Episode15 キャッチマイセルフ (3)
無言のまま二人並んで歩いている間に、ぽつりぽつりと冷たい雨が降ってきた。二月下旬の雨だから、深刻なレベルで熱を奪う。駅まで走ろうか迷ったが、そうこうしているうちに土砂降りに変わってしまい、たまらず近くの軒先の下に避難した。
「降られちゃったね。濡れてない?」
「……うん。帽子かぶってて良かった」
猫耳隠し用の帽子が、まさかこんな形で役に立つとは思わなかった。もう猫耳とか気にしている場合じゃないし、ベタベタなのでかぶらない方が良いだろう。
対して、咲の髪はびしょびしょだ。滴るほどではないけれど、全体的に湿っぽくて、この言葉を使うことが許されるなら、扇情的である。私は罪滅ぼしのつもりで、頬に張り付いた髪をよけてあげた。それだけで彼女は嬉しそうに笑って、見ているこっちの胸が痛くなる。
……可哀想だと思った。私なんかをここまで大切にしてくれて、私の言動にいちいち一喜一憂して振り回されて。彼女は要領が良いのだから、もっと楽な生き方もできただろうに。だが私は、そんな彼女に依存しきっていた。そのことを今日、痛感したのだ。
猫耳姿を、可愛いと言ってもらえると思っていた。
恥ずかしい。思い上がりも甚だしい。反応が予想と違った? いや、そもそも高望みをしすぎたのだ。女の子同士の恋愛なんて興味がないと言っておきながら、咲は私のことが好きなんじゃないかと、淡い期待を抱いてしまっていた。卑怯なのは分かっている。でも、私が咲に向けている好意がどんな種類のものなのか、友情なのか、愛情なのか、断じてしまうのが怖い。
私は、誰に対しても誠実じゃなかった。いちばんの親友である咲、彼女にさえも。
「さっきはごめん。咲の誕生日なのに」
「ううん。急に機嫌が悪くなるのはいつものことじゃない。そういうところも可愛いよ」
「……なんで、そんなに優しいの?」
「優しくないよ」
優しいよ、咲は。
「……今日は抱きついてこないんだね」
「え?」
「いつもなら『暖めてー』とか言ってくっついてくるのに」
「なぁにお嬢ちゃん、誘ってんのかい?」
「…………」
「……まじ?」
不意に、身体が引き寄せられた。制服が擦れる感触の中に、時々ほのかに甘い柔軟剤の匂いがする。あぁ、またこれだ。雲の中にいるみたいに、ふわふわした感じ。彼女に抱きしめられる度に、お腹の奥がきゅんとする。
だけど今回は、それだけで終わらなかった。
「ごめん、我慢できない」
そう言って、彼女は唇を重ねた。最初は何がなんだか分からなかったが、そっと何度も触れられるうちに彼女の柔らかさと息遣いを感じた。
服の下から、彼女の手がするすると滑り込んでくる。お腹と脇腹を上に向かってなぞられる度、ぞわっとした感覚が這い上がってくる。おへそも肋骨も、経験したことがないくらい敏感だ。
咲の指が乳房の先に触れ、抑えきれない声が「んぁ」と出てしまったその瞬間――。
私は思わず、咲を突き飛ばした。
怖い。
違う、咲が怖いのではない。このままでは、この一線を越えてしまったら、自分が自分でなくなってしまう気がして怖いのだ。自分はそういうのじゃないのに。たとえその
「なに、してんの。こんな、外で」
息切れを隠そうともせず、大雨が降りしきる景色の中、私たちは向かい合った。
「ごめん、どうしても、灯が、欲しくて」
「欲しいって、何よ。人を物みたいに」
「でも、本当に人形に変えるよりは、こうするほうが良かったでしょう?」
「はぁ? それってどういう……」
彼女はいつの間にか手に持っていた首輪を、私の首に巻き付けた。サイズは私にぴったりで、とても、馴染む。
「ごめんね、灯。ちゃんと言うべきだったのに」
混乱のあまり、咲の話している内容が全然頭に入ってこない。でも、彼女が次に述べた事だけは判然と分かったし、納得感と共に受け入れることができた。
「私が主人公なの」
驚くには値しない。逆に、よく今まで黙っていられたなと感心する。主人公だ主人公だと舞い上がる私を見て、何も思わなかったのだろうか?
「悪いと思ってたよ。だけど、無邪気に主人公だとはしゃげる灯が、羨ましかった」
彼女が抱えていたもの。密かに闘っていたもの。それは、同性への恋心なんて生易しいものではなかったのだろう。穏やかな日常の裏側で、どれだけのことが彼女のために起こり、どれだけの災難が彼女の身に降りかかったのか、想像もつかない。
今日の行為にどれだけの勇気を振り絞り、どれだけの我慢を重ねたのか、想像を絶するのと同じように。
「命令する」
彼女は私の頬を優しく包んで、どこかの漫画の主人公みたいなスキルを発動した。
「今日起こったこと、話したこと、私がしたことは全て忘れなさい」
言い終わった途端、視界がぐらりと歪んで霞む。
「おやすみ、灯。今日のところはお別れだね。また明日」
記憶がなくなる直前、最後に見たのは、割れた空。
その裂け目から、錆びた金属のような色が滲み出ているところだった。
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