第23話 人生相談キラキラ星をバロックに捧ぐ
トキコは気がつくと、音楽室の前まで走っていた。
涙がとめどなく溢れ、あご先からぼたぼたと滴り落ちる。廊下に小さな水溜まりができて、それすら悲しくて、また泣いた。
――八重が、あんな目で私を睨むなんて。
あの八重が。
どんなときも傍にいてくれた八重が、初めて「知らねえよ」と私を切り捨てた。
愛想を尽かされたのだ。完全に、見捨てられたのだ。
あんな馬鹿にさえ見限られてしまったら、この世界で、誰が私のそばにいてくれる?
ひとりは――嫌だ。
トキコは顔を覆い、その場にしゃがみこむ。
喉の奥に12ポンドのボウリング玉が詰まっているみたい。重くて、痛くて、息が苦しい。
嗚咽をあげるたびに、かろうじて胸のつかえが軽くなる気がして、声を張り上げた。
涙で顔が熱くなる。後頭部がガンガンと脈打つ。
興が乗り、やけくそになって声を張った、そのとき。
「やかましいいいいいっっ!!!!」
音楽室の扉越しに、雷鳴のような怒声が轟いた。
涙が逆流するほどの音圧。びくりと身体が硬直したその弾みでトキコは顔を上げた。
それと同時に耳朶に触れたのは、……途切れなく、鳴り続けるピアノの旋律。
――ピアノ?
鼻をすすりながら、おそるおそる音楽室の扉を開ける。
額縁に飾られた音楽の巨匠たちが、ピアノを囲んで順番に演奏していた。
今、奏でられているのは『キラキラ星変奏曲』。
硝子ケース越しに見た肖像画そのままの青年が、真紅の外套を翻して鍵盤を撫でる。白磁の指先から迸る星屑が、硝子の破片となって床を転がっていく。
「……モーツァルト?」
信じられない光景に立ち尽くすトキコに、重低音と共に影が覆う。
教科書で幾度も見た顔。退屈な音楽の授業であくびをしようと顔を上げるたび、
いつも一番最初に目が合い、睨みつけられるのもこの人だった。
「バッハ……」
「……さんをつけろ。演奏中だ。静かにしたまえ」
分厚い楽譜を抱えた巨漢。その威圧感に思わずトキコの背筋がのけぞる。
それでも、疑問が口をついた。
「な、なにしてるんですか、こんな時に……」
バッハは片眉を持ち上げ、トキコを一瞥した。
「こんな時だから、だ」
低く響く声は、どこまでも重い。
「悪霊から、この校舎を守るために、結界を張っている」
「結界……?」
「君たちだろう、あんな恐ろしいものを呼び出したのは。
私たちの音楽は特別だ。音の波は壁となり、時間稼ぎくらいにはなる。
早く、何とかしたまえ」
10円玉から逃げ出した生霊がすぐに襲ってこないのは、音楽室の怪異たちが押さえてくれているおかげだったのだ。
この間に、あの生霊をなんとかしなければならない。
「でも……どうしたらいい……」
また涙が滲んで、トキコは俯いた。いろんな言葉たちが喉に詰まって食道が焼けている。
モーツァルトの奏でる優しいピアノの音色が余計に胸を締めつけ、それはやがて一気に流れ出した。
「可愛いから好きだと思った! 好きだから大事にしようと思った!
自分の全部で尽くして尽くして、静華を大切にしていただけなのに……。変わってっちゃったのはあの子の方なの。
わがままな子だったけど、そこも好きだった。
なのに、だんだん度を超すようになってって、夜中に呼び出してきたりいきなり死ぬなんて言い出したり、私を試すようになってった。私も必死だった。だけど……どんなに自分を捧げても、足りないって。
もっと私を愛してって、まだ信じられない、まだ足りない、もっともっと……もっともっともっともっと……っ!
最後には、言葉が通じなくなっちゃった。……私が好きになる子、みんなこうなっちゃう。なんでなの……?私が悪いの……?
だからなんとかしろって、私がなにかすればすればするほど壊れていっちゃうのに、私に何ができるって言うんだよ……!」
しゃくりあげるトキコの嗚咽だけが、音楽室に響いた。
しばしの沈黙のあと。
バッハは、少し離れた場所でピアノを弾くモーツァルトへと視線を戻した。
深く、ひとつ息を吐く。
――まったく、聞いていられない。
そんな表情で。
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