第28話 飼い犬ごっこ
次の日。藪入り二日目。
息が凍りそうなほど冷え込んだが、空気がすがすがしい朝であった。
厨房に顔を出せば、もうおとも粋も起き出してきていた。早い。
朝ご飯は、前日粋とおとが現世で買ってきてくれたパン。それから、咲良とおとのふたりで作った野菜たっぷりのミネストローネ。メインの卵料理は、オムレツでも目玉焼きでもスクランブルエッグでも問題ない。昴にも聞いてから調理しよう。
「それにしても、大将起きてこないねぇ」
「うーん、やっぱ昨日お酒飲んだのよろしくなかったんですかね?」
咲良は粋を見上げた。
別に大量に飲んだわけではないが、昨日は上機嫌そうに杯を重ねていた。
ちなみに、解散は結構早かった。
「もう毒は結構抜けてると思う。流石にここまで引っ張るとは思えない」
粋は眉をしかめて首をひねった。
おとがぽんぽん咲良の肩を叩いた。
「さく、ちょっと見てきな!」
「え! 私ですか!?」
咲良が驚きの声をあげると、粋が畳み掛けるように言った。
「さく、行ってこい。大丈夫だ、あの人はあんなに気軽に女性を部屋に入れないのに、さくはいっつも入り浸ってるだろ」
「そうそう、粋が言う通りで、気を許してるから行っておいで」
かくして、咲良は複雑な顔をしながら彼の部屋に向かった。
(多分、気を許しているわけじゃぁないんだよなぁ……)
彼はきっと、そうじゃないのだ。
咲良は人間だ。この隠り世で、咲良は異分子。だから彼は気軽に話してくれるのだ。咲良はそう思ったが、ふたりにはとても言えなかった。
昴は山犬、つまり狼だ。そして、この宿を経営し、社を持った神さま。群れで生きる生き物。宿のオーナーは、いわば、群れの長。
周囲に簡単に弱音なんて吐けないだろう。
咲良はどうせそのうちいなくなる。
ぐちをこぼすのも、そう考えればちょうどいい相手なのだ。しかも、咲良は代々社を守ってきた一族で彼は咲良のことをよく知っている。
咲良は裏口から外に出た。
朝なので、散歩がてら縁側から声をかけようと思ったのだ。
朝日が少し眩しい。池に薄氷が張っていた。もちろんのこと、吐く息も白い。
霜柱をざくざく踏みながら裏庭を進む。
普段なら悠々と泳ぎ、人影に反応し餌をねだりにくる錦鯉も寒さで池の底にいるのか、沈黙したまま。
(あれは……)
縁側に、真っ黒いまんまるの塊があった。
背中の長い毛が風でそよそよ揺れている。
鼻先を尻尾に突っ込んで、艶々の鼻が隠れている。
(もふワンコだ……)
規格外のサイズを別として、飼い犬との決定的な違いは太い脚やしっぽ、がっしりして毛が密集した首、背中の十センチ近い長いふさふさの毛など色々とあったが、やはり一番は金色の鋭いまなざしだ。
その目が閉ざされてすやすやと眠っている今、咲良の目にはでっかいワンコにしか見えない。
「昴さま……」
声をかけると、尻尾がぱたぱたと動いた。
「昴さま? おはようございます、朝ご飯の時間ですよ」
「ん……おはよう」
彼は顔を上げ、目が半分しか開いていない寝ぼけまなこで咲良を見つめた。たっぷりと三秒ののち、彼は飛び上がった。
「しまった! 二度寝しすぎた!」
「あ、流石に一晩そこで寝ていたわけではないんですね」
「日が昇って外に出て、いい天気だなと二度寝した」
彼は変化を解かずに前足を前に伸ばし、びよーんと伸びをして、ふわぁーっと大あくびをした。
舌が長い。歯が鋭い。そして何より、そこまで口が大きく開くのかと驚いた。
あごが外れるのではないかというくらいだ。
さすが、
彼はそのまま全身の毛を逆立てて、ぶるぶると身体を震わせた。
咲良は縁側に腰を下ろした。昴が隣にぴったり身を寄せるように腰を下ろして、咲良の身体にするりとふさふさの尾を巻きつけた。
温かい。
「元気そうでよかったです」
「おれ自身はまあまあ調子は良くなってきたが、爪が材料として使えるまでにもう少しかかりそうだ。末端から毒が抜けてない」
「手形の件でしたら大丈夫ですよ」
確かに咲良は現世に帰らなければならない。
だが少し、もう少し、ここにいたい。
彼をもっと知りたい。
咲良がなんとも複雑な気持ちで彼を見ると、昴は何かを感じ取ったようにごろりと寝そべった。気持ちよさそうにごろごろ転がった後最後仰向けになって咲良の方を見上げてくる。
前足を足首で曲げているその姿は目つきのちょっと鋭い犬そのものだ。
彼は咲良の方を見て、犬のように鼻をきゅんきゅん鳴らした。
(かわいい!)
咲良は元来犬好きである。
幼い頃、近所にシェパードとハスキーを飼っていた家があり、よく遊びに行っていた。犬がこのポーズをするときは甘えているか腹を撫でろというサインである。
咲良は迷った。
本当に撫でてもいいのだろうか。
見下ろせば、胸のところに白い模様がある。ツキノワグマの三日月模様のある位置だが、三日月型でもなく真円でもなく丸が複数重なった不規則な形をしている。
咲良はその胸に恐る恐る手を伸ばした。
手がふさふさの毛の中に埋まった。温かい。気持ちがいい。咲良の口角が自然と上がった。
視界の隅で尻尾がぶんぶん振れたが、それがはた、と止まった。
「ん? どうかしました?」
咲良がそう発した時だ、背後から玉砂利を踏む音が聞こえた。
「大将……何朝っぱらからいちゃついてんです? 飯が冷めますよ」
粋の声だった。咲良ははっと我に返って真っ赤になった。
否定のしようもない。
「……飼い犬ごっこをしてたんだ」
昴は苦しげに謎の言い訳を捻り出した。
神さまとしてのプライドは、ないのだろうか。
「さく、今度ボールやるから投げてみろ、多分、昴さまが拾って持ってきてくれる」
「いやあの流石にそれは……」
咲良は丁重にお断りしたが、隣で人の姿になった昴が声を出して楽しそうに笑っていた。
多分ボールを投げたら拾って持ってきてくれる。そう確信した咲良であった。
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