Episode8 マウストゥーマウス (3)
「どうしました?」
振り返ると、少女が小径の先に佇んでいた。今日は私服なので半袖のTシャツにハーフパンツというラフな格好だが、表情は初めて会ったときと同じ。唇をきゅっと引き結ぶのは彼女――道連小径の癖なのだろう。
「小径ちゃん、良かった。無事だったんだね」
「はい。それより咲さんは……」
「さっきから様子が変なの。人魂を見た直後から、身体が水に濡れたみたいに冷たい」
「……塩かも知れません」
「え?」
「うちが渡した塩ですよ。あれが、悪霊だけでなく守護霊の働きも阻害しているのかも知れません。特にお墓には、守ってくれるご先祖様たちが沢山いらっしゃいます。咲さんから塩を引き離せば、ひょっとしたら助かるかも知れません」
「そっか。塩は、えっと……鞄にあるって言ってた」
咲の鞄を漁りながら、ある違和感を覚えた。視界の端に映る小径ちゃんは、全然焦っている気配がない。霊が見えるというぐらいだから、何と言うか、場数は踏んでいるのかも知れないが、それにしたってどうして近付いて来ないのだろう。辺りを警戒する素振りもなく、ただ私が塩を見つけるのを心待ちにしているように見える。
塩……。塩?
咲から塩を引き離したらどうなる? 守護霊は、もしかすると力を取り戻すのかも知れないけれど、例の背後霊は大人しくしていてくれるのか? そもそも今、背後霊は彼女の背中に居るのか? 塩を持っている咲には、取り憑くことはおろか、近付くこともできないのではないだろうか。
そう、今の小径ちゃんと同様に。
人魂は二つあった。小径ちゃんも咲と同じく気を失ったのだとしたら、今の小径ちゃんを動かしているのは……。
「ねぇ小径ちゃん」
「見つかりましたか?」
「私が音楽の授業でやらかした失敗の話、覚えてる?」
「え……」
塩を持っている間、ヤツは咲に近付けなかった。その時に小径ちゃんと交わした話の内容は、知らないのではないだろうか。
「覚えてない?」
ただ厄介なのは、記憶違いや物忘れということにして言い逃れできてしまう点だ。小径ちゃん自身のことを尋ねてもいいが、私が知っていることは多分咲も知っているだろう。塩を失くしていた時期に話したことは、背後霊も把握している恐れがある。果たして、彼女は――。
「もちろん、覚えてます。ギターの弦が切れたんですよね」
「あ……うん」
「どうしたんですか、急に」
「いや、考えすぎだったみたい」
連日訪れるピンチのせいで、警戒心が高くなりすぎていた。猫の手も借りたいこの状況で、クラスメイトを疑う理由がどこにある。
「ちなみに――」
この質問で最後にしよう。
「――咲はどんなミスをしたんだっけ?」
「なんだか、おかしいですよ灯さん。そんなことを訊いて、一体何になるんですか」
「ただの確認だから、普通に答えてくれたらいいよ。分かりきったことでしょう?」
「……ええ、まぁ」
彼女は視線を泳がせながら、慎重に、箪笥から割れ物を取り出すように記憶を取りだした。
「……確か、グループ発表のとき、一人だけ裏拍で演奏しちゃったんですよね」
月に雲がかかり、辺りが急速に闇に呑まれる。近くには街灯がないので、小径ちゃんの顔がはっきり見えない。ただ、眼鏡のフレームに反射する光と、その奥にある瞳の色が微かに分かる程度だった。
私は咲の身体がこれ以上夜風で冷やされないように、左手で彼女の腕をさすった。
「そう。咲はリズム感が無いのに、私に合わせて音楽を選択してくれた。正解は、『演奏テストでいつの間にか裏拍を取っていた』」
「あ、はは、そうですよね。引っかけ問題かと思って身構えたじゃないですか。さぁ、塩を――」
「でもね。小径ちゃんの正解はそれじゃない」
「は?」
「咲はね、プライドが高いの。他人の失敗をいじるのが大好きなの」
「……だから何です?」
「咲が自分の失敗談を、軽々しく口に出すはずがない。私が小径ちゃんに教えていなくて、彼女が書道選択である以上、あんたがそれを知っていることは有り得ないの。つまりあんたは、私たちの失敗談を聞いて知っていたんじゃない。話の元になった失敗の瞬間を、咲の背後から目撃していたんだ」
私は右手で握りしめていた塩を、アンダースローで投げつけた。白い粉末は弧を描き、『小径ちゃんの姿をしたモノ』に降りかかる。
「咲から離れろ、このストーカー!」
「きいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいい!」
ソレは、少女の喉から出たとは思えない金切り声で苦しみだした。良かった、私の読みは当たったらしい。ストーカー呼ばわりしておいて本物の小径ちゃんだったら、明日から合わせる顔がない。
気を取り直し、咲の身体に視線を落とした。ヤツを成敗したら元に戻るかと思ったが、変わらないどころか、むしろ顔色が悪くなっている。全然生気がない……っていうか、息、してる?
「咲。ねぇ咲、しっかりして。死なないでよ、ねぇ、咲!」
昔習った救命措置を、見よう見まねで実践してみる。胸の真ん中辺りに掌底を当て、体重をかけて押し込む。これをリズミカルに三十回、それが終わったら顎を上げて気道を確保し……。
ああ。
金属のように沈黙を貫く、愛しい親友の肉体。月明かりに照らされた肌は青白く、もうとっくの昔に死んでしまったようにさえ見える。たとえそれでも、幽霊になっていたとしても、私はもう一度あなたに会いたい。戻ってきてほしい。
意を決して顔を近付け、唇と唇が触れ合――。
「ぷはぁっ!」
――おうとしたところで咲が勢いよく息を吹き返したので、額と額が割れそうな勢いで衝突した。
「つぅー……」
「痛……、灯、ごめん」
「いや……歯が折れなくて良かった」
「確かに。もう少し遅かったら危なかったね」
「私の貞操の危機でもあったしね」
「確かに」
「確かに、じゃないよ。突っ込むところでしょ」
「そっか。私とキスするのが危機なわけないもんね」
「そこじゃないし、人工呼吸はそういうのじゃないっつうの!」
頭を打っておかしくなったんじゃないだろうか。いや、これが平常運転か。
「そんなことより、小径ちゃんは?」
「え、あぁ、そこに」
彼女は横たわったまま目をぱちくりさせて、月の明るい夜空を眺めていた。さっきとは雰囲気が違うので、操られているわけではなさそうだ。
彼女は咲に呼びかけられて、ようやく身体を支え起き上がった。落ちていた銀縁の眼鏡を拾い、丁寧に位置を整える。
「大丈夫?」
「はい……」
返事をしてくれたものの、まだ放心状態のようだ。さっきから執拗に眼鏡をずらしたり戻したりしている。何も考えていないときは、いつもの癖がよく表れるものだ。
「いやぁ、全員無事で良かった。灯のお陰だね、ありがとう」
そう言って抱きつこうとする咲。小径ちゃんは大丈夫として、気になるのはこっちのほうだ。咲ってこんなにオープンだったっけ。性格が変わっている気がする。大体、どうして今目覚めたばかりの咲が小径ちゃんの存在を把握しているのか。まさか、また偽物なんじゃ……。
考えるのも面倒くさい。幸い、塩はまだ私の手の中にあった。
「鬼はー外、福はー内」
「きゃっ、ちょっ、何すんの灯」
「悪霊だといけないから」
「分かったから、もうやめて。もう分かったでしょ、咲よ咲。本物だって」
慌てる咲の顔に加虐心が刺激され、次の塩をリロードする。そうこうしているうちに、小径ちゃんが我に返ったようだった。
「ん、口の周りがしょっぱいです」
「小径ちゃん、助けて!」
「へ? いや、うわ、こっち来ないでくださいよ!」
夜の墓地で塩を掛け合って遊ぶ女子高生三人組。見ている人がいれば通報されること間違いなしの光景だったが、どっと緊張の解けた私にはこれが楽しくて楽しくて仕方なく、二人がさっきまで死にかけていたことなどお構いなしに塩を投げつづけていた。塩を奪われて反撃されると、その飛沫はシャワーのように心地よく皮膚を叩く。塩の粒に光が反射して、キラキラと瞬いた。まるで砂浜だ。友達がいれば、陰気な場所も夏の海のように明るくなる。
生きている。私は生きている。好きな人に囲まれた世界で、明日も生きていく。
視界が滲んでぼやけてきたのは、目に塩が入ったせいだろう。
「髪も服もべとべとですね……」
「ごめんね、小径ちゃん。なんかハイになっちゃって」
「楽しかったー。やっぱ灯はこうじゃないとね」
「やっぱ変だ。ほんとに咲で合ってるの?」
「合ってるよ。ただ、これからはもう少し自分に正直になろうと思って」
「今までは正直じゃなかったんだ」
「う……そういうわけじゃないけど。ただ……」
「ただ?」
「……ううん、なんでもない」
言ったそばから。
まぁ、そっちのほうが咲らしくて安心する。
気付いたときには午前零時を回っていたが、誰も帰ろうとはしなかった。墓地の端に腰掛け、今日味わった恐怖を掻き消さんばかりに笑っている。
早めに帰路につくよりも、こうして一緒に居るほうが心休まる。
主人公には時々、思い切った休息が必要なのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます