雪解け

クロノヒョウ

第1話




 グラウンドの奥にたたずむ旧校舎。

 解体工事は雪でおあずけをくらっているところだ。

「寒っ」

 鉄骨の足場とおおわれたシートのすき間をぬって俺は旧校舎へと入った。

 薄暗い廊下をゆっくり歩く。

 静かに。音もたてず。

 傷だらけで薄れてしまった『職員室』という文字。

 ドアの前でそれを見上げてから俺は木造のドアをスライドした。

 机や椅子はすでに取り払われ、真ん中に寂しそうにたたずむ大きなストーブ。

 かじかんだ手でストーブに付いているダイヤルのような大きなつまみを持って回した。

 カチカチと固い音が響いた。

 オレンジ色に輝く炎はすぐに明るさと暖かさを与えてくれた。

 俺はしばらくストーブの前にしゃがんで冷えきった手を暖めていた。

 かすかにグラウンドから声が聴こえる。

 校舎を出て校門へと向かう生徒たちの笑い声。

 その横で誰にも見向きもされないこの静かな旧校舎。

 俺みたいだ。

 取り壊されるこの旧校舎になぜか共感めいたものを感じていた。

 もうすぐあいつが来るだろう。

 ここで過ごす最後の時間。

 俺は寂しいなんて感情を抱いているのだろうか。

 そう思っているとドアはすぐに音を立てた。



 三学期が始まってすぐだった。

 雪のせいで旧校舎の取り壊し作業が延期になると聞いた。

 足場が組まれたまま放置された旧校舎。

 俺はいい穴場ができたと毎日ここに出入りするようになっていた。

 あの日も、午後の授業をさぼろうと旧校舎へと向かっている時だった。

 一階にある保健室の窓のカーテンが開いていた。

 何気なく目を向けた俺はすぐにポケットからスマホを取り出していた。

 同じクラスの水野が保健師に抱きしめられていたからだ。

 男同士でとか先生のくせにとか、あのおとなしそうな水野がとか、驚きはしたもののべつにどうでもよかった。

 俺には関係ないことだ。

 人のことなんかどうだっていい。

 ただ、ちょうどむしゃくしゃしていた俺は誰かでうさ晴らししたかったのかもしれない。

「俺のいうこと何でもきけるよな」

 気づくと俺はさっきの現場の写真を見せながら保健室から出てきた水野にそう言っていた。

「鳴海くん」

 目を見開き顔を真っ赤にした水野。

 保健室の中では保健師が顔を真っ青にしていた。

 いいきみだ。

 ちょうどいい。

 暇潰しになると思った俺はそれから毎日放課後、水野を呼び出しこの旧校舎の職員室で会うようになった。

 何をするわけでもない。

 会話をするわけでもなかった。

 最初はあまりにも怯えた様子の水野がおもしろくてただ水野のことを観察していた。

 ただ二人で過ごす静かな時間。

 まるでこの世界に俺たちしかいないような空間だった。

「なあ」

 隣に座ってストーブにあたっている水野に話しかけた。

「お前、あの保健師とできてんの」

 水野はすぐに首を思いきり横に振っていた。

「違うよ。あれはっ」

 それだけ言って口をつぐんだ水野。

「まあ、俺には関係ねえけど」

 ただ一緒にいるだけの静かな時間はたんたんと過ぎていった。

 そして二週間ほど経ったあの日、ストーブの前で寝転がっている俺の隣で水野がなにやらごそごそと音をたてていた。

「なにしてんの」

 見るとカバンから教科書を取り出した水野。

「もうすぐ期末試験だから」

 そう言った水野に対してなぜか腹が立っていた。

「なら帰れば」

 体を起こした俺は水野の顔を覗き込んだ。

「え、いや、でも」

「勉強すんだろ。帰れよ」

 自分でもわけがわからなかった。

 無性にイラついていた。

「ごめん」

 水野はそう言うと教科書をカバンに戻していた。

「帰れっつってんだろ。もう俺に付き合わなくていい」

「やだよ。帰らない」

「なんでだよ。ああ、あの写真か。わかったよ、消してやるよ」

 俺はポケットからスマホを取り出していた。

「違う。そうじゃなくて、その、鳴海くんが寂しそうだから」

「は?」

 俺は手を止めて水野を見た。

 今にも泣き出しそうな水野の顔。

 ハハ、俺は水野に同情されているのか。

「だったらお前が慰めてくれんのかよ」

 俺はなぜか水野の顔をつかみ、その小さな唇にキスをしていた。

 衝動的だった。

 でも止められなかった。

 水野の唇をこじ開け自分の舌を押し込んでいた。

「んっ」

 唇を離すと目の前にある水野の恍惚とした顔。

「わぁー」

 我に返ったのか真顔に戻った水野は勢いよく立ち上がると走り去ってしまった。

「くそっ」

 無性に腹が立つのと自分がやったことの後悔とでイライラはおさまりそうになかった。

 何をやってんだ俺は。

 きっともう水野は来ないだろう。

 いいさ。

 もともと俺はずっとひとりだ。

 学校でもひとり、家に帰ってもひとり。

 オヤジが何をやっているのかも知らねえ。

 どっかの会社のお偉いさんなのはわかる。

 たまにしか帰ってこない広いマンション。

 母親は三年前に出ていった。

 それから全てがどうでもよくなった。

 絵に描いたような自堕落。

 ケンカに女遊びにと荒れた生活。

 高校なんて行く気もなかったのにオヤジは無理矢理俺をこの高校へ入れた。

 進学校か知らねえが当然浮いた存在の俺には居場所はなかった。

 この金髪のせいか誰も俺を見ようとしない。

 授業中に寝ていようが何しようが先生も何も言ってこない。

 俺の存在は無いに等しかった。

 そうだ。

 だからあの時、水野が保健師と抱き合っていたのを見た時、俺は嬉しかったのかもしれない。

 この学校にもあんなことをやっている奴がいる。

 ましてやそれがあのおとなしそうな水野だったから。

 それから、最初は水野を脅してパシりにでもしようかと思っていた。

 でもあの怯えたような水野を見ているとそんな気も失せた。

 そして、そうだ。

 ただ水野がずっと俺の隣にいてくれることが嬉しかった。

 誰かと一緒にいることがこんなに心地いいものだということを知った。

 いや、水野だったから心地よかったのか。

 でもそれももうおしまいか。

 そう思っていたのに、次の日も水野は旧校舎の俺のもとへやって来た。

「お前、俺に何されたかわかってんの」

 水野は静かにうなずいた。

 そしていつものように俺の隣に座っていた。

 意味がわからなかった。

 いつもと変わらない水野。

 変わったのは、それから俺たちの距離が近くなったことだ。

「勉強、教えてやるよ」

 俺がそう言った時の水野の驚いた顔。

「お前、試験勉強するんだろ」

「そうだけど」

 俺は勉強だけはできたのだ。

 できたというか、ひとりでやることがなかったから教科書を全て読んでいただけのことだが。

「信じてないな。教えてやるからわかんねえところ言ってみろよ」

 そうやって勉強した日々。

「すごいよ鳴海くん。鳴海くんのおかげで僕成績上がったよ」

 試験結果がよかったのか、水野は喜んでいた。

 そして試験が終われば三学期も終わる。

 三学期が終われば俺たちも終わりだ。

 延期になっていた旧校舎の解体工事も再開される。

 こうやって水野と過ごす時間もなくなる。

 また俺の居場所がなくなる。

 また俺は無になる。



「鳴海くん」

 ドアを開けて入ってきた水野はいつものように俺の隣に座った。

 終業式。

 きっと今日で俺たちも終わり。

 寒そうにしながらストーブの前で手をすり合わせている水野を見た。

「今まで付き合わせて悪かったな」

 約二ヶ月。

 よくもまあ毎日一緒にいたものだ。

「僕のほうこそ、ありがとう」

「は? なんで水野が礼なんて言ってんだよ」

 水野にお礼を言われるようなことはしていない。

 むしろその逆だ。

「あのね、あの時、ほら、鳴海くんが見た時」

「ああ、保健室の」

「本当はあの時僕、先生に触られたのが嫌で」

「はあ? どういうことだよ」

 まさか、あれは無理矢理だったのか。

「あの日、どうしても眠たくてお昼休みに保健室で寝てたんだ。チャイムが鳴ったから起きて出ようとした時にいきなりあいつに抱きしめられて」

「なんだよそれ」

「僕、気持ち悪いのと怖かったのとでしばらく動けなくて。でもなんとかあいつを押しのけて保健室から飛び出した。そしたら鳴海くんがいて、ちょっと安心したんだ」

 水野は俺を見ながら嬉しそうに笑っていた。

「写真を、証拠を撮っていてくれたのもほっとした。おかげであいつもびびったのかすぐに学校からいなくなってくれた。全部鳴海くんのおかげだよ」

 それから水野はまた俺に「ありがとう」と言った。

 俺はまた無性にイラついていた。

 どうして水野は笑っていられるんだ。

 腹の底から怒りがふつふつと沸いてくるのを感じた。

「お前、俺が何したかわかって言ってんの? あの写真でお前を脅して毎日無理矢理呼び出して、なのになんで笑ってられるんだよ」

「確かに最初は怖かったよ。呼び出されて殴られるのかとも思ったし、何をされるのか怖かった。でもここで見る鳴海くんはちっとも怖くなかった。一緒にいるのがだんだん当たり前みたいになって心地よくなって。それに鳴海くんはいつも早く来てストーブをつけて部屋を暖めてくれてた。勉強も教えてくれたし鳴海くんは本当はとっても優しくてあったかいってわかったから、僕は自分の意思で毎日来てた。僕が鳴海くんと一緒にいたかったから」

「意味わかんねえ。お前俺に何されたかわかって言ってる? 俺は結局あの保健師と同じことをお前にやったんだぞ」

 そうだ。俺も無理矢理水野にキスをした。

 衝動的だったとはいえやってることは俺だってあの野郎と同じじゃねえか。

「だから、その、鳴海くんはちっとも嫌じゃなかった。むしろその逆だって気づいたんだ。だから、つまり、僕は鳴海くんのことが好きになっちゃったんだ」

「は? 好き、だと?」

 水野の顔を覗き込む。

 ストーブの炎のせいかオレンジ色に輝いている瞳。

 目が合うと訪れた沈黙。

 静かな空間に響くどくどくという音。

 これは俺の心臓の音なのか。

「そ、それだけ。僕、鳴海くんのこと、好きだから」

「あ、おい!」

 いきなりそう叫んで立ち上がり職員室から飛び出そうとする水野。

 俺は咄嗟にそれを追いかけてドアの前で水野の腕を掴んでいた。

「ちょっと待てよ」

 そう言ったものの、この場をどうすればいいのかわからなかった。

 それほど俺は混乱していた。

「悪い。マジで、意味わかんねえ」

「そ、そうだよね、あはっ。僕のほうこそごめんね。気持ち悪いこと言って」

 泣きそうな顔をする水野。

 違う。

 俺は水野にそんな顔をさせたかったわけじゃない。

「いや、意味わかんねえのは俺の、自分のことで、気持ち悪いとかもねえし。そもそも気持ち悪かったらとっくに水野のこと突き放してるだろうしキスもしねえし」

 俺の口から言い訳のような言葉が次から次へとあふれてくる。

「とにかく、なんでもっと早くあの野郎のこと言わなかったんだよ。あんな奴、俺がぼこぼこにしてやったのに」

「あはっ。やっぱり鳴海くんは優しいね。僕、その言葉だけで満足だよ」

 俺は優しくない。

 でも水野にそう言われるのはまんざらでもないと思っている自分がいる。

「あのさ水野。俺、その好きとかいうのよくわかんねえけど、その」

 俺は掴んでいた水野の腕を離した。

「ありがとう鳴海くん。ちゃんと真剣に考えてくれてるんだね」

「ああ、それだ。ちゃんと考えたいって思ってる」

 水野が俺を見上げた。

「じゃあさ、春休みも会ってくれる?」

「お、おう」

「一緒に遊びに行ったり、また勉強も教えてくれる?」

「いいけど」

「クラスが別々になってもまた毎日一緒にいてくれる?」

「ああ」

「また、キスしてくれる?」

「うん。は? えっ?」

「今うんって言った!」

 水野が嬉しそうに笑った。

「今のは不意打ちだろっ」

「えへ、そうだよね。ごめん」

「うそ。いいぞ」

 俺は水野のアゴを持ち上げ優しくキスをした。

「あっ」

 驚きで目を丸くする水野。

「目、閉じろよ」

 俺は目を閉じた水野の唇にまた唇を重ねた。

 好きという気持ちがどんなものかわからない。

 でも俺は今すごく嬉しくて楽しいと思っている。

 水野とこれからも会えるということに喜びを感じているということは俺だって水野のことを特別に想っているのだろう。

「なあ」

 唇を離してから俺は水野を覗き込んだ。

「な、なに?」

 顔を赤く染める水野。

「まだよくわかんねえけど、今の俺のこの気持ちが百パーになるまで待っててくれるか」

 俺は真剣な顔をしながら言った。

「うん」

 大きくうなずく水野。

「よし、じゃあ帰るか」

「うん」

 俺はストーブの火を消した。

 最後となる職員室。

 そして旧校舎を出て足場にかけられたシートをくぐり抜け外に出た。

 三月の太陽はもうすぐ春だと叫んでいるかのように俺たちを照らした。

 やっと解け始めた雪が水となって雨のようにシートをつたってきている。

 俺の冷えきった心も水野によって解かされ始めているみたいだ。

 俺はまたこの旧校舎と自分を重ね合わせていた。

 お別れだな。

 あんなに寂しそうにたたずんでいた旧校舎が今はキラキラと輝いていて、取り壊されるのを今か今かと待ち望んでいるように見えた。

「ねえ、鳴海くんの中では、今僕のこと何パーセントぐらいあるの」

 校門を出たところで水野が大きな目を輝かせて俺を見上げた。

「あん? 知らねえよ」

 そんな水野から目をそらして俺は足早に歩みを進めた。

「ちょっと、鳴海くん、教えてよぉ」

 そう叫びながら追いかけてくる水野。

「ハハッ。置いてくぞ」

 水野が俺に走りよってくる足音が心地いい。

 正直自分でも水野のことを何パーセント好きになっているのかなんてわかってない。

 ただ、旧校舎で会うようになってからずっと、やたら水野のことをかわいいと思っていることは恥ずかしくて口が裂けても言えない。

 秘密だ。



           完




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