第24話 さらば青春ノクターン

「我々の音楽は……未来に何も遺せなかったのかね?」


 静寂を裂くようなバッハの言葉に、トキコははっと顔を上げた。

 音楽室の中央ではモーツァルトが変奏曲を奏でている。軽やかに、まるで星々が夜空を転がるような旋律。しかし、その横顔はいつもの享楽的な笑みを湛えておらず、ただ、ひたすらに演奏へと没入していた。


 バッハは彼を眩しそうに見つめながら、ぽつりと呟く。


「君の恋愛沙汰など知ったことではない。だが──」


 漆黒の燕尾服がざわめく。


「人の愛し方くらい……進化していてほしかった。我々の音符が未来に刻んだのは、愛と言う名の依存の檻か?」


「どういう……ことですか?」


 トキコの掌に冷や汗が滲む。涙を拭いながら尋ねると、バッハはゆっくりと視線を落とし、鋭い眼差しで睨みつけた。


「相手の柱を奪うな」


「……え?」


 バッハの低音が床を震わせた。モーツァルトの軽やかなアルペジオが不協和音のように軋む。


「君は相手を大事にすると嘯きながら、彼女の翼から羽根を一本ずつ引き抜いた。その痛みを恋心で麻痺させて……。気付けば心の支柱は君に置換され、逃れようとも飛び立つ羽根は失われ……。自らを支えるために縋るものは君しか残らなくなってしまった」


 低く、重々しい声。


「……そして、そう仕向けたのは他でもない、君自身だ」


「そ、そんなつもりは……!」


「自覚がないなら、なお悪い」


 バッハの言葉が心臓を杭のように貫いていく。痛いほど突き刺さる。


「どうせ君は、そんな恋人を尻目に楽しく青春時代を謳歌していたんだろう。考えてもみたまえ、彼女からすれば恐怖だよ。この世にたった一人、君しかいない。そりゃあ、あの手この手で試したくもなるさ」


 トキコは、息を飲んだ。


 心当たりしかない。

 静華の笑顔──想いが通じ合ったあの日、小さく震える彼女の肩を抱いた時、確かに感じた「支配する指先」の快感。そして、胸の奥でシミのように広がる安堵感。

 ――ああ、これでまた独りじゃない。


 唇を噛むトキコの視界に、ひょいっと赤いコートの端が横切る。


「孤独こそ人生で最高の友だよ、君!」


 その弾むような声に顔を上げると、そこにはモーツァルトが立っていた。

 先ほどまで演奏をしていた彼が、軽やかに歩み寄る。


「今、若者に気づきを与えてやっているのだ。邪魔をするな、モーツァルト!」


「それは高尚なことですが、今日は時間がないですよ、バッハさん」


 大男であるバッハのわきの下に潜り込み、じゃれつくようにしてモーツァルトは言った。


「バッハさんのお話で、自分の悪かったところはわかったよね!」


 トキコは、大きく頷く。


「じゃあ、もうやるべきこともわかるよね!」


 まっすぐな瞳でモーツァルトは微笑んだ。


 やるべきこと。

 ……この事態を収束させる決定的な手段。

 モーツァルトはじれったそうにトキコを見つめていたが、トキコは正解が分からず躊躇する。

 やがて痺れを切らしたモーツアルトが、ウインクをしながら叫んだ。


「土下座さ!」


「……へ?」


 思いもよらない言葉に、トキコだけでなく、バッハも、そして音楽室にいた怪異たちすら動きを止めた。

 演奏を担当していた滝廉太郎がピアノの鍵盤を一音外す。


「だって、悪いことをしたんだろう?  じゃあ、謝るんだ!  土下座はすべてを解決する。土下座こそ至高だよ!」


「お前はもう黙っていろ!!」


 バッハの巨躯が怒涛のごとく動く。モーツァルトを腋に抱え込むヘッドロックの瞬間、トキコの脳裏を静華の涙が走った。

 スマホに並んだ既読無視のメッセージ、引き攣るほど握った彼女の手首の熱……。


「いだだだだあー! バッハさん、ロープ! ロープ!」


 大騒ぎする二人を横目に、トキコはゆっくりと息を吐いた。


 ――謝る。


 それは、思いつきもしなかった単純な答え。

 だが、これほどまでに当たり前のことを、自分はしていなかった。


「……謝ります!」


 微かな決意が、音楽室を凍りつかせた。

 バッハが動きを止め、モーツァルトがにっこりと微笑む。


「許してもらえるかはわかりません。でも、ちゃんと謝ってきます!

 私、彼女にまだ、直接『ごめんなさい』って言ってないんです」


「でも、君の言葉は通じないんでしょお~?」


 モーツァルトが意地悪く言うと、すぐに再びバッハのヘッドロックが襲い掛かる。


「どっちなんだ、お前は!」


「いだだあー! バッハさん、ロープだってばっ! ロープ!」


 また大騒ぎを始める二人をよそに、トキコは決意を固めた。


「たとえ言葉が通じなくても……全身で伝えます!」


 トキコが宣言すると、モーツァルトは満足げに笑い、


「うん、いっといで!」


 と、可愛く笑った。


 トキコは音楽室を飛び出す。


「さあ行くよ行くよ!  バッハさん、魂のセッションです!」


 バッハはすかさず怪異たちに向かって号令を飛ばした。


「あの子をフォローするぞ! ここにいるメンバーでオーケストラを組む!

 廉太郎、ピアノをショパンに代われ。各々、演奏できそうな楽器を持ってこい。指揮は私が取る!」


「いやっほ~い! バイオリンは残しておいてね! 僕の大得意でバックアップしちゃうよー!」


 瞬く間に怪異たちが動き出し、バッハが静かにタクトを掲げる。楽器たちが共鳴し始め、硝子窓に無数の音階が虹色に迸った。


「行ってらっしゃい!」モーツァルトのヴァイオリンが春雷のごとく鳴り、「今なら──」バッハのタクトが宙を裂く、「愛のアダージョが君を追う!」


 トキコが駆けて行く背後で、爆発するオーケストラの結界が制服のリボンを七色に染め上げていた。

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