪は不思議に思いながらもプログラムに目を通す。
最後のページに目が留まった。フィナーレを飾るはずだったピアノ連弾。出演者の欄に「水城陽菜」の名前があった。
「先生、これは...」
佐伯先生は困ったように目を逸らす。その時、陽菜が準備室に入ってきた。
「澪、次の打ち合わせの時間...」
陽菜の言葉が途切れる。彼女の視線がプログラムに固定された。
「ああ、懐かしい」
陽菜がつぶやく。その声は、まるで遠い記憶を辿るかのように儚かった。
「陽菜、これ知ってるの?」
質問する澪に、陽菜は優しく微笑む。しかしその表情には、どこか切ない影が見えた。
「ええ、知ってるわ。だって...」
その言葉は途中で消えた。突然の風に、窓が大きく開く。散らばった書類を慌てて拾い集める間に、陽菜の姿が消えていた。
「陽菜?」
呼びかける澪に、佐伯先生が静かに告げる。
「彼女なりの、覚悟があるのかもしれませんね」
「覚悟...?」
答えない先生。ただ窓の外を見つめている。夏の陽射しが強くなる中、澪は不思議な違和感を感じていた。それは、陽菜の存在そのものが、少しずつ透明になっていくような感覚。
「澪さん」佐伯先生が静かに言う。「時には、失われた時間を取り戻すことも、大切なのかもしれません」
その言葉の意味を理解する前に、チャイムが鳴る。次の授業の準備をしなければならない。
「また放課後、続きをやりましょう」
先生の言葉に頷きながら、澪は古いプログラムを大切そうに鞄にしまった。陽菜の名前が記された頁を、もう一度確認するように。
この時、澪の中で何かが動き始めていた。失われていた記憶の扉が、ゆっくりと開き始めるように。
放課後の準備室に残された古い記録は、15年の時を超えて、新たな物語の始まりを告げていた。
第2話「失われた夏」
図書室の奥にある資料コーナーで、澪は古い新聞を読んでいた。文化祭の資料を探していたはずが、15年前の記事に目が留まる。
「市内の女子高校で事故 生徒1名が...」
記事を読み進めるうち、澪の手が震え始めた。日付は、ちょうど文化祭の前日。そして被害者の名前―「水城陽菜」。
「見つけちゃったのね」
振り返ると、陽菜が立っていた。夕暮れの光に透けるような姿で。
「これは...どういう...」
言葉が続かない。陽菜は静かに澪の隣に座る。
「あの日、私ね」陽菜が切り出す。「文化祭の練習をしていたの。フィナーレで弾くはずだったピアノの曲」
「一人で?」
「ううん」陽菜が微笑む。「大切な人と、一緒に」
その瞬間、澪の頭に鋭い痛みが走った。断片的な映像が浮かび上がる。夕暮れの音楽室。誰かと一緒にピアノを弾いている自分。
「澪?大丈夫?」
心配そうに覗き込む陽菜。その表情が、記憶の中の少女と重なる。
「私...あの時...」
言葉にならない。頭の中が混乱していく。
「無理に思い出さなくていいの」
陽菜が優しく手を握る。しかし、その手は冷たかった。
「でも、私たちは約束したわ」
陽菜の声が続く。「必ずまた会おうって。その約束を、私は守りたかった」
窓の外で、蝉の声が響く。夏の終わりを告げるような、切ない音色。
「陽菜、あなたは本当に...」
問いかけを遮るように、図書室のドアが開く。千夏が顔を覗かせた。
「澪、こんなところにいたの。実行委員会そろそろ始まるよ」
「ああ、ごめん。すぐ行く」
振り返ると、陽菜の姿はもうなかった。ただ、微かな余韻だけが空間に漂っている。
「ねえ千夏」澪が尋ねる。「この学校で15年前に、事故があったって知ってる?」
「ええ、聞いたことある。確か文化祭の前日に...」千夏の声が途切れる。「でも、その話題は先生たちも避けるみたいで」
澪は新聞記事を見つめ直す。陽菜の名前が、夕暮れの光に照らされて浮かび上がっていた。
失われた夏の記憶。約束の意味。そして、今ここにいる陽菜の存在。全てが少しずつ、でも確実に繋がり始めていた。
「行きましょう」
澪は静かに立ち上がる。記事を元の場所に戻しながら、陽菜との約束を心に刻む。必ず真実を、全てを思い出すと。
第3話「二つの約束」
放課後の音楽室。澪は陽菜と向かい合って座っていた。窓から差し込む夕陽が、二人の間に長い影を作る。
「私たち、前にも一緒にピアノを弾いたことがあったのね」
陽菜が静かに頷く。「ええ、15年前の夏」
澪は古いプログラムを開く。文化祭フィナーレの演目。二人で奏でるはずだった連弾。
「どうして私には、はっきりとした記憶がないの?」
「きっと」陽菜が優しく微笑む。「辛すぎた記憶だったから」
澪の頭に、断片的な映像が浮かぶ。夕暮れの音楽室。二人で練習する日々。そして、文化祭前日の...
「思い出さなくていいの」陽菜が遮るように言う。「今、私たちには新しい約束があるでしょう?」
そう。今年の文化祭で、二人で演奏すること。
「でも」澪が言う。「何か違和感があるの。陽菜の存在が、少しずつ...」
透明になっていく。そう言いかけた時、ドアが開く音がした。
「あら、まだ残っていたの?」
佐伯先生が入ってくる。
「先生」澪が立ち上がる。「15年前の文化祭のこと、教えてください」
一瞬、先生の表情が曇る。
「その時の私は、まだ新任でした」先生が静かに語り始める。「でも、あの悲しい出来事は、今でもはっきりと覚えています」
「悲しい出来事...」
「文化祭前日の練習中の事故。そして、一人の生徒が...」
その時、突然の風が楽譜を舞い上げた。陽菜が素早く拾い上げる。
「これは」陽菜が楽譜を見つめる。「私たちが弾くはずだった曲」
澪は楽譜を覗き込む。見覚えのある旋律。心の奥で、かすかな記憶が呼び覚まされる。
「先生」澪が決意を込めて言う。「私たち、今年の文化祭でこの曲を完成させます」
佐伯先生は、複雑な表情で二人を見つめる。
「あの時叶わなかった約束を、今度は必ず」陽菜が静かに付け加える。
夕暮れの音楽室に、切ない旋律が響き始める。陽菜の弾くピアノの音色が、15年の時を超えて澪の心に染み入る。
「もう一度」澪がつぶやく。「一緒に弾けるんですね」
陽菜は答えない。ただ、優しく微笑むだけ。その姿が、夕陽に溶け込むように見えた。
二つの約束が、今ここで交差する。15年前の未完の演奏と、新たな誓い。それは、永遠と儚さが混ざり合うような、切ない旋律となって響いていた。
時計の針が、静かに時を刻んでいく。残された時間の中で、二人は新たな約束を胸に秘めていた。
第4話「記憶の断片」
澪は夜の寮で、15年前の文化祭プログラムを見つめていた。蝉の声が窓の外で響き、夏の夜の空気が部屋に満ちている。
突然、頭に鋭い痛みが走る。
「また...」
閉じた目の裏に、断片的な映像が浮かび上がる。
夏の日差しの中、音楽室でピアノを弾く少女。長い黒髪が風に揺れる。振り返る笑顔が、現在の陽菜と重なる。
「一緒に弾こう」
少女の声が、遠い記憶の中から聞こえてくる。
「澪、大丈夫?」
千夏が心配そうに部屋を覗き込んでいた。
「ええ、ちょっと頭が...」
「また記憶が戻ってきたの?」
澪は静かに頷く。千夏が隣に座る。
「佐伯先生から聞いたわ。15年前の事故のこと」千夏が言う。「そして、水城陽菜さんのこと」
「私、少しずつ思い出してるの」澪が言う。「でも、まだ断片的で...」
記憶が途切れる度に、激しい頭痛が襲う。心の奥に封印されていた何かが、少しずつ形を取り始めているような感覚。
「あの夏、私は確かに陽菜と...」
その時、廊下から物音が聞こえた。二人が振り返ると、そこに陽菜が立っていた。月明かりに照らされた姿は、どこか儚げに見える。
「ごめんなさい、邪魔したかしら」陽菜が申し訳なさそうに微笑む。
「いいえ」千夏が立ち上がる。「私の方こそ、もう戻るわ」
千夏が去った後、静寂が部屋を満たす。
「無理に思い出さなくていいのよ」陽菜が優しく言う。「きっと、時が来れば...」
「でも、私は知りたいの」澪が遮る。「15年前の夏、私たちの間で何があったのか」
陽菜は窓際に立ち、夜空を見上げる。その横顔が、記憶の中の少女と完全に重なった。
「私たちは約束したの」陽菜がつぶやく。「あの日、文化祭で一緒にピアノを弾くって」
「でも、その約束は果たせなかった」
「ええ」陽菜の声が切なく響く。「だから今度は、必ず...」
月明かりが陽菜の姿を透かし始める。まるで、存在そのものが揺らいでいるかのように。
「陽菜?」
振り返る陽菜の笑顔は、15年前と変わらず優しかった。
「もう遅いわ。おやすみなさい、澪」
ドアが閉まる音と共に、陽菜の姿が消える。残されたのは、かすかな余韻と、断片的な記憶の欠片。
澪は再び文化祭プログラムを開く。そこに記された二つの名前が、月明かりに照らされて浮かび上がっていた。
記憶は少しずつ、でも確実に戻り始めていた。それは時に痛みを伴うけれど、大切な真実への道筋。澪は静かに目を閉じ、よみがえる記憶の断片を大切に心に刻んでいった。
第5話「約束の場所」
真夏の日差しが照りつける昼休み。澪は学校の屋上に立っていた。昨夜見た夢の場所を探して。
「ここよ」
振り返ると、陽菜が立っていた。制服の襟が風になびいている。
「15年前、私たちがよく来ていた場所」陽菜が続ける。「覚えてる?」
澪は手すりに触れる。どこか懐かしい感触。記憶が少しずつ形を取り始める。
「ここで...約束したの?」
「ええ」陽菜が隣に立つ。「文化祭で一緒にピアノを弾くって。そして...」
言葉が途切れる。その先にある真実を、まだ口にする時ではないとでもいうように。
「私、少しずつ思い出してきたの」澪が言う。「あの夏、私たちは毎日のように練習して...」
「そうね」陽菜が微笑む。「でも、まだ全部は思い出さない方がいいわ」
「どうして?」
答えの代わりに、陽菜は空を見上げた。入道雲が夏の青空に浮かんでいる。
「今は、新しい約束に集中しましょう」
陽菜がそう言った時、屋上のドアが開く音がした。
「あ、ここにいた」千夏が顔を出す。「実行委員会が始まるよ」
「ごめん、すぐ行く」
澪が振り返ると、陽菜の姿はもうなかった。ただ、かすかな温もりだけが残されている。
「陽菜さん、また消えちゃったの?」千夏が静かに言う。
「ええ」澪は空を見上げる。「最近よくあるの。まるで...」
「まるで、この世界の人じゃないみたいに?」
澪は黙って頷く。二人は並んで手すりに寄りかかった。
「でも不思議ね」千夏が言う。「陽菜さんがいる時、周りの空気が違うの。懐かしいような、切ないような...」
風が強く吹き、二人の髪を揺らす。
「私ね」澪が静かに切り出す。「陽菜との約束を果たさなきゃいけないの。15年前に果たせなかった約束を」
「文化祭での演奏?」
「ええ。でも、それだけじゃない気がする」澪は遠くを見つめる。「もっと大切な、永遠の約束が...」
チャイムが鳴り、二人は屋上を後にする。階段を降りながら、澪は考えていた。約束の意味を。失われた時間の意味を。そして、今ここにいる陽菜の存在の意味を。
手すりに残された温もりは、確かな証だった。15年の時を超えて、二人が再び出会った証。そして、新たな約束を交わした証。
それは儚くも永遠な、夏の日の記憶として、澪の心に刻まれていった。
第6話「夏祭りの夜」
校門に浴衣姿の生徒たちが集まり始めていた。今夜は地域の夏祭り。学校からも参加が許可され、寮生たちは久しぶりの外出に浮き立っている。
「澪、その浴衣素敵」
千夏が声をかける。紺地に淡い桜模様の浴衣は、確かに澪によく似合っていた。
「ありがとう」
照れながら答える澪。その視線の先には、白地に青い朝顔模様の浴衣を着た陽菜の姿があった。
「行きましょう」
陽菜が微笑みかける。その姿が、夕暮れの光に透けて見えた。
祭りの会場に着くと、提灯の明かりが辺りを優しく照らしていた。金魚すくいや射的、出店の匂いが夏の夜を彩る。
「懐かしいわね」陽菜がつぶやく。「15年前も、こうして...」
その瞬間、澪の中で記憶が蘇る。同じ場所で、同じように浴衣姿の陽菜と祭りを楽しんでいた夏の夜。
「あの時も、私たち」
「ええ、一緒に来たの」
二人は人混みから少し離れた神社の境内に向かう。石段を上がると、祭りの喧騒が遠くなっていく。
「ここで約束したのよね」陽菜が立ち止まる。「文化祭が終わったら、また一緒に来ようって」
「でも、その約束は...」
「果たせなかった」陽菜の声が夜風に溶けていく。「だから今、こうして」
提灯の光が陽菜の姿を照らす。その姿は確かにそこにあるのに、どこか儚げだった。
「陽菜」澪が声をかける。「あなたは本当に...」
問いかけは途中で途切れた。陽菜の浴衣姿が、月明かりに透けて見えたから。
「今は、この時を大切にしましょう」
陽菜が澪の言葉を優しく遮る。「せっかくの夏祭りだもの」
二人は再び祭りの中へ。金魚すくいで遊び、かき氷を分け合う。それは15年前と同じような、でも決して同じではない時間。
「澪!」千夏が呼びかける。「そろそろ花火が始まるよ」
空を見上げると、最初の花火が夜空を彩った。大輪の花が咲き、消えていく。その光の中で、陽菜の姿がより一層透明に見えた。
「綺麗ね」陽菜がつぶやく。「でも、もうすぐ...」
「もうすぐ?」
答えはなかった。ただ、陽菜の指が優しく澪の手を握る。その感触は確かにあたたかいのに、どこか遠くへ行ってしまいそうで。
花火は夜空で輝き、そして消えていく。それはまるで、この夏の日々のように。永遠であってほしい時間が、確実に過ぎていくように。
澪は陽菜の手をしっかりと握り返した。この瞬間だけでも、この温もりだけでも、しっかりと心に留めておきたくて。
夏祭りの夜は、そうして静かに更けていった。
第7話「永遠の一瞬」
音楽室のピアノから、優しい旋律が流れていた。澪と陽菜の連弾の練習は、日に日に完成に近づいていく。しかし同時に、陽菜の存在はより一層透明さを増していった。
「ここは、もう少しゆっくりと」
陽菜が楽譜を指さす。夕暮れの光が、その指を透かして見えた。
「陽菜」澪が鍵盤から手を離す。「もう、時間がないの?」
一瞬の沈黙。陽菜はゆっくりと窓の外を見やる。
「ええ」静かな返事。「文化祭まで、あと一週間。その時までよ」
「その時まで...って」
「私に与えられた時間は、限られているの」陽菜が微笑む。「15年前の約束を果たすため、この形で戻ってこられた。でも、それは一時的なものだって、初めから分かっていた」
澪の胸が締め付けられる。
「どうして教えてくれなかったの?」
「あなたが辛い思いをするから」陽菜が澪の頬に触れる。その手は、かすかに冷たかった。「15年前、私が突然いなくなって、あなたはその記憶さえ封じ込めてしまった」
「でも、今度は違う」澪が言う。「今度は、ちゃんとお別れを...」
「それが、私のわがままな願い」陽菜が続ける。「最後に、約束の曲を一緒に弾きたかった。そして、ちゃんとさよならを言いたかった」
夕陽が二人を包み込む。その光の中で、陽菜の姿がより一層透明に見えた。
「でも、まだ時間はあるわ」陽菜が鍵盤に手を置く。「この曲を、完璧なものにしましょう」
再び始まる演奏。二人の音が重なり合い、優しい旋律が室内に満ちていく。
その時、ドアが開く音がした。佐伯先生が立っていた。
「素晴らしい演奏ね」先生が言う。「15年前と同じように」
「先生は、ずっと知っていたんですね」澪が言う。「陽菜のこと、全て」
「ええ」先生が頷く。「だから、あなたが記憶を取り戻すのを、見守っていました」
夕暮れの音楽室に、三人の影が長く伸びる。時間は確実に過ぎていき、別れは近づいている。
「約束は、必ず果たすわ」陽菜が告げる。「そして今度は、ちゃんと伝えられる。さよならを、そして...」
最後の言葉は、夕陽の中に溶けていった。永遠であってほしい一瞬が、静かに過ぎていく。
それは儚くも美しい、夏の終わりの記憶として、永遠に心に刻まれていくのだろう。
第8話「揺れる心」
文化祭まであと5日。準備に追われる日々の中で、澪の心は激しく揺れていた。
「衣装、こんな感じでどう?」
千夏が白いドレスを見せる。文化祭でのピアノ演奏用の衣装だ。
「ええ、素敵」
澪は答えながら、陽菜の姿を探していた。今朝から姿が見えない。
「陽菜さんのこと?」千夏が静かに言う。「最近、見かける機会が減ってきたよね」
「ええ」澪は窓の外を見つめる。「だんだん、透明になっていくの」
教室に残された二人。夕暮れが近づき、影が長く伸びていく。
「私ね」澪が切り出す。「陽菜と出会った時から、何か違和感があった。でも、それは嫌な感じじゃなくて。どこか懐かしい、温かい感じ」
千夏は黙って聞いている。
「15年前の夏、私たちは親友だった。文化祭で一緒に演奏する約束をして。でも、前日に事故で...」
言葉が詰まる。その時、後ろから声がした。
「ごめんなさい、遅くなって」
振り返ると、陽菜が立っていた。夕陽に透けるような姿で。
「どこに行ってたの?」澪が問いかける。
「ちょっと、準備を」陽菜が微笑む。「文化祭の日のために」
その言葉に込められた意味を、澪は理解していた。別れの準備。最後の時間のための。
「私、帰るね」千夏が立ち上がる。「また明日」
千夏が去った後、教室に静寂が広がる。
「澪」陽菜が近づいてくる。「怖くない?私と一緒にいること」
「怖くないわ」即答する澪。「ただ、切ないの。また失うのが...」
「でも今度は違う」陽菜が澪の手を取る。「今度は、ちゃんとお別れができる。そして、あなたの中で生き続けることができる」
その手の感触は、確かにそこにあるのに、どこか遠くへ行ってしまいそうで。
「文化祭の日まで」陽菜が続ける。「精一杯、一緒にいましょう。そして、最高の演奏を」
夕暮れの教室で、二人は寄り添うように座っていた。時間は確実に過ぎていく。でも、この瞬間だけは永遠であってほしいと、澪は強く願っていた。
「陽菜」澪がつぶやく。「私、忘れない。二度と」
答えの代わりに、陽菜は優しく微笑んだ。その笑顔は、15年前と変わらないほど眩しかった。
夏の終わりの教室に、二人の想いが静かに響いていた。
第9話「練習の日々」
文化祭まで残り4日。音楽室では、澪と陽菜の練習が続いていた。
「もう一度、ここからね」
陽菜が楽譜を指さす。その指が、午後の光に透けて見える。
連弾の音色が、静かな音楽室に響き渡る。二人の呼吸が徐々に重なり、音楽が一つになっていく。
「素晴らしい音色ね」
佐伯先生が、いつの間にか部屋に入っていた。
「先生」澪が振り返る。「聴いていたんですか?」
「ええ」先生が窓際に寄りかかる。「15年前と同じように、美しい音色」
その言葉に、陽菜が静かに微笑む。「あの時は、フィナーレまで届かなかったけれど」
「今度は違います」澪が強く言う。「必ず、最後まで」
練習は続く。しかし、陽菜の姿は時折、完全に透明になることがあった。その度に澪の心は締め付けられる。
「大丈夫」消えかけた陽菜の声が聞こえる。「私はここにいるわ」
佐伯先生は、その様子を静かに見守っていた。
「先生」澪が尋ねる。「15年前、私たちの練習をよく見ていましたか?」
「ええ」先生の目が遠くを見つめる。「二人はいつも一緒で、この曲を完成させることを夢見ていた。でも、その前日に...」
言葉が途切れる。陽菜の姿が一瞬、揺らめいた。
「事故のこと、思い出したの?」陽菜が静かに問いかける。
澪は首を振る。「まだ、はっきりとは。でも、それは...」
「無理に思い出さなくていい」陽菜が遮る。「今は、この演奏に集中しましょう」
再び始まる練習。陽菜の弾く音色が、澪の心に深く染み入る。それは15年前と同じ、でも違う。より切なく、より深い音色。
「もうすぐね」佐伯先生がつぶやく。「文化祭まで」
「ええ」陽菜が答える。「私に残された時間も」
その言葉に、澪の指が一瞬止まる。しかし、陽菜の音色が優しく導くように、演奏は続いていく。
夕暮れが近づき、音楽室に金色の光が差し込んでくる。その中で、陽菜の姿がより一層透明に見えた。
「明日も練習しましょう」陽菜が微笑む。「最高の演奏のために」
澪は頷く。残された時間が少ないことを知りながら、それでも前を向こうと決意して。
音楽室に、夏の終わりの光が満ちていく。二人の奏でる旋律は、永遠の一瞬を切り取るように、美しく響いていた。
第10話「透明な存在」
体育祭の練習が始まる中、澪と陽菜は音楽室で過ごしていた。文化祭まであと3日。陽菜の姿は、日に日に透明さを増していく。
「ここのフレーズ、もう一度」
陽菜の声が聞こえる。しかし、その姿はほとんど見えなかった。
「陽菜...」澪が不安そうに見つめる。
「大丈夫よ」目に見えない陽菜が答える。「私の音が聞こえるでしょう?」
確かにピアノの音は響いている。見えない手が奏でる旋律が、澪の演奏と重なっていく。
「でも、このまま消えてしまうんじゃ...」
「その時が来るまでは、ここにいるわ」陽菜の声が優しく響く。「約束を果たすために」
練習は続く。透明な存在と、確かな音色。その不思議な組み合わせに、澪の心が揺れる。
「澪、いた!」千夏が音楽室に駆け込んでくる。「実行委員会が...あれ?」
千夏は部屋を見回す。ピアノの音は二人分聞こえるのに、そこにいるのは澪だけ。
「陽菜さんは?」
「ここにいるの」澪が答える。「ただ、見えないだけ」
千夏は静かに頷いた。「そう。だから最近、姿を見かけなくなったのね」
演奏が一瞬止まる。陽菜の気配が、かすかに揺れる。
「私、応援してるからね」千夏が告げる。「文化祭での演奏、きっと素敵なものになるわ」
「ありがとう」陽菜の声が響く。千夏は少し驚いた様子だったが、すぐに微笑んだ。
千夏が去った後、陽菜の姿が一瞬だけ見えた。
「みんな、優しいのね」陽菜がつぶやく。「15年前も、そうだった」
「思い出したの?」
「ええ、少しずつ」陽菜の声が遠くなる。「でも、全てを思い出す前に...」
言葉が消える。その代わりに、ピアノの音だけが響く。
「陽菜」澪が呼びかける。「最後まで、一緒に弾けるよね?」
「約束するわ」透明な存在が答える。「だって、それが私の望みだから」
夕暮れの音楽室に、二つの音色が溶け合っていく。見える存在と見えない存在が、音楽という目に見えない糸で結ばれている。
それは儚くも美しい光景。永遠に続いてほしい瞬間が、確実に終わりに向かっているという事実と共に。
第11話「響く旋律」
文化祭まであと2日。放課後の音楽室で、澪は一人でピアノに向かっていた。陽菜の姿は完全に見えなくなっていたが、その存在は確かに感じられた。
「もう一度、最初から」
澪がつぶやく。すると、目に見えない陽菜の音色が重なってきた。
二人の奏でる旋律が、夕暮れの音楽室に満ちていく。以前より深みを増した音色に、佐伯先生が足を止めた。
「素晴らしい演奏ね」
先生が部屋に入ってくる。「陽菜さんも、ここにいるのよね?」
「ええ」陽菜の声だけが響く。「最後まで、澪と一緒に」
佐伯先生は窓際に立ち、夕陽に照らされる校庭を見つめた。
「15年前、私はまだ新任でした」先生が語り始める。「二人の練習を見守りながら、文化祭が楽しみでした。でも、その前日に...」
澪の頭に、鋭い痛みが走る。断片的な記憶が蘇ってくる。
雨の降る放課後。急いで音楽室に向かう自分。そして...
「まだよ」陽菜の声が遮る。「その記憶は、もう少し先に」
「でも」澪が反論しようとする。
「今は演奏に集中しましょう」陽菜の声が優しく諭す。「この曲を完成させることが、私たちの約束だから」
再び始まる演奏。見えない陽菜と、目の前にいる澪。二つの音色が重なり合い、一つの物語を紡いでいく。
「不思議ね」佐伯先生がつぶやく。「見えないはずの存在が、こんなにも確かに感じられるなんて」
「音楽には、そんな力があるのかもしれません」澪が答える。「目に見えない想いを、形にできる」
「そうね」陽菜の声が同意する。「だから私、最後にこの曲を...」
言葉が途切れる。しかし、その想いは音色となって、澪の心に深く染み入っていく。
夕暮れが深まり、音楽室に紅い光が差し込んでくる。その中で、二人の演奏はより一層美しく響いていた。
「明日は、最後の練習ね」陽菜が告げる。
「ええ」澪は鍵盤を見つめながら答えた。「そして文化祭で、私たちの約束を」
佐伯先生は静かに微笑んでいた。目には見えないけれど、確かにそこにある存在。それは、永遠の証のように思えた。
第12話「残された時間」
文化祭前日。午後の授業が終わり、校内は準備に追われる生徒たちで賑わっていた。澪は音楽室に向かう。今日が陽菜との最後の練習日。
「来たのね」
見えない陽菜の声が、澪を迎える。
「ええ」澪がピアノに座る。「最後の練習だから」
その言葉に、室内の空気が一瞬凍りついたように感じた。
「澪」陽菜の声が静かに響く。「15年前のこと、少し話してもいい?」
澪は黙って頷く。
「あの日も、こうして最後の練習をしていた」陽菜が語り始める。「文化祭の前日。急な雨が降り始めて...」
その瞬間、澪の記憶が一気に蘇る。
雨の音。急いで音楽室に向かう足音。遅れそうだからと、階段を駆け上がる陽菜。そして...
「やっぱり、思い出したのね」陽菜の声が切なく響く。
「どうして」澪の声が震える。「どうして、あんなに急いで...」
「あなたを待たせたくなかったから」答えが返ってくる。「最後の練習だったから」
涙が、鍵盤の上に落ちる。
「でも今度は違う」陽菜の声が優しく包み込む。「今度は、ちゃんと約束を果たせる」
見えない手が、澪の涙を拭うように感じた。
「さあ、練習しましょう」陽菜が促す。「最後にふさわしい演奏になるように」
二人の音色が、夕暮れの音楽室に満ちていく。見えない存在と、確かな想い。それらが音楽となって、永遠の記憶を紡いでいく。
「明日は」練習を終えた後、陽菜が言う。「文化祭のフィナーレで」
「ええ」澪が答える。「15年越しの約束を、果たすのね」
「そして、ちゃんとさよならを」陽菜の声が遠くなる。「今度は、きちんと」
夕陽が沈みかける頃、千夏が音楽室を覗きに来た。
「明日、楽しみにしてるからね」千夏が告げる。「きっと素敵な演奏になるわ」
澪は微笑んで頷く。そこには、もう陽菜の姿も声も感じられなかった。しかし、確かな存在の温もりだけは、まだ残されていた。
明日。全てが終わる日。そして、新しい始まりの日。
澪は静かに音楽室を後にした。夏の終わりを告げる風が、廊下を吹き抜けていった。
第13話「光になる日」
文化祭当日の朝、空は不思議なほど澄んでいた。澪は早めに登校し、音楽室に向かう。フィナーレまでまだ時間があるが、心は既に高鳴っていた。
「来てたのね」
陽菜の声が、朝日に照らされた室内に響く。姿は見えないが、存在は確かに感じられた。
「ええ」澪がピアノに座る。「少し練習しようと思って」
「その前に」陽菜の声が切り出す。「全て話しておきたいの」
澪は静かに頷く。窓から差し込む光が、徐々に強くなっていく。
「15年前、私は約束を守れなかった」陽菜が語り始める。「あなたを待たせたくなくて、急いでいた。でも、それが最後の過ちになった」
「雨の日の、階段で」澪の声が震える。
「ええ。滑って転んで...目が覚めた時には、もう全てが終わっていた」陽菜の声が続く。「でも、あなたとの約束だけは、どうしても果たしたくて」
「だから、戻ってきたの?」
「魂には、強い想いがあれば叶えられる願いがあるの」答えが返ってくる。「私の場合は、あなたとの約束。でも、それは一時的なものでしかない」
朝日が部屋いっぱいに広がり、陽菜の存在がより薄く感じられる。
「今日のフィナーレで」陽菜が告げる。「私は完全に消えるわ。でも、それは自然なこと。15年前に果たせなかった約束を、やっと果たせるから」
澪の頬を、涙が伝う。
「泣かないで」陽菜の声が優しく響く。「これは終わりじゃない。私は、あなたの中で生き続けるから」
その時、ドアが開く音がした。佐伯先生が立っていた。
「もうすぐ開会式ね」先生が告げる。「フィナーレまで、しっかり準備しましょう」
「はい」澪が立ち上がる。「陽菜、また後で」
「ええ」返事が返ってくる。「最後の演奏を、一緒に」
文化祭が始まり、校内は活気に満ちていく。しかし澪の心は、静かな決意に満ちていた。夕暮れのフィナーレで、15年の時を超えた約束を、必ず果たすと。
陽菜の存在は、朝日の中で光のように淡く、そして確かにそこにあった。
第14話「約束の時」
文化祭のフィナーレまで、残り一時間。夕暮れが近づく中、澪は白いドレスに身を包み、音楽室で最後の調律を確認していた。
「準備は大丈夫?」
千夏が覗き込む。
「ええ」澪が微笑む。「陽菜も、ここにいるわ」
確かに、部屋には目に見えない存在の気配が満ちていた。夕陽が差し込み始め、空気が金色に染まっていく。
「もうすぐね」陽菜の声が、かすかに響く。「私たちの約束の時間」
佐伯先生が入ってくる。「そろそろ本番よ。準備はできてる?」
「はい」澪が立ち上がる。その時、ふと記憶が蘇る。
15年前の文化祭前日。雨の音。階段を駆け上がる足音。そして...
「もういいの」陽菜の声が優しく遮る。「その記憶は、もう受け入れて」
「でも」
「私は後悔していないわ」陽菜が続ける。「だって、こうしてまたあなたと演奏できるから」
ホールに向かう途中、生徒たちが澪に声をかける。
「頑張ってね」
「楽しみにしてます」
誰もが陽菜の存在には気付いていない。でも、その想いは確かにそこにあった。
「フィナーレの時間です」アナウンスが流れる。
澪はステージに立つ。照明が落とされ、静寂が訪れる。
「行きましょう」陽菜の声が、澪の心に響く。「私たちの、最後の演奏」
スポットライトが灯る。二台のピアノに、光が降り注ぐ。
最初の音が、静かに響き渡る。見えない陽菜と、目の前にいる澪。二つの音色が重なり合い、15年の時を超えた物語を紡いでいく。
観客は息を呑む。一人で弾いているはずなのに、確かに二つの音色が聞こえる。それは不思議で美しい演奏。
佐伯先生は客席で、静かに涙を拭っていた。
演奏が佳境に入る頃、陽菜の存在がより一層薄くなっていく。しかし、その音色は最後まで澪と共にあった。
「ありがとう」最後の音が響き渡る直前、陽菜の声が聞こえた。「そして、さよなら」
フィナーレの音が、ホール中に響き渡る。その瞬間、陽菜は光となって消えていった。
永遠の一瞬が、確かにそこにあった。
第15話「新しい春」
文化祭から一週間が過ぎた。秋の気配が漂い始めた午後、澪は音楽室のピアノの前に座っていた。
もう陽菜の姿も声も感じられない。でも、確かにここで過ごした時間は、永遠の記憶として心に刻まれていた。
「練習?」
千夏が顔を覗かせる。
「ううん」澪が微笑む。「ただ、少し懐かしくなって」
鍵盤に触れると、あの日の旋律が自然と指から流れ出す。もう一つの音色は聞こえないけれど、心の中では確かに響いていた。
「素敵な演奏だったわ」佐伯先生が入ってきて言う。「15年越しの約束が、やっと果たされて」
澪は静かに頷く。「先生、私、思い出したんです」
「全てを?」
「ええ」澪が窓の外を見つめる。「あの雨の日のこと。陽菜が階段で転んで...私が見つけた時には、もう...」
言葉が詰まる。しかし、それは以前のような痛みではなく、穏やかな懐かしさとなっていた。
「でも、陽菜は私の中で生きているんです」澪が続ける。「この音楽の中に、この記憶の中に」
夕暮れが近づき、音楽室が金色に染まっていく。
「来年の文化祭でも」澪が決意を込めて言う。「また、あの曲を弾きたいと思います」
「素晴らしい考えね」先生が微笑む。「きっと陽菜さんも、喜んでいるわ」
その時、一陣の風が窓から吹き込み、楽譜がめくれる。まるで誰かが優しく触れたかのように。
「ねえ」千夏が言う。「聞こえる?ピアノの音」
三人は耳を澄ます。かすかに、でも確かに、どこからともなく優しい旋律が聞こえてくる。
「陽菜」澪がつぶやく。「ちゃんと聞こえてるよ」
夕暮れの音楽室に、目には見えない音色が満ちていく。それは悲しい別れの歌ではなく、新しい始まりを告げる旋律。
「さあ」佐伯先生が言う。「明日からは、新しい文化祭の準備が始まるわ」
「はい」澪は立ち上がる。「今度は私が、誰かの大切な記憶を作る番です」
教室を出る前、澪は最後にピアノを見つめた。そこには、永遠の約束を果たした確かな証が、静かに佇んでいた。
夏の終わりと秋の始まりが交差する季節。澪の心には、新しい春の予感が芽生えていた。
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