【受賞】星はすばる、花はさくらぎ
矢古宇朔也
第1話 是(こ)れ、貴(かしこ)き神にして
「パパ! ワンちゃん!」
幼い娘を抱えた
何も見えない。
背を冷たいものが走った。
「咲良、ワンちゃんってどこにいるんだ?」
「そこ!」
咲良はなおも同じ場所を指差している。
それは、代々元彦の生家が大切に守ってきた大切なものだった。
石造りの鳥居の奥に扉が閉ざされた小さな
狛犬は、よくあるシーサーのような見た目の
娘はなにも理解できていないが、この神社とも呼べない小さな社は
おいぬさま。ニホンオオカミを神格化した存在だ。
そう、見た目は犬そのものである。
(犬って……)
元彦は娘に、この社にはおいぬさまを祀っているなどと言ったことは一度もなかった。まだ娘は幼すぎた。「神さまに、お供えしようね」と言って、今日もここに来たのに。
空気が変わった。
ぞわりと背筋が粟立った。
ゆらり、と目の前の空間が歪む。
じわり、とそれが姿を現した。
漆黒の被毛。金色の目がふたりを射抜いていた。
耳まで割けんばかりの口が開き、犬歯の隙間から赤い舌がだらりと垂れ、とがった三角の耳がくるくると動いた。
その体躯は以前家族で行った動物園の
ぼと、と元彦が左手に持っていたお供え用のみかんが地に落ちた。
「今どき珍しい、実に霊力の高い娘御だ。目もいいな。見つかってしまった」
元彦は溢れんばかりに目を見開いて、目の前の犬のようななにかを凝視した。
唇がわなわなと震えた。膝ががくがくと定まらない。
犬ではない、おいぬさまだ。こんなサイズの犬はいない。
「俺はあまり人間が好きではないが……そなたの一族は社を守ってくれている、それに……」
目の前の真っ黒なおいぬさまは、尾をゆるりと振った。
「おぬしが先日備えてくれた葡萄酒、なかなかの美味であった。日本酒も嫌いではないが、元禄の折より世の変遷を見据えているといささか飽きが来てな。また
元禄、江戸時代だ。
最も華やかな文化が花開いたという、五代将軍徳川綱吉の時代。
元彦は言葉を失い、首だけをぶんぶん人形のように振ると、「はい、はい……!」と口からなんとか返事を絞り出した。
「酒の礼にいくつか忠告をしよう。その娘、こちらのモノに拐かされぬよう気をつけよ。それから……」
黄金の目がこちらを見据え、空気の匂いを嗅ぐように鼻をひくつかせた。
「きな臭いにおいがする。おぬし、死相が出ておるぞ。嫁御のようになりたくなければさっさと医者にかかるんだな」
元彦はつい先月妻を病気で失ったばかりであった。
おいぬさまは軽い足取りで元彦の元に駆け寄ると、地面に落ちたみかんを見て、元彦を見上げた。
「もらっていこう」
それをひょいと口に咥え、おいぬさまは鳥居をくぐった。ゆらりとその姿が消える。
元彦は震える息を吐いた。腕に抱える娘はきゃっきゃとはしゃいでいる。
ひとつきののち、彼は健康診断に行き、ガンが見つかった。
彼はおいぬさまに感謝し、社に各国の酒や、時には季節の果物を供えた。
ガンは初期だったこともあり、娘が小学校に上がる前には寛解した。
元彦はあの日出会ったおいぬさまの話は誰にもしなかったが、ひとり娘の咲良には「絶対にあのお社は大事にするように」と耳にたこができるくらい言い聞かせていたという。
しかし、咲良が二十歳過ぎた頃にまたガンが再発。
闘病は長くつづき、ついには余命を宣告された。
東京に働きに出ていた娘、咲良は都会の喧騒と社会の荒波と、度重なるセクハラに意気消沈し、父親の余命宣告もあり、東北の海辺の農村に帰郷した。
実家は父親がひとりで暮らしていたので、介護して最後の時間をふたりで過ごしたのだ。
二ヶ月半ののち、元彦は息を引き取った。
物語は、そこから始まる。
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