第26話 ひとつ、昔ばなしをしよう

 翌日には昴の予想どおりあやめは出ていった。

 咲良は胸が息苦しいほどの痛みをおぼえた。自分がここに来なければ彼女はずっとここにいられたかもしれない。食欲もあまり出ず、昴は自分の体調が悪かったにも関わらず心配して声をかけてくれた。彼は「ここで働いていたんだ、どこでも働き口はあるだろう、おぬしが気に止むことじゃない」と言ってくれた。


 ただただ、ひたすら申し訳ない限りであった。


 そして、そのまた翌日になり、ついに藪入りの日になった。

 三日間の連休である。


 例の荒振神騒動以来、宿はずっと休業していたが、もちろん掃除をしたり、せっかくだから模様替えや障子の張り替えをしたりだとか、細々とやることが多くあった。


 しかし、この三日間は本当の休みである。 


 隆爺は妻の墓参りに行くと朝早くに出かけて行った。浅草に行くらしい。

 要は宣言どおり現世へ。

 おとと粋は流石に昴が心配なので遠出はしないが、昼間は現世を偵察しつつ、デートするらしい。


 とにかく、この夫婦、こちらが恥ずかしくなるくらい仲睦まじいのだ。


 どうも、山犬や狐など犬の仲間はそういう傾向があるらしい。

 隆爺や昴が言ったように、山犬は一夫一妻制で決して浮気はしないし、独身男性ですら女遊びをほとんどしないようだ。


 昴があやめのアプローチを袖にしつづけたのは単純に彼女に興味がなかったからだ。

 興味のない女性にアプローチされて、今フリーだからちょっと付き合おう、食事にでもとりあえず行ってみるか、というような考えはそもそもないらしい。


(だから昴さまは花街で宴会の後すぐ帰ってきたのか……)


 咲良は出会った初日を思い出していた。


 色々考え込む咲良の隣には、今や頭の中から離れない、昴がいた。

 ふたりは今日出かけることにしていて、連れ立って歩いていたのだ。


 未だ龍が来ていないので、東雲しののめの身柄は錦屋で預かっていた。彼女の世話は、お付きの蛇に頼んでいたがあまり錦屋を開けるわけにはいかない。日が暮れるまでには戻るつもりだ。


 先ほど屋台で軽く寿司を食べ、串揚げの天ぷらもつまみ、これからちょっと海を見に行こうと話をしているところであった。


「本当にお身体大丈夫ですか?」

「ああ、これ以上引きこもっていたら体力が落ちる」


 彼はおそらくだが、痩せ我慢するくせがあると咲良は推測していた。ちら、とその横顔を見上げる。


 そして、もうひとつどうしても気になることがあった。


(婚約者を人間の男の人にとられたって本当なのかな……)


「おれの顔に、何かついてるか?」

「い、いえ……なんでもないです」

「まだ顔色悪い?」

「いえ……だいぶよくなったかと」


 松林を抜けると、砂浜に出た。穏やかな波が太陽光を反射している。

 風はほとんどない。


「風が気持ちいいな」

「はい!」


 波打ち際を無言で歩く。草履を濡らさないように足元に気遣いながら、やっぱり視線は彼にとらわれる。


 ふいに、彼が咲良の手首を掴んだ。どきりと心臓が跳ねた。


「脈も早い、呼吸も少し乱れているし、なんなら落ち着きもない……どうした?」


 何もかも、お見通しである。聞いていたほど人間嫌いではない様子だが、察するに人間好きでもないらしい。人間である自分がこうしてそばにいることが、彼の負担になっているのではないか。


「どうせおれのことなんだろう?」


 咲良は観念して言った。


「婚約者の方がいたって聞いたんですが……」


 彼は苦笑してみせた。ああ、そんなことが気になっていたのか、というような顔である。


「本当だ。他にも気になることがあるんだろう? なんでも話してやる」

「人間の男の人に、その婚約者を……ってのも本当ですか?」


 それが本当なら、彼が人間に個人的な恨みがあってもなんの不思議もない。


「それに関してはちと語弊があるな。ひとつ、昔ばなしをしよう」


 彼は波打ち際から少々移動すると、羽織を脱いで砂浜に放った。


「長いから座るといい」

「ここに?」

「砂だらけになるからこの上に」


 彼の羽織を敷き物がわりにするなんてそんな。恐縮しながらもさらに促され、「失礼します」と腰を下ろす。


 彼は真っ黒な山犬姿に変化した。

 昴は腰を下ろすと、砂の上で腹ばいになった。少しスフィンクスみたいな体制だなと咲良は思った。


「この姿で日光浴すると暖かいからな」


(なるほど……真っ黒だから)


「さて、昔々の話だ。武蔵国で最も棟梁を出している家に、山犬の双子が生まれた。兄は真っ黒で、弟は真っ白。当たり前だが将来を期待された」


(昴さまと弟さんか……)


 咲良は話の腰を折らぬように、頷くだけにとどめた。


「双子は大人になると、すぐに江戸の渋谷で社に仕えることとなった。兄は机仕事を主にして、弟は市中で人間に混じり、彼らの暮らしを己の目で見て報告する仕事をになった。もちろん、里ではいつまでも独身では……という話になっていた」

「いかにも年寄りの考えそうな」

「そうだ。その頃、弟は仕事でよく吉原に出入りして、ひとりの女郎に惚れてしまった……」


 時代劇が好きな咲良はよく知っていた。女郎とは、世間一般で言うところの遊女である。

 人間の女性を好きになってしまったのか。しかも、吉原の籠の鳥を。


「おれは心配になって見に行った。最初は野良犬に化けて行ったんだが……」


の話になってる……)


「野良犬に……」

「すごく優しかった。腹が減ってるだろ、と言っておれにめざしをくれた。あんな環境で魚をくれるなんて礼をしなければならない。次は人間に化けて客として登楼した。土産にカステラを持って行って、他にも何か出前でも頼んでやろうと思ったんだ」


 当時、吉原の遊女はひたすら搾取され、食事もままならなかったという。魚や卵なんて本当に貴重だったはず。その彼女がめざしをくれたから恩を返さねばと思ったのだろう。

 知っていたが、とんでもない真面目男である。


「もちろん、弟が惚れてる女だ。一緒にうなぎを食べて、酒飲んで将棋さして帰ってきたんだが……匂いでバレて弟に噛み殺されかけた。肋骨が三本折れたから、あいつの左腕をへし折ってやった」

「え……」

「まあ、話してわかってもらえた。骨折くらいなら三日もあれば治るしな。弟は彼女を神隠しして一緒になりたいと言った。おれは応援することにした。だから、必然的にだ、おれは一族の皆が望んだ山犬の妻を迎えなければならなくなった……」


 彼はそこで言葉を切って、眩しそうに目を細めながら海に視線を向けた。


 とびが、ぴーひょろろと鳴きながら空を舞っていた。

 海はとにかく凪いでいる。それは、今の咲良の心とは真逆であった。

 先を急かすつもりはなかったが、彼女は口を開かずにはいられなかった。


「つまり、好きでもなんでもない上に、下手すればよく知らない女の人と……」

「そうだ。結局、おれは政治的な目論みから西国の姫を妻に迎えることになった。初めて会ったのは結納の時だ。その時点で、弟はきちんと想い人に話をつけて隠り世に妻として迎えていた。おれは絶対に失敗するわけにはいかなくなった」

「そうですね、お家、名家みたいですし……」


 彼はひとつ頷き、ゴロリと横になった。


「膝貸してくれ」


 頷けば、顎が咲良の膝の上に乗った。金の目が見上げてきて、咲良は誘われるように彼のふさふさの毛に覆われた首筋を撫でた。

 彼は気持ちよさそうに目を閉じた。


「で、だ。輿入れの日も決まった。俺はその頃も江戸にいた。だが、彼女は人間の男を好きになってしまったようで駆け落ちしたと言う話が突然入った。里は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになったらしい」


 大騒ぎになるのも目に浮かぶ。だって、江戸時代の話だ。

 咲良は無言で彼の耳の辺りを撫でた。耳はシェパードなんかよりも小さめでそこが少し特徴的だ。


「だが、おれは正直安心した。これで、気も合わなそうなあのお姫さまと所帯を持たなくて済むってな……それを、世間は武蔵国の昴は婚約者を人間の男にとられたってうわさばなしにした。隆も粋もおとも話のネタとして知ってるはずだ。みんな言っただろ? 俺が人間嫌いだって」

「そうでしたか……」

「いちいちほじくり返して否定したりはしていない。皆誤解してるはず」


 語弊があるとはそういうことか。なるほど納得である。


「話を戻そう。ただ破談になるかと思いきや、ところがそれで話は終わらなかった。この結婚は、政治的な意味があった。西と東の山犬は当時緊張状態だった。これで親戚同士になって盛り立てていこうって目論見が一気に潰れた。西の家は、人間の男を殺して、そのお姫さまを家に引きずって戻した」

「殺しちゃったんですか!?」

「ああ、そして、お姫さまも自害した。おれは自分を恥じた。これで所帯を持たずに済むだなんて、なんて呑気なことを考えてたんだろうと。そして、後は知ってのとおりだ」


 もしかして……と咲良は思って口を開いた。


「山犬が、政略結婚させないようになったっていうのも……」

「おれの一件があったからだな、元々一定数心中はあることだったが、いいとこの年頃の娘の自害というのはかなり山犬界隈に衝撃を与えた」

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