「春詩~eternal blue~」

ソコニ

第1章「出会いと違和感」~君が落ちた青い春~



プロローグ 「約束の音色」


夏の終わりの音楽室に、一つのピアノの音が響いていた。


古びた譜面台の上で、夕陽に照らされた楽譜が、かすかに揺れている。黒く輝くピアノの表面に、オレンジ色の光が舞い、不思議な模様を描いていた。


「この曲、覚えていてね」


ピアノを弾く少女の横顔が、夕暮れの中で優しく輝いている。隣に座る少女は、その姿を見つめながら静かに頷いた。


「私たち、約束よ」

「うん...必ず」


二人の指が同時に鍵盤に触れ、優しい旋律が音楽室に広がる。セミの鳴き声が遠くで響き、夏の終わりを告げていた。


「また、会えるよね?」

「ええ、きっと」


夕陽が二人を包み込み、影が長く伸びていく。まるで、この瞬間が永遠に続くかのように。


しかし、それは叶わぬ願いだった。


翌日、学校に悲しい知らせが届く。そして、約束は闇の中に消えていった。


記憶は失われ、時は流れた。


15年の時を経て、その約束は再び動き出そうとしていた。


海辺の町の全寮制女子高校。春の終わりのある日、一人の転校生が教室のドアを開ける。


永遠を探す物語は、そこから始まった。


---


この作品は、失われた時間を取り戻すための物語。


記憶と記憶の間で。

現在と過去の境界で。

永遠と儚さの狭間で。


二人の少女が紡ぐ、切なくも美しい愛の詩。




第1話「誰も知らない少女」


穏やかな波の音が、遠くから響いてくる。


窓際の席に座る澪は、いつものように海を見つめていた。三月末、桜の花びらが舞い始めた校庭に、朝もやがかかっている。制服の襟元を正しながら、ふと空を見上げる。どこまでも青く、まるで永遠が広がっているかのようだった。


「ねぇねぇ、春休みどこか行った?」

「私、東京に親戚がいてさ…」


教室の中で、クラスメイトたちの会話が弾んでいる。新学期を前に、久しぶりの再会を喜ぶ声が響く。しかし、それは澪には遠い世界の出来事のように聞こえた。


一ノ瀬澪。この海辺の全寮制女子高校で、彼女は「忘れられた少女」と呼ばれていた。積極的に誰かを避けているわけではない。ただ、自然と周囲との距離ができてしまうのだ。まるで、透明な壁に囲まれているかのように。


「あの、一ノ瀬さん」


隣の席の女子が声をかけてきた。澪は静かに顔を向ける。


「春休みの課題、音楽のところで分からないところがあって…」

「ここですか?」


澪は差し出されたプリントを見る。淡々と説明をする声は、感情の起伏が少なく、どこか機械的だった。説明を終えると、また海の方へ目を向ける。


「ありがとう! すっごく分かりやすかった」


お礼を言う声に、澪は小さく頷いただけだった。会話を続ける気がないことを悟った女子は、友達の方へ向き直る。それが、いつもの光景だった。


澪は再び海を見つめる。どこか懐かしい景色なのに、見覚えがない。いつもそんな違和感に包まれていた。まるで、大切な何かを忘れているような。そんな感覚が、絶えず心の片隅にあった。


「変わらないわね、相変わらず」


保健室の佐伯先生が、そっと呟いた。職員室の窓から、澪の様子を見ていたのだ。先生の瞳には、どこか切なさが浮かんでいた。


放課後、澪は図書室で過ごしていた。誰もいない空間で、本の世界に没頭するのが日課だった。夕暮れの柔らかな光が、本棚の間から差し込んでくる。


本を読みながら、澪は時々窓の外を見る。桜の花びらが風に舞う様子は、どこか映画のワンシーンのようだった。そして、また説明のつかない懐かしさが胸を掠める。


寮に戻る途中、澪は校舎を振り返った。夕陽に染まる窓ガラスが、オレンジ色に輝いている。そこに映る自分の姿が、どこか遠い存在のように感じられた。


なぜだろう。今日は特に、心が落ち着かない。まるで、誰かを待っているような。そんな感覚に包まれていた。


波の音を聞きながら、澪は寮へと歩を進める。明日から新学期。また、変わらない日々が始まる。そう思っていた。


しかし、それは間違いだった。翌日、澪の「変わらない日々」は、大きく揺らぐことになる。





第2話「転入生の微笑み」


春の陽光が教室を明るく照らす中、ホームルームが始まった。


「今日は、新しい転入生を紹介します」


担任の先生の言葉に、教室がざわめく。澪は窓の外を見つめたまま、特に反応を示さなかった。


「水城陽菜さんです」


教室の扉が開き、一人の少女が入ってきた。明るい茶色の緩やかなウェーブヘア、大きな瞳、優しい表情。制服の着こなしには、どこか古風な雰囲気が漂っていた。


「水城陽菜です。よろしくお願いします」


陽菜が挨拶を終えた瞬間、澪は不意に視線を感じて顔を上げた。そこで、陽菜と目が合う。


その瞬間、陽菜の瞳に涙が浮かんだ。微笑みながら、小さく囁くように。


「やっと、見つけた」


澪は戸惑いを隠せなかった。初めて会うはずの転入生が、なぜそんな懐かしそうな表情を見せるのか。そして、なぜ自分の心が、こんなにも激しく揺れているのか。


「水城さんは、澪の隣の席に座ってください」


担任の言葉に、陽菜は嬉しそうに頷いた。席に着く途中、陽菜は何度も澪の方を見ていた。まるで、大切な人を見つめるような眼差しで。


授業が始まり、教室は静かになる。しかし、澪は教科書の文字に集中できなかった。隣からの視線が、温かく包み込むように感じられた。


休み時間、クラスメイトたちが陽菜の周りに集まった。転校の理由や前の学校のことを尋ねる声が飛び交う。陽菜は柔らかな笑顔で応えていたが、時折澪の方へ視線を向けていた。


「一ノ瀬さん」


昼休みになると、陽菜は真っ直ぐに澪に声をかけた。


「一緒にお昼を食べませんか?」


断る理由は見つからなかった。というより、どこか断りたくないような感情が芽生えていた。


校庭の木陰で、二人は向かい合って座った。桜の花びらが、時折二人の間を舞い落ちる。


「不思議ね」陽菜が言った。「こうして一緒にいると、とても懐かしい気持ちになるの」


澪は黙って陽菜を見つめた。確かに、見知らぬはずの彼女に、説明のつかない親近感を覚えていた。


「私たち、きっと前に会ったことがあるのよ」


その言葉に、澪の胸が小さく震えた。記憶にない出会い。しかし、心は強く反応している。


放課後、澪は一人で教室に残っていた。夕暮れの光が差し込む窓際で、陽菜のことを考えていた。なぜ彼女は自分を知っているような素振りを見せるのか。そして、なぜ自分はこんなにも心を揺さぶられるのか。


波の音が、いつもより懐かしく響いていた。何かが、始まろうとしていた。





第3話「図書室での出会い」


午後の図書室は、いつもより静かだった。


放課後の柔らかな光が本棚の間を漂い、埃っぽい空気が金色に輝いている。澪は、いつものように歴史小説のコーナーで本を探していた。


「あ」


声の主が誰か分かった瞬間、澪の指が本の背表紙の上で止まる。


陽菜が、古い文学全集が並ぶ棚の前に立っていた。転入して三日目。クラスでの彼女は、常に笑顔で周囲と打ち解けていた。しかし今、本棚の前で佇む姿には、どこか物憂げな雰囲気が漂っていた。


「この本、まだあったのね」


陽菜は薄い古い本を手に取り、懐かしそうに撫でた。その仕草に、澪は違和感を覚えた。その本は確かに、図書室の古い蔵書の一つ。しかし、転入したばかりの生徒が「まだあった」と言うのは、明らかに矛盾している。


「一ノ瀬さん、この本知ってる?」


気付けば、陽菜は澪の傍らに立っていた。差し出された本は、一九七〇年代に出版された詩集だった。


「この詩、私の好きな一節なの」


陽菜が開いたページには、青春と永遠について詠った詩が印刷されていた。インクは時を経て薄くなっているが、言葉は鮮やかに残っている。


「時の果てで、私たちは出会う―」


陽菜が詩の一節を口ずさむ声は、どこか遠い場所から響いてくるようだった。


「この図書室ね、」陽菜が続ける。「以前は、もっと奥に閲覧スペースがあったの。窓際に木製の大きな机があって...」


澪は息を呑んだ。それは確かに、数年前に改装される前の図書室の様子だった。しかし、なぜ陽菜がそれを知っているのか。


「あら」陽菜は自分の言葉に気付いたように微笑んだ。「噂で聞いただけよ」


その言葉は、明らかに後付けの言い訳のように聞こえた。


夕暮れが近づき、図書室の空気が紫色に変わり始めていた。二人は黙って本を読んでいたが、澪の意識は本の内容ではなく、隣に座る陽菜の存在に向かっていた。


「ねぇ」陽菜が静かに言った。「また一緒に本を読みましょう?」


その言葉に、澪は小さく頷いていた。断る理由は見つからなかった。というより、断りたくないという気持ちの方が強かった。


図書室を出る時、陽菜は古い詩集を借りていった。その背表紙には、かすかに日焼けした跡が残っていた。まるで、誰かが何度も手に取った痕跡のように。


帰り道、澪は空を見上げた。夕暮れの空が、不思議なほど懐かしく感じられた。まるで、誰かと見上げた記憶があるかのように。


しかし、それは確かに、存在しないはずの記憶だった。



第4話「記憶の断片」


その夢を見たのは、図書室での出来事から数日後のことだった。


澪は見知らぬ夏の日の中に立っていた。セミの鳴き声が響き、強い日差しが校舎を照らしている。誰かと一緒に音楽室にいる。ピアノの音が響いている。しかし、相手の顔も、奏でられる曲も、はっきりとは分からない。


「一ノ瀬さん、おはよう」


朝の教室で、陽菜の声が夢の残像を砕く。


「おはよう」


答える声は、いつもより柔らかかった。夢の余韻が、まだ心に残っていたからかもしれない。


「昨日の夜、素敵な夢を見たの」陽菜が続ける。「この学校で、誰かと一緒に音楽室でピアノを弾いていて...」


澪は息を呑んだ。夢の内容が、自分のものと重なっていたからだ。しかし、それは偶然の一致だろうか。


「一ノ瀬さんは、ピアノを弾くの?」

「...昔、少しだけ」


実際には、ピアノに触れた記憶はないはずだった。なのに、なぜそんな答えが自然に出てきたのだろう。


授業中、澪は教科書の文字に集中できなかった。断片的な映像が、意識の端をちらつく。誰かと過ごした夏の日々。しかし、それが実際の記憶なのか、夢の続きなのか、区別がつかない。


「佐伯先生」


放課後、保健室を訪れた澪に、佐伯先生は複雑な表情を浮かべた。


「最近、変な夢を見るんです」

「どんな夢?」

「誰かと一緒にいる夢。でも、相手の顔が...」


言葉が途切れる。佐伯先生は、ため息とも取れる音を漏らした。


「時々ね、記憶は不思議な形で現れることがあるの」


その言葉は、まるで何かを知っているかのような響きを持っていた。しかし先生は、それ以上何も語らなかった。


夕暮れ時、澪は音楽室の前で足を止めた。中から、かすかにピアノの音が聞こえる。ドアを開けると、陽菜が弾いていた。


見知らぬメロディ。しかし、どこか懐かしい。夢の中で聴いた音色と、現実が重なる。


「この曲、知ってる?」

陽菜の問いに、澪は首を振る。しかし、心の奥で、その旋律が確かに響いていた。


「そう...」陽菜の声が遠くなる。「でも、きっといつか思い出すわ」


夕陽が差し込む窓辺で、二人は沈黙を共有していた。時間が、不思議なほどゆっくりと流れている。


その夜も、澪は夢を見た。今度は音楽室で、誰かと一緒にピアノを弾いている。相手の姿は、やはり霞んでいた。


しかし確かに、その夢は「記憶」の匂いがした。



第5話「陽菜の古い写真」


音楽室でのピアノから一週間が過ぎていた。


図書準備室で、澪は古い写真アルバムを見つけた。「学校行事記録 1995-2010」と背表紙に記された、埃を被った分厚い本だった。


「あら、懐かしいわね」


いつの間にか陽菜が背後に立っていた。二人は机に向かい合って座り、ページをめくり始めた。


「この写真、素敵ね」


陽菜が指さしたのは、2009年の文化祭の一枚。ステージでピアノを弾く少女の横顔が、夕陽に照らされていた。しかし、その写真に写る少女が、今隣にいる陽菜にそっくりだったことに、澪は息を呑んだ。


「よく似てるわね」陽菜は当たり前のように言った。「私の姉に」


その説明は自然に聞こえた。しかし、写真の日付を見て澪は違和感を覚える。15年前の写真に写る少女が、姉というには年齢が合わない。


「この曲、確か...」


陽菜は写真を指さしながら、その時の演奏曲について詳しく語り始めた。プログラムにも載っていない情報を、まるでその場にいたかのように。


「どうして、そんなに詳しいの?」


澪の問いに、陽菜は一瞬表情を曇らせた。


「え、ええと...記録が残っていたのを見たことがあって」


その言葉に嘘の響きがあることは、二人とも分かっていた。


ページをめくると、次々と懐かしい景色が現れる。校舎の古い姿、いまは改装された図書室、なくなった中庭の噴水。陽菜は一枚一枚に思い出を語るように解説を加えた。


「この噴水ね、真夏の放課後によく...」


言葉が途切れる。陽菜は自分の言葉に気付いたように、急いでページをめくった。


夕暮れが近づき、準備室の空気が紫色に染まり始めていた。最後のページには、2010年の卒業式の写真があった。その中に、また陽菜によく似た少女の姿があった。


「もう、こんな時間」


陽菜が突然立ち上がる。その動きは、何かから逃げるかのようだった。


「また、明日ね」


去り際の陽菜の背中が、夕陽に透けて見えた気がした。錯覚だろうか。


その夜、澪は再び夢を見た。夏の日の図書準備室。誰かと一緒にアルバムを見ている。しかし今回も、一緒にいる相手の顔は霞んでいた。


目覚めた時、枕が涙で濡れていた。なぜ泣いていたのか、澪には分からなかった。


ただ、胸の奥に確かな想いが残っていた。陽菜は、何か大切なことを隠している。そして、それは自分とも深く関わっているのではないか、という予感を。



第6話「見えない記憶」


朝の職員室に、佐伯先生は一人で残っていた。


「水城陽菜...」


手元の古い名簿を見つめながら、先生は深いため息をつく。15年前の記録に、確かにその名前があった。しかし、それは現実であってはならないはずだった。


「先生、おはようございます」


振り返ると、そこに陽菜が立っていた。制服姿の彼女は、朝日に透けて見えるような儚さを帯びていた。


「あの日のこと、先生は覚えていますよね?」


佐伯先生は答えなかった。ただ、悲しみの色を浮かべた目で陽菜を見つめるだけだった。


教室では、澪が窓際で本を読んでいた。しかし、文字に集中できない。昨日見つけた写真アルバムのことが、頭から離れなかった。


「一ノ瀬さん」


陽菜が教室に入ってきた。その姿が一瞬、写真の少女と重なって見えた。


「今日の放課後、音楽室に来てくれない?」


澪は小さく頷いた。二人の間に流れる時間が、どこか特別なものに感じられた。


授業中、澪は断片的な映像に悩まされ続けた。誰かと過ごした夏の日々。音楽室でのピアノ。図書室での静かな時間。しかし、それらは確かに存在したはずの記憶なのに、どこか手の届かない場所にあった。


「あの写真の子」昼食時、澪は切り出した。「本当に姉さん?」


陽菜は箸を止めた。校庭に散る桜の花びらが、二人の間を舞う。


「ごめんなさい」陽菜は俯いた。「嘘をついてしまって」

「じゃあ、あの子は...」

「それは、まだ言えないの」


放課後の音楽室。陽菜はピアノの前に座り、見知らぬ曲を奏で始めた。しかし澪の耳には、どこか懐かしい音色に聞こえた。


「この曲ね、15年前の文化祭で弾いたの」


陽菜の言葉に、澪は戸惑いを隠せなかった。彼女の年齢では、それは明らかに矛盾している。


「どういうこと?」

「もうすぐ、全て分かるわ」


夕陽が差し込む窓辺で、陽菜の姿が透き通って見えた。今度は確かに、錯覚ではなかった。


「私ね、ずっとあなたを探していたの」


その言葉が、澪の心の奥深くで、何かを揺り動かした。まるで、封印された記憶が目覚めようとするように。


しかし、その時の澪には、まだその意味を理解することはできなかった。


ただ、確かな予感だけがあった。陽菜との出会いは、失われた時間を取り戻す鍵になるのではないかという。





第7話「隠された記録」


図書準備室の奥に、誰も手をつけていない古い記録が眠っていた。


澪はノートの束を手に取った。表紙には「1995-2010 部活動記録 音楽部」と書かれている。埃を払うと、黄ばんだページの匂いが漂った。


陽菜の言葉が、まだ耳に残っていた。「15年前の文化祭で弾いたの」


ページをめくると、文化祭の記録が出てきた。2009年10月、ピアノ独奏。奏者の名前を探す指が止まる。


「水城陽菜」


確かにそこに、その名前があった。演奏曲目まで記されている。昨日、陽菜が弾いていた曲と同じだった。


「あら」


背後から声がして、澪は振り返った。佐伯先生が立っていた。記録を見ている澪に、複雑な表情を浮かべている。


「先生、これは...」

「その記録は、本当はここにあってはいけないものなの」


佐伯先生は静かにノートを取り上げ、元の場所に戻した。


「でも、確かに水城陽菜さんという生徒は...」

「いたわ」先生は窓の外を見つめた。「15年前に、確かに」


その言葉に、澪の心臓が早くなる。現実と矛盾する事実。しかし、どこかで確かな真実のような気がしていた。


「一ノ瀬さん」


教室に戻ると、陽菜が待っていた。夕暮れの光が、その姿を透かし見せるように照らしていた。


「音楽部の記録、見てきたの?」


澪は黙って頷いた。質問する前から、陽菜は知っていたようだった。


「ごめんなさい」陽菜は微笑んだ。「まだ、全ては話せないの」


二人は放課後の校舎を歩いた。廊下に差し込む夕陽が、二人の影を不思議な形に伸ばしている。


「でも、あなたはもう気付いているはずよ」陽菜が続けた。「私が、普通の転校生じゃないってことに」


確かに、澪は薄々感じていた。陽菜の言動、古い記録、そして自分の中の説明できない懐かしさ。全てが、非現実的な何かを指し示していた。


「私たち、前に会ったことがあるの?」


澪の問いに、陽菜は答えなかった。ただ、切なげな表情を浮かべただけだった。その横顔が、夕陽に溶けていくように見えた。


その夜も、澪は夢を見た。音楽室でピアノを弾く少女。今度は、その顔がはっきりと見えた。


それは間違いなく、陽菜だった。15年前の陽菜が、確かにそこにいた。


目覚めた時、枕が涙で濡れていた。懐かしさと切なさが、胸を締め付けていた。





第8話「響きあう音色」


放課後の音楽室に、ピアノの音が響いていた。


澪は廊下で足を止め、その音色に耳を傾けた。陽菜が弾く曲は、聞いたことのないものだった。しかし、心の奥底で確かに共鳴している。まるで、忘れていた何かを思い出すように。


「入ってもいい?」


ドアを開けると、陽菜は弾くのを止めて微笑んだ。夕陽が窓から差し込み、ピアノの黒い表面を金色に染めている。


「一緒に弾かない?」


陽菜が隣に座る空間を作る。澪は戸惑いながらも、ピアノの前に座った。


「でも、私、弾けないはず...」

「大丈夫、体が覚えているわ」


陽菜が澪の手を取り、鍵盤の上に導く。温かな感触と共に、不思議な既視感が澪を包んだ。


「この音から始めるの」


陽菜が弾き始めると、澪の指が自然に動き出した。シンプルな旋律だが、二人の音が織りなす和音は深い響きを持っていた。


「この曲、覚えてる?」

「いいえ、でも...」


言葉に詰まる。確かに記憶にない曲なのに、指が自然と正しい鍵を探し当てていく。まるで、何度も弾いたことがあるかのように。


窓の外では、夕暮れの空が徐々に色を変えていった。二人の奏でる音色が、静かな空間を満たしていく。


「15年前、私たちはこうしてよく弾いていたの」


陽菜の言葉に、澪の指が止まる。しかし、心の中では音楽が鳴り続けていた。


「どうして、私にはその記憶がないの?」

「それはね...」


陽菜の言葉が途切れた瞬間、一陣の風が窓を通り抜けた。楽譜が舞い、陽菜の姿が一瞬透き通って見えた。


「まだ、その時じゃないの」


陽菜は再び鍵盤に向かい、別の曲を弾き始めた。切なく、しかし温かい旋律。澪は目を閉じ、その音色に身を委ねた。


遠くで、誰かの笑い声が聞こえるような気がした。夏の日の音楽室。二人で弾くピアノ。確かにあったはずの記憶が、少しずつ形を取り始めていた。


帰り道、澪は空を見上げた。夕焼けが、15年前の空と重なって見えた。


陽菜との出会いは、失われた時間を取り戻すための鍵なのかもしれない。そう思った瞬間、胸の奥で何かが震えた。


まるで、長い眠りから目覚めようとする記憶のように。





第9話「揺れる記憶」


夢の中で、澪は夏の日差しの下にいた。


音楽室でピアノを弾く陽菜。図書室で本を読む陽菜。中庭で笑顔を見せる陽菜。全ては15年前の光景なのに、鮮明に感じられた。


「約束、したよね?」


夢の中の陽菜が、澪に向かって手を伸ばす。その指先が、夕陽に溶けていくように消えていく。


「澪」


目を覚ますと、寮の部屋で朝日が差し込んでいた。枕は、また涙で濡れていた。


教室に向かう途中、佐伯先生と出会った。先生は、澪の顔を見て足を止めた。


「また、夢を見たの?」

「はい。でも、今度は...」


澪は言葉を探した。今朝の夢は、これまでより鮮明だった。まるで、記憶が少しずつ形を取り始めているかのように。


「記憶は時々、不思議な形で戻ってくることがあるのよ」


先生の言葉には、どこか意味深な響きがあった。


教室では、陽菜が窓際で本を読んでいた。その姿が一瞬、15年前の夢の光景と重なって見えた。


「おはよう」


陽菜の声に振り返ると、そこには現在の彼女がいた。しかし、その微笑みは夢の中のものと変わらない。


「昨日の曲、覚えてる?」

「ええ、なぜか...」


授業中、澪は教科書の文字に集中できなかった。断片的な記憶が、意識の端をちらつき続ける。


誰かと交わした約束。失われた夏の日々。そして、説明のつかない喪失感。


「一緒に図書室に行かない?」


放課後、陽菜が声をかけてきた。その声に、澪は懐かしさを覚えた。まるで、何度も聞いたことがあるかのように。


図書室の窓際で、二人は向かい合って座った。夕陽が本棚の間から差し込み、陽菜の横顔を優しく照らしている。


「私ね、あなたのことを...」


陽菜が言いかけた瞬間、風が吹いて窓が開いた。ページが舞い、陽菜の姿が一瞬かすんで見えた。


「まだ、言えないの」


その夜、澪は再び夢を見た。今度は、誰かと交わした約束の場面。しかし、その内容は霞んでいて、はっきりとは思い出せない。


ただ、確かな感覚だけが残っていた。大切な約束。失われた時間。そして、必ず果たすべき誓い。


目覚めた時、心の中で陽菜のピアノの音が鳴り続けていた。





第10話「見える過去」


歴史のテストのため、図書準備室で資料を探していた澪の手が止まった。


「2009年度 文化祭記録」というアルバムを見つけたのだ。陽菜が写っていた写真が、また見つかるかもしれない。


ページをめくると、そこには予想以上のものが写っていた。音楽室でピアノを弾く陽菜。図書室で本を読む陽菜。そして、驚くべきことに、陽菜の隣には誰かが写っていた。


「これは...」


写真に写る少女は、間違いなく自分だった。しかし、それは現在の制服ではなく、15年前の古い制服を着ていた。


「見つけちゃったのね」


背後から声がして、澪は振り返った。佐伯先生が立っていた。


「先生、これは...」

「あの夏のことを、少しずつ思い出し始めているでしょう?」


先生は静かに写真を手に取った。その目には、懐かしさと悲しみが混ざっていた。


「でも、私がここにいるはずない。15年前なのに...」

「記憶って、不思議なものよ」


佐伯先生は窓の外を見つめた。夕暮れが近づき、空が赤く染まり始めていた。


「時々、大切な記憶は心が守ってしまうの。あまりに辛すぎる出来事から、私たちを守るために」


その時、陽菜が準備室に入ってきた。夕陽に照らされた彼女の姿は、写真の中の少女と重なって見えた。


「その写真、私たちが初めて出会った日のものよ」


陽菜の言葉に、澪の胸が高鳴った。確かに、その時の記憶が少しずつ形を取り始めていた。


音楽室での出会い。二人で弾いたピアノ。交わした約束。しかし、その先の記憶は、まだ霧の中にあった。


「どうして私には、はっきりと思い出せないの?」

「それはね...」


陽菜が答えようとした瞬間、一陣の風が窓を通り抜けた。写真が舞い、陽菜の姿が一瞬透き通って見えた。


「もう少しだけ、時間が必要なの」


その夜、澪は再び夢を見た。今度は、音楽室での約束の場面。陽菜と交わした言葉が、少しずつ鮮明になっていく。


「必ず、また会おうね」


目覚めた時、その言葉だけが、はっきりと心に残っていた。




第11話「交わる想い」


放課後の音楽室で、陽菜は窓際に佇んでいた。


「昨日の夢のこと、覚えてる?」


突然の問いかけに、澪は息を呑んだ。確かに昨夜、約束の場面を夢に見ていた。しかし、それを陽菜が知っているはずはない。


「どうして...」

「私も、同じ夢を見たの」


夕陽が二人の間を照らし、陽菜の姿が透き通って見えた。今では、それが錯覚ではないことを澪は知っていた。


「15年前の夏、私たちは確かにここで出会った」陽菜が続ける。「そして、大切な約束をしたの」


澪は静かに頷いた。記憶は曖昧なままだったが、心が確かにその言葉に反応していた。


「でも、どうして私にはその時のことが...」

「それはね」


陽菜が言いかけた瞬間、ピアノの弦が震えるような音を立てた。誰も触れていないのに、かすかな音色が響く。


「この曲覚えてる?」


陽菜がピアノの前に座り、弾き始めた。優しく切ない旋律。澪の心の奥で、何かが震えた。


「これは...」


確かに聞いたことがある。いや、自分も弾いたことがある。そんな確信が、少しずつ形を取り始めていた。


「最後に二人で弾いた曲よ」


その言葉に、新たな記憶の断片が蘇る。夏の終わりの音楽室。二人で奏でた旋律。そして、交わした約束。


「もうすぐ全てを思い出せるわ」陽菜が微笑む。「でもその前に、私から言っておきたいことがあるの」


夕暮れの光が強くなり、陽菜の姿がより透明になっていく。


「私ね、あなたのことが...」


その時、廊下から足音が聞こえた。佐伯先生が立っていた。


「もう、こんな時間」


陽菜は急いで立ち上がった。去り際、その背中が夕陽に溶けていくように見えた。


「水城さんは」佐伯先生が静かに言った。「本当はもうここにいない存在なのよ」


その言葉の意味を、澪はまだ完全には理解できなかった。しかし、確かな予感があった。


陽菜との再会は、失われた約束を果たすための奇跡なのかもしれない。そして、その約束を思い出すとき、全ての謎が解けるのだと。


その夜の夢は、いつもより鮮明だった。陽菜との約束。そして、その直後に起きた出来事。しかし、記憶はそこで途切れていた。


まるで、心が何かから自分を守ろうとしているかのように。



第12話「浮かび上がる真実」


古い新聞のページが、佐伯先生の手の中で微かに震えていた。


「これを見て」


夕方の保健室で、先生は澪に一枚の新聞記事を差し出した。15年前の地方紙。「全寮制女子高校で痛ましい事故」という見出しが、かすれた文字で残っていた。


記事を読み進める澪の手が止まる。そこには確かに、水城陽菜の名前があった。


「事故...」

「ええ」佐伯先生は窓の外を見つめた。「文化祭の直後だったわ」


夕陽が差し込む保健室で、15年前の真実が少しずつ明らかになっていく。


「陽菜さんは、ピアノの練習の帰りに...」


その時、ドアが開く音がした。


「やっぱり、ここにいたのね」


陽菜が立っていた。夕陽に照らされた姿は、いつもより透明に見えた。


「もう、話してもいいのよ」陽菜は微笑んだ。「私たちの約束のこと」


過去の記憶が、徐々に澪の中で形を取り始める。


15年前の夏。転校生として現れた陽菜との出会い。放課後の音楽室で過ごした時間。二人で奏でたピアノの旋律。そして、交わした約束。


「私ね、あなたのことが好きだった」


陽菜の言葉が、静かな空気を震わせた。


「でも、その気持ちを伝える前に...」


事故の記憶が、鮮明に蘇ってくる。文化祭の翌日。帰り道での出来事。そして、二度と会えなくなった陽菜。


あまりの悲しみに、澪の心は全てを封印してしまったのだ。陽菜との思い出も、交わした約束も、全てを。


「私、ずっと伝えたかったの」陽菜が続ける。「あの時言えなかった気持ちを」


夕陽が強くなり、陽菜の姿がより一層透明になっていく。


「だから、15年の時を超えて、もう一度会いに来たの」


その瞬間、澪の中で全ての記憶が目覚めた。封印されていた想いが、一気に溢れ出す。


「私も」声が震える。「私も、陽菜のことが...」


二人の間に流れる時間が、静かに止まったように感じられた。


佐伯先生は、黙って窓の外を見つめていた。夕陽が沈みかけ、空が深い紫色に染まり始めていた。


この瞬間が、永遠に続けばいいのに。そう思った時、陽菜の姿が夕陽の中に溶けていくように見えた。



第13話「永遠の約束」


夕暮れの音楽室に、最後のピアノの音が響いていた。


「もうすぐね」陽菜が言った。


澪には分かっていた。全ての記憶が戻った今、これが何を意味するのかを。陽菜が此岸の世界に留まれる時間が、終わりに近づいているということを。


「最後に、もう一度一緒に弾きましょう」


陽菜が澪の手を取り、ピアノの前に導く。15年前と同じように。夕陽が二人を包み込み、音楽室が金色に染まっていた。


「覚えてる?私たちの曲」


澪は静かに頷いた。二人の指が鍵盤に触れた瞬間、優しい旋律が広がり始める。15年前に二人で作った曲。約束の証だった旋律が、今、再び響き渡る。


「あの時、私が言えなかった言葉」陽菜の声が震える。「今なら、ちゃんと伝えられる」


演奏が続く中、陽菜の姿がより透明になっていく。


「あなたのことが、ずっと好きだった」


澪の指が一瞬止まりそうになる。しかし、音楽は途切れることなく流れ続けた。


「私も」澪の頬を涙が伝う。「ずっと、ずっと」


最後の音が響き渡る。その瞬間、陽菜の体が光の粒子となって、夕陽の中へと溶けていく。


「ありがとう」


その言葉だけが、空気の中に残された。


佐伯先生が音楽室のドアの前で静かに立っていた。目に涙を浮かべながら。


窓の外では、桜の花びらが舞っていた。春の終わりと、新しい季節の始まりを告げるように。


数日後、澪は図書室で一冊の詩集を見つけた。15年前、陽菜が好きだった本。その栞の間に、一枚の写真が挟まれていた。


文化祭の日の二人。ピアノの前で微笑む陽菜と、その隣で嬉しそうに笑う自分。その頃の純粋な喜びが、写真から伝わってくる。


「これからは」澪は空を見上げた。「ちゃんと覚えていられる」


春の光が、静かに音楽室を照らしていた。どこからか、懐かしいピアノの音が聞こえるような気がした。


約束は果たされた。そして、新しい約束が始まろうとしていた。


失われた時を取り戻し、そして前に進んでいく。それが、陽菜との最後の約束だった。


「また、いつか」


澪はそっと微笑んだ。永遠は、きっとこの想いの中にある。
















































































































































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