第43話 黄泉平坂(よもつひらさか)

 昴は刀を投げ捨て、羽織を脱ぎ捨て、河に飛び込んだ。

 だが、山犬は総じて泳ぎがそれほど上手くない。咲良を早々に見失って顔を出すと、水面に手を上げる要が見えた。


「確保しました、上がります!」


 泳ぎに慣れたかわうそである要は咲良を小脇に抱え、一足早く川岸へ。昴もそれを見て上がったが、全身ぐっしょりと濡れた咲良は腹の傷の出血がおびただしく、その上真冬の河に落ち体温を奪われていた。

 かすかに息はあった。


「腹の傷が深い……」


 要の声に焦りが見えた。昴も袖を割いて傷に押し当てたが、みるみるうちにそれは真っ赤に染まっていく。

 考えたのは数拍。昴が声を飛ばした。


「……現世に連れていく!」


 彼は理解していた。あまりにも彼女は重症だ。人間の医者に診せなければ。


「ですが手形が!」

「先ほど受け取ってきた!」


 昴は咲良を抱き上げ、手近な稲荷の鳥居に向かった。

 とにかく必死だった。


「咲良、頑張れ!」


 現世に移動し、稲荷神社の神職を叩き起こし、救急車で運ばれた咲良は緊急手術となった。


 しばらくののち、手術室前の廊下の椅子で項垂れている昴に声をかけた人物がいた。


「大将s……これを」


 あやめを牢に放り込み、後から追いかけてきたおとが持ってきたのは咲良の鞄だ。財布の中に保険証。それから錦屋にあったありったけの円が入っている。


「すまんな、わざわざ持ってきてもらって」

「いいえ」


 泣きたかった。正直、どうしていいかわからない。

 警察も惑わしの術で誤魔化し、病院関係者も惑わし親族ということにしてある。


 咲良が、生死を彷徨っている。

 彼女は一度、救急車の中で心肺停止した。時間は一分ほどだが、魂魄こんぱくが肉体から離れかけていることは明白であった。


 手術はかなり難しく、時間もかかるだろうと聞いていた。

 あやめは短刀咲良の腹に刺して、それを手首を捻って回した。

 臓腑がズタズタに引き裂かれてしまったのだ。


 昴は立ち上がった。おとに、咲良の荷物を突き返す。


「大将……?」


 昴は無言で外に出た。おとも何かを察して無言でついてきた。

 救急車が停まっていた。また、誰かが運び込まれたのだろう。ふたりはひとけのない影に移動した。


「咲良を連れ戻す!」

「それは禁忌ですよ!」

「根の国に足を踏み入れる前に追いついてみせる」

「ですが大将が!」

「もとより覚悟の上だ」


 死にゆくものを連れ戻すことは重罪である。しかし、昴に覚悟はできていた。


「おぬしはここで咲良の手術が終わるまで見守ってくれ」


 彼は人の姿から山犬の姿に転じると、一目散に駆けた。まずは海沿いを南下。ひたすら江戸へ向かい、日本橋から進路は東海道へ。

 空が白んできたが、昴は足を止めなかった。


 朝。品川を過ぎたところで新幹線に追い抜かれて、昴は足を止めた。あれだ。あれにしがみついていこう。

 次の新横浜の駅で屋根に飛び乗り、新幹線が来るのを待って屋根に飛び乗った。

 

(これはきついな……)


 あまりの風圧に吹き飛ばされそうになる。

 新幹線から落ちたら、流石に昴でも無傷ではすまない。

 なんとか名古屋まで耐え、それから新大阪で飛び降りる。


 昨夜から一切飲み食いしていない昴は途中の小川で喉の渇きを癒し、日本海側へひた走る。身体中が痛んだが、足を止めるわけにはいかなかった。

 目指すは、出雲。

 この世とあの世の境、黄泉平坂よもつひらさかである。


***


(ここは……?)


 石柱が二本立っており、その石柱を結ぶ不思議なしめ縄が特徴的な鳥居だ。

 咲良はぼうっとそれを見上げる。


(行かなくちゃ……)


 左右には静かな木立が並んでおり、鳥の声ひとつ聞こえない。

 いいのだろうか。


 生き物の気配のない森だ。なんだか背筋がぞわぞわする気がした。

 行かなくてはならないが、行ってはならないような気がする。何か大切なことを、忘れている気がした。


 咲良は何かに導かれるように緩やかな坂を進む。


 やがて、道を塞ぐ大岩が見えた。


 ああ、目指していたのはここか。

 一歩踏み出すと、その岩が消えた。


 そして、驚きの人物が姿を見せた。


「おとう……さん」

「まだこっちにきちゃダメだ、戻りなさい!」


 そこにいたのは必死な様子の父の姿。咲良は足を止めた。

 咲良の知っている、の彼とは全く違う。


(そうだ、死んだ……はず)


「ここはいったい……」

「咲良! 待て!」


 後ろから声が聞こえて振り返れば、真っ黒な犬が舌を垂らして必死に駆けてくる。

 あの犬は、なんだ?


「おいぬさま! お願いします! 咲良を何卒!」


 咲良の父、元彦が叫ぶ。犬は人の姿に変わった。

 咲良の頭の中で、かちりとパズルのピースがはまった。


「昴さま!」


 咲良は彼に飛びついた。

 力強い腕に抱き止められる。


「元彦、おれに任せろ!」

「咲良、またな。ゆっくり来るんだよ」


 気がついた時、そこには元の大岩があった。


「あそこは……」

「あの岩の向こうは根の国、死者の国だ……帰ろう、咲良」


 彼に手を引かれ、導かれ……。


 最後、不思議な鳥居の前で苦しいほど抱きしめられた「ごめん、お別れだ。許してくれ。おれを忘れないでくれ」確かにそう彼は言った。

 そうして咲良が気がついた時、見えたのは見たことのない天井と点滴台だった。

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