第25話 弱いオメエにブラック・アウト
そのころ、八重は屋上にいた。
夜空は一面、墨を流したように黒く、その下に広がる旧校舎の校庭を見下ろす。
黒い霧とも靄ともつかぬ不吉な渦がゆっくりと膨らみ、蠢き、古びた朝礼台にまで蝕むように拡がっていた。まるで地獄の蓋が開いたような不気味な螺旋……。
なぜかそこから動き出そうとはしていないが、それがいつまで続くのかは分からない。
(……あれが、私たちが呼び出してしまった静華の生霊)
八重は見張るつもりでその場にとどまり、ただじっと生霊の動向を追った。しかし、じきに背筋がぞくりと震え、二の腕に鳥肌が立つ。
近づくな──生物としての本能が警告を発していた。
だが、あの黒い渦を鎮めない限り、2025年7月に大津波を起こす龍神にリーチできない。
……どうにかしなければ。そう思えば思うほど、トキコの顔が脳裏にちらつき、八重は奥歯を噛みしめる。
だいたい、こんなところに閉じ込められて一体何ができる?
そもそもの話、トキコがもっと上手くやって、静華が納得する形でキレイに別れていたなら、こんな事態にはならなかったはずだ。
(──あの馬鹿が、もう少し人と真剣に向き合えさえすれば!)
八重の胸に、怒りが煮えたぎる。
が、それでも憎み切れないのは、トキコが根っからの女たらしでありながら悪意も衒いもないと知っているからだった。
静華を納得させるには、彼女がトキコを諦めざるを得ないまで傷つけ続けるしかなかった。そんなこと、優しいだけのあの馬鹿にできるわけがない。かといって、丸め込むような真似をして穏便に別れる知恵もない。傷つけるくらいなら、一緒に溺れてしまうのがトキコという人間だ。
……ただ、あのトキコの弱さだけが憎い。
ひとりになるのを異常に恐れ、常に誰かを傍に置く。その無神経さが嫌いだった。
前に壊れた元カノのひとりが、怒りの矛先をトキコとつるんでいた八重に向けてきたことがある。それ以来、関わるのも億劫で、無視を決め込んでいたのだが……。
それなのに──今になって、こんな形でツケを払わされることになるなんて。
(友達なら、殴ってでも止めるべきだったのか……?)
八重の脳裏に、ついさっきのトキコとのやり取りがよみがえる。
「どうしたらいい」
そう助けを求めた友達を、「知るか」と突き放した。
その罪悪感が、のしかかる。
今ごろトキコは雪姫に慰められながら泣いているだろうか。
……いや、馬鹿は死んでも治らないというし、下手したら弱ったふりをして雪姫を口説いているかもしれない。
「もしそうなら……いよいよ付き合ってらんない……」
八重は深く息を吐き、フェンスに爪を立てもたれかかる。ふと、下を見下ろすと、旧校舎の校庭に渦巻く生霊の黒が、さっきよりも濃く、膨れ上がっているのに気がついた。
「ありゃ……? これ、まずいのでは?」
確かめようと身を乗り出した瞬間──
「山口先輩っ! ダメです!!!」
鋭い金属音とともに、屋上の扉が勢いよく開いた。
「は?」
駆け込んできた雪姫が、八重の腰にタックルする。
「おっ……んお!?」
もみ合うように倒れ込む。
八重の後頭部がフェンスにぶつかり、カエルが潰れるような声が喉の奥から漏れた。雪姫は死に物狂いで八重の腰を締め上げてくる。
「自暴自棄になるのはまだ早いです! 落ち着いてくださいいい!」
「お前が落ち着けえ!!」
ようやく息をが出来た八重は、雪姫の前髪をひっつかんで引き剥がした。
「へ……?」
「何勘違いしてんのか知らないけど、頭冷やしてただけだから!」
「え……そうなんですか? ……す、すみません、私……!」
顔を真っ赤にして雪姫は何度も頭を下げる。
そのたびに眼鏡がズレ落ちるので、謝っているのか笑わせようとしているのか分からない雪姫にすっかり気が抜けた八重は、いつもの調子を取り戻したのか大きな舌打ちをした。
「……キッス、ですか?」
「舌打ちだよ!」
「はいっ、すみません……」と、頭を庇いながら縮こまる雪姫の眼鏡を直してやり、八重はふと笑みを浮かべる。
「いっちょ前に心配してくれたの? ありがとね」
八重が人に礼を言うなんて隕石が地球にぶつかるよりも珍しいことなのだが、転校生はそんなことは知らない。
八重は雪姫を引っ張り起こしてから、制服に付いたほこりを払ってやった。
「で、トキコは? ちょっとは反省した?」
「……いえ、やっと見つけたのが山口先輩で、桜田先輩は……」
心臓が跳ねる。
「……一緒に、いたんじゃないの?」
「山口先輩が出ていかれた後、すぐに桜田先輩も教室を飛び出してしまいまして……」
血の気が引く。
生霊の標的はトキコ。そのトキコが、今、一人でいる。
「は……? お前もバカか?
追いかけなきゃいけないのは、どう考えてもトキコだろ!」
「は、はい! すみませんっ……!」
トキコが危ない。
八重は急激に心拍が上がるのを感じ、屋上扉に向かって走り出したその時、雪姫の大声に呼び止められた。
「山口先輩!」
「なんだよ!」
「桜田先輩、いました……!!」
雪姫がフェンスの外を指さしている。
八重は校庭を見下ろし、息をのむ。
そこには……黒い渦へと歩を進める、トキコの背中があった。
「あのバカ……! 一人で何する気だ……!?」
「行きましょう、山口先輩!」
八重は雪姫の声を聴きながら、その時にはもう駆け出していた。
音楽室から微かに聞こえていたピアノ曲は、今はもう合奏となり、音の厚みが増していくところであった。
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