第3章 踏み出せない一歩

 朝、目覚めたときにはすでに太陽が高く昇っていた。枕元のスマホに手を伸ばすと、時刻は午前10時半。

 「しまった……」

 思わず寝坊してしまったらしい。

 バイトは夕方からだから遅刻にはならないが、予定していた職探しの時間が削られる。近頃は睡眠のリズムが乱れっぱなしで、なかなか朝早く起きられない。昨日も、家賃の督促状を見て気分が落ち込んでしまい、SNSをだらだら眺めながら夜更かしをしてしまったのだ。


 身体を起こそうとすると、妙にだるい。夏が近づいてきているせいか、部屋にこもる湿気が不快感を増しているのかもしれない。とにかく起き上がり、薄手のタオルケットをどかしてテーブルの上に散乱したままの書類を横に寄せる。そこには、家賃の催促状と、時間BI関連の資料が入り混じっていた。

 「家賃……今月どうするんだよ……」

 ため息が漏れる。実験地区で時間通貨を使った分、いくらか現金の消費を抑えられたとはいえ、このアパートは当然ながら法定通貨しか受け付けない。滞納が続けば退去を迫られるかもしれないし、そもそも大家さんにはこれ以上頭を下げに行きたくない。


 布団を畳む代わりに、湿気対策で窓を開ける。外からは車の騒音とともに、少し重たい生暖かい空気が流れ込んできた。遠くでセミが鳴き始めているのがわかる。

 「こうしてる場合じゃないな……」

 独り言をつぶやきながら、スマホを手に取り、時間BIのウォレットアプリを開く。数字がまた増えていた。もう残高は3万5千円を越えている。たかだか数日でけっこうな額になった。これが現金だったらどれだけ助かるか——しかし残念ながら、この部屋の家賃を払うことはできない。


 思わず歯ぎしりしそうになる気持ちを抑え、SNSを開く。グループLINEには昨夜のうちに、ユージンが「近々、実験地区のシェアハウス内覧に行きませんか?」というメッセージを投げていた。彼自身も新しい住居を探しているらしい。由梨とレイナも興味を示していて、日程調整中のようだ。

 「シェアハウスか……」

 少し心が動かされる。もしそこが時間通貨にも対応しているなら、今のアパートを引き払ってしまう手もあるのかもしれない。だが、今すぐに引っ越して本当に大丈夫なのか。頭の中で不安要素が連鎖していく。


 そもそも、シェアハウスの賃料が完全に時間BIだけで払えるのかはわからないし、敷金や初期費用が現金で必要になる可能性もある。さらに、共同生活に抵抗がないわけでもない。音やプライバシーの問題を考えると、気軽に決められるものではないだろう。


 結局、俺は「迷ってる」とだけ返信し、面接用に用意していたカジュアルなシャツに着替えて外へ出る。今日は昼下がりにコンビニとファミレスを数件まわり、新たなアルバイト募集をチェックする予定だ。それから夕方になれば、夜勤の短期バイトへ入る流れ。せめてあと数万円が手に入れば、滞納している家賃を少しずつでも返せるかもしれない。


 アパートを出て駅へ向かう途中、スマホから知らせの音が鳴る。メールの差出人は「時間BI 実証プロジェクト事務局」。開いてみると、次のような内容が書かれていた。


「不正利用に関する注意喚起」

近頃、一部参加者の間で生体チップを偽装・改竄する行為が疑われています。正規のシステム外で心拍・脳波データを虚偽に送信し、“生存時間”を水増ししようとする事例が確認されており、当局は現在調査中です。万一、不審な勧誘や違法行為を示唆する連絡を受けた場合は、速やかに事務局までご報告ください。


 画面を見た瞬間、背中が冷える。そういえば最近、SNSでも「時間BIの不正利用が横行するのではないか」と噂されていた。例えば、チップの信号をハッキングして架空の心拍パターンを送れば、実際に生きていない時間まで「生存」としてカウントされるのではないか……という話だ。

 俺にはそんな高度な技術を扱う知識もないし、やる気もない。そもそも逮捕リスクがある以上、うかつに手を出すわけにはいかない。しかし、世の中にはそれくらい desperate(絶望的)な状況の人もいるのかもしれないと思うと、なんとも言えない気分になる。


 「そこまでして時間通貨を増やそうとする人がいるのか……」

 そうつぶやいていたら、またスマホが震えた。今度はグループLINE。レイナが「そういえば聞いた? 不正利用を監視する『特殊監査部隊』がいるらしい」とリンクを貼ってきている。ネット記事によれば、政府の監視組織が黒いバンや車両で実験地区を巡回しているとのこと。これが以前、ちらりと聞いた“黒い車”の正体なのだろうか。

 ユージンがすかさず「映画みたいですね」と反応し、由梨は「でも悪質な不正を取り締まるのは当然ではあるよね」とコメント。俺はスタンプだけ送ってやり過ごした。

 家賃に追われている身としては、どこか他人事ではない気もするが、さすがに犯罪行為には手を出せない。胸のざわめきを抱えたまま、俺は無言でLINEを閉じた。



 コンビニ3軒、ファミレス2軒を回ってみたが、どこも短期アルバイトは人手が足りているらしく、採用の見込みは薄いと言われた。以前まで人手不足と聞いていたのに、この数か月で状況が変わったのだろうか。

 「いやあ、最近は“時間BI”があるってんで、自由な働き方を選ぶ人が増えちゃってね。逆に、うちみたいに時給が高くない店には人が来ないのよ」

 と、面接担当者から苦笑される始末。「それでも夜勤シフトならあるよ。ただし週1日だけね」と言われては到底生活に足りない。

 夕方前に一旦カフェで休憩を取る。手元にあるのは数枚のバイト募集チラシと、これまで面接を受けたメモ。ほとんどが不採用、あるいは微妙な条件ばかり。どうにもこうにも、うまくいかない。


 「ほんとに“働かなくて済む”時代が来ちゃってるのか?」

 そんな疑問を呟きながら、スマホで求人サイトをチェックするも、新着情報はほとんどない。前にユージンが言っていたように、低賃金労働を敬遠する若者が増えているのかもしれない。実験地区で時間通貨を使えば、最低限の食事や買い物はできるし、わざわざきつい労働を選ばない人も多いのだろう。

 もっとも俺の場合は、まだまだ現金が必要なので、理想通りの社会とは言えない。でも、世間の“空気”は徐々に変わりつつあるのかもしれない。ふとした孤独感を覚えながら、冷めかけたコーヒーを口に運んだ。


 その夜、日雇いバイトを終えて帰る途中、思わず実験地区へ寄り道したくなった。時計は夜11時を過ぎているが、実験地区内のカフェやコンビニが深夜まで営業しているという話を聞いたからだ。

 「ここで買い物して食べる分には、時間BIが使える」

 いくらか節約になるかもしれないと考え、電車を乗り換えて実験地区の最寄り駅へ向かう。日中はそこそこ賑わいのある街だが、深夜に近い時間帯はさすがに人通りも少ないだろうか。


 駅を出て商店街を歩く。昼間ほどではないにせよ、通りの明かりは思ったよりも明るい。ネオンサインが瞬き、何軒かのバーや居酒屋から笑い声が漏れてくる。屋外のベンチに腰かけ、スマホを開いてウォレットを確認すると、相変わらず自動で積み上がり続けている時間通貨が4万円近くになっていた。

 「いや、もう4万円かよ……」

 呆れるほど早い。しかし、これが直接家賃を払う手段にならないという事実がもどかしい。

 コンビニに入っておにぎりやペットボトル飲料を買い、時間通貨で決済すると、あっさりと数百円分が一瞬で引き落とされる。

 「こちら領収書になります。ありがとうございました」

 店員の青年は疲れた声で挨拶してくれた。店員自身は時間BIに参加しているのだろうか——ふとそんなことを考えながらレシートを受け取る。


 店を出て、夜風に吹かれながらおにぎりを頬張る。時刻はすでに午前0時を回っているはずだ。あたりは静まりかけているが、街灯の下を歩く若者やカップルの姿もちらほら。

 遠くから低いエンジン音が聞こえ、黒いバンのような車が通りをゆっくりと走り抜けていくのが見えた。車体には公的機関のマークが貼ってある。SNSで噂されていた「特殊監査部隊」だろうか。

 なんとなく興味が湧いて、その車を視線で追いかけてしまう。運転席に人影が見えるが、こちらを見ているのかどうかはわからない。車はスッと角を曲がり、暗がりへ消えていった。

 “不正利用を取り締まる”組織が、こうして夜な夜な巡回しているのだとしたら、やはり裏で大きな問題が起こり始めているのかもしれない。俺のように真面目に?(いや、必死に)やっている人間には関係ない話……のはずだが、何とも言えない不安を感じる。


 翌日。相変わらず寝不足気味の体を引きずり起こしてLINEをチェックすると、ユージンから声がかかっていた。

 「明日、シェアハウスの内覧に行くけど、朝倉さんも来ませんか? 由梨さんとレイナさんも行くみたいです」

 説明はシンプルだが、正直このタイミングでの誘いはありがたかった。夜な夜な実験地区をうろついても、結局家賃問題は解決しない。シェアハウスが本当に時間通貨で一部を賄えるなら、引っ越しの可能性を探ってみる価値はあるだろう。

 「行く」と返信してみたものの、やはり気持ちは揺れる。共同生活が合わなかったらどうする? 初期費用で結局、現金を大きく使わなければならないかもしれない。でも、たとえダメでも見学するだけなら損はない。


 俺は意を決して“明日午後に駅前で合流”というユージンの提案を受け入れた。それからレイナや由梨とも簡単にメッセージを交わし、「シェアハウス面白そう」「詳しく聞いてみたい」といった反応に、少しだけ勇気づけられる。


 翌日、実験地区の入口近くにある商業ビルのロビーで、ユージン、レイナ、由梨と落ち合った。三人と顔を合わせるのは、オリエンテーションの日以来だ。

 レイナはシンプルなTシャツとデニム姿。キャップは今日は被っていないようで、前髪をヘアピンで留めている。由梨は薄いブラウスにスカート、タブレットを抱えて涼しげだ。ユージンはというと、相変わらずの笑顔で「やっぱり来てくれましたね」と声をかけてくる。

 「久しぶり。調子どう?」

 由梨が微笑む。俺は苦笑して答える。

 「まあ……いろいろあるけど、とにかく今日シェアハウス見てみたい。引っ越すかはまだわからないけど」

 「うん、それで十分だよ」


 合流した俺たちは、路線バスに乗って実験地区の外れに向かった。中心部とは違い、高層ビルが少なく、少し落ち着いた住宅地のような雰囲気だ。バスを降りると、そこから徒歩10分ほどの場所に「Time-Share Living」と大きく書かれた看板付きの建物が見えてきた。三階建てのモダンな造りで、新築ではなさそうだが内装をリフォームしたらしい。


 玄関で呼び鈴を押すと、管理人を名乗る中年の男性が笑顔で迎えてくれた。

 「ようこそ、今日は見学ですね。こちらがリビングになります」

 通された1階のリビングは、共有スペースとしてかなり広々としており、大きなダイニングテーブルとソファセット、キッチンカウンターが一体化している。シンプルかつ機能的で、なんとなくおしゃれだ。

 「わ、すごい。普通のシェアハウスってもっと雑然としてるイメージあったけど」

 レイナが感心していると、管理人が胸を張る。

 「ありがとうございます。ここは“実験地区”の補助を受けてリフォームしてるんですよ。で、住民は時間通貨でも月々の賃料を支払えるようになってます。もっとも全部が時間通貨というわけではなく、一定割合は現金でいただくんですけどね」


 俺はそこに食いついた。

 「どれくらいの割合なんですか?」

 管理人はパンフレットを取り出して説明する。

 「たとえば、ここの個室は4畳半と6畳と8畳があって、それぞれ家賃が違います。4畳半なら月3万円+“時間通貨”1万円分相当、とかいう形ですね。つまり、合計4万円のうち1万円分だけを“時間BI”から引き落とすようにできるんです」


 「4万円か……」

 今住んでいるアパートは家賃が5万円だから、金額的には少し安くなるし、そのうち1万円分が時間通貨ならさらに負担は軽いかもしれない。問題は初期費用や敷金の有無だ。

 「敷金や礼金はありますか?」

 レイナが続けて尋ねると、管理人は首を横に振る。

 「いえ、ここは礼金なしです。ただ、敷金として2万円だけ預からせていただいてます。鍵の交換費用や修繕費が出たときに充てる形です。実際に入居するときは身分証と簡単な審査、契約書への署名が必要になりますね。審査といっても実験地区のモニターであることが前提で、あまり厳しくはありませんよ」


 これは思ったよりもハードルが低い。2万円なら、なんとか工面できそうだ……と一瞬考えたが、手元にそれだけの余裕があるかを思い返すと、厳しい現実に直面する。

 「いや、貯金がほとんどないんだよな……」

 今月の家賃もまだ払っていないし、日雇いバイトも不安定。実家に連絡しても仕送りをもらえる状況ではない。

 だが、一方でここに引っ越せば月々の支払いに余裕が生まれるかもしれない。今よりも家賃が下がるし、その一部は時間通貨で賄えるのだから。その差額を少しずつ貯めれば、なんとかなるかも……。


 頭の中で計算を巡らせていると、管理人がさらに部屋を案内してくれる。2階と3階にそれぞれ5部屋ずつあり、空きはまだ数部屋あるという。

 実際に4畳半の個室を覗いてみると、狭いながらも使いやすそうで、ベッドと小さな机、クローゼットが備え付けられている。共用部分はしっかりしているし、水回りも綺麗だ。これなら今のアパートよりむしろ快適そうに見える。

 「どう? 悪くないよね」

 ユージンが嬉しそうに言う。彼自身はこの8畳の部屋を狙っているらしく、「ここなら作業スペースをしっかり確保できるから」と意気込んでいる。

 由梨も「意外とセキュリティもしっかりしてるのね。共有玄関はオートロックで、監視カメラもあるし」と評価が高い。


 レイナはというと、奥の部屋から戻ってきて、「4畳半でも十分だな……。アトリエには狭いけど、いまの部屋よりはマシかも」と感想を漏らす。彼女も「こっちに住んだら、もっと落ち着いて絵が描けそう」と呟いていた。

 管理人はニコニコと話を聞きながら、「もし今日決めるなら、さらに初月は特別に数千円引きにできますよ」などと甘い言葉をかけてくる。なるほど、早期契約が目的なんだろう。


胸の中に残るためらい

 ところが、俺だけはどうにも踏み切れない。いつもなら「これだ!」と即決してしまいそうなものだが、実際に自分の生活を考えるとやはり躊躇があるのだ。

 階段の踊り場で一息ついたとき、レイナが隣に立ってそっと声をかけてきた。

 「……どうするの、朝倉くん。引っ越すの?」

 彼女の問いかけに、思わず苦笑いしか出ない。

 「うーん、迷ってる。ここに来れば家賃は確かに安くなるし、一部は時間通貨で払えるってのは大きいよ。でも……敷金2万円を用意するのも正直きついし、そもそも退去するにも今の部屋の滞納分を清算しないと」

 そう答えると、レイナは小さく息を吐いた。

 「そっか……。私も退去するには現金でクリアにしなきゃいけないことがあるしな。なかなか一筋縄じゃいかないよね」

 「レイナも迷ってるのか?」

 「うん。正直、今のシェアハウスがあまり合わなくて、移りたい気持ちは強いんだけど……」

 後半の言葉は少し小声になった。どうやら彼女は以前から別のシェアハウスに住んでいるらしいが、そこではトラブルが多く気疲れしているようだ。


 結局、俺たちは時間をかけて内覧を終え、1階のリビングへ戻った。ユージンと由梨は「近々引っ越したい」と強い意欲を示しており、管理人にいくつか詳細な質問を投げかけている。レイナと俺はまだ煮え切らない様子だ。


 やがて全員が一通りの説明を受けたところで、管理人が契約書類のコピーを示しながら言った。

 「もし本日中に入居申込みをいただければ、部屋を確保しておきますよ。考えている方はぜひご決断を」

 ユージンはしばし黙って書類を眺めたあと、「僕、申し込みます」と宣言した。嬉しそうに頬をほころばせ、管理人と握手を交わす。由梨はまだ即決はできないが、「数日以内にご連絡するかもしれません」と前向きな返事をしていた。

 その横でレイナと俺は顔を見合わせる。お互い、何も言えなかった。なにせ具体的な金がないのだ。ここで「申し込みたいです」と言ったところで、支払う目途が立たないのだからどうしようもない。


 結果、俺たちは「検討します」と言って引き上げることになった。管理人は営業トークめいた笑顔を浮かべ「ぜひご連絡ください」と繰り返していたが、その笑顔がどこか遠く感じられる。



 シェアハウスを出て、道端でレイナと並んで歩いていると、背後からユージンの声が響く。

 「朝倉さん、レイナさん、大丈夫? さっきから元気ないようだけど……」

 見ると、ユージンと由梨が少し心配そうな顔で立ち止まっている。

 「いや……正直、初期費用とか、いろいろ整理しないと難しくて……」

 俺がしどろもどろに言葉を濁すと、ユージンは申し訳なさそうに目を伏せた。

 「そっか。僕は幸い、少し資金的に余裕があるから踏み切れたけど、みんなが同じ状況じゃないよね。ごめん、なんだか先走っちゃって」

 「いや、謝ることじゃないよ」


 由梨が口を開く。

 「私もすぐには決められなくて……病院実習やNPOのこともあって、お金の出入りが読めないから。だから気持ちはわかるわ。でも、もし二人とも本気で考えるなら、一度家計を見直してみるのはどう? もしくは、この地区で“時間通貨”を多く受け入れるバイトやプロジェクトに参加するとか」


 彼女の言葉は真っ当だ。でも、そんなバイトがあるのだろうか。少なくとも求人を探している限りは見当たらない。

 レイナは複雑そうに苦笑する。

 「そういう働き口が見つかればいいけどね。私も前のシェアハウスの仲介料を払うのに必死だし、あっちに退去を伝えてゴタゴタするのも正直、だるい」

 「うん……」

 俺たちは同じような境遇かもしれない。一度いろんなトラブルが積み重なると、いくら“1秒1円”があっても、すぐに解決はしないのだ。


 少しの沈黙が流れ、ユージンがポンと手を叩いた。

 「じゃあ、今日はひとまず解散しよう。僕はまだ契約手続きがあるから管理人さんと話してくる。朝倉さんもレイナさんも、無理ない範囲で考えてみたらいいと思う」

 「ありがとう」

 俺は頭を下げる。由梨は「またLINEで話しましょう」と言ってくれた。こうして、俺とレイナは二人で最寄りのバス停へ戻り、ユージンと由梨は管理人と打ち合わせに向かった。



 バス停へと歩く道すがら、レイナはやけに黙り込んでいた。何か言いたげな気配を感じながらも、俺も声をかけるタイミングを失っていた。しかし、バス停が見えたところで、レイナがぽつりとつぶやく。

 「ねえ……朝倉くんって、今のアパートはどれくらい滞納してるの?」

 突拍子もない質問に、一瞬どう答えるか迷う。正直に言うのも恥ずかしいが、嘘をついても仕方ない。

 「えっと、2ヶ月分。今月末で3ヶ月目に突入しそう……」

 「そっか……。私はここのシェアハウスから引っ越そうとしたら、たぶん違約金みたいなのが発生するんだ。契約の更新タイミングじゃないから」

 レイナが自嘲気味に笑う。どうやら彼女も苦しい立場にいるらしい。


 バス停には他に数人が並んでいて、ちょうどバスが来るまでまだ10分ほどある。レイナは待合ベンチに腰掛け、顔を上げて空を仰いだ。

 「こんなに“生きているだけでお金がもらえる”って言われてるのに、なんでこんなに生活が苦しいんだろうね」

 その言葉は俺の胸にも突き刺さる。

 「ホントだよな……。もっと時間BIが普及して、家賃も税金も全部時間通貨で払える世の中になればいいのに」

 小さく吐き捨てるように言うと、レイナはうなずく。

 「でも、逆に考えたら、そんな社会になったら今度はどうなるんだろう。働く人が減って医療や福祉が成り立たなくなるかもっていう話もあるし……」


 「そうかもしれない。人間って、自分のために働くよりも、誰かのために働く方がモチベーションになる場合もあるけど、現実は給料をもらわないと生きていけないから働いてる人も多いわけで」

 会話しながら自分でも気づく。社会全体として考えれば、時間BIの導入が進めば進むほど「誰が“きつい仕事”をやるんだ?」という問題は大きくなる。由梨も言っていたように、医療やインフラ、介護はどうするのかという問題がある。

 レイナはまた黙りこむ。しばらくして遠くからバスのエンジン音が聞こえ始めた。


 「……ま、考えても仕方ないよね。私たちはまず自分の生活で手いっぱいだし」

 「だな。とりあえず、俺は今のアパートの家賃をなんとかして、落ち着いてから考え直す」

 レイナは小さく苦笑して、少しだけ顔をほころばせた。

 「同じだ。私も何とかしないと。……ありがと、変な話につきあってくれて。実は私、あまり人に素直に話すの得意じゃないんだけど、朝倉くんは話しやすいかも」

 そう言って微かに笑う彼女の表情は、これまで見たことがないくらい柔らかだった。


 バスが到着し、ドアが開く。俺たちは並んで乗り込み、空いていた座席に腰を下ろす。車内は少し冷房が効きすぎていて肌寒いが、さっきまでの外の暑さから解放されるのは悪くない。

 バスが動き始めると、レイナはそっと目を閉じてしまった。疲れがたまっているのだろうか。俺はスマホを取り出して、ふとウォレットをチェックする。もうすぐ5万円に達しそうな勢いだ。

 「踏み出したいんだけど、踏み出せない。この時間通貨、うまく活用できないもんかな……」

 心の中でつぶやいても、答えは出ない。ただ、いつかこの制度がもっと広がれば、家賃問題なんかあっさり解決するのかもしれない——そんな淡い期待だけが頭をよぎる。


 その翌日、またもや昼前まで寝てしまった俺は、スマホの通知で目を覚ました。慌てて画面を見ると、差出人は見覚えのない名前……かと思いきや、少し前にバイト募集サイトでやり取りした相手らしい。

 「急募! イベント会場設営スタッフ(実験地区内 時間通貨払い可)」

 なんとも怪しい文面だが、詳細を読むと「来月開催される大型イベントの設営に協力する若者を募集しており、報酬の一部を時間通貨で支払う」という。さらに「最先端の芸術・テクノロジー展示会の準備」であり、短期集中バイトとして2週間ほど働いてくれる人を探しているらしい。

 しかも時給換算するとそこそこ悪くないうえ、一部は現金での支払いもあるとか。指定された場所は実験地区のイベントホールで、職務内容は舞台セットの組立や照明機材の運搬など。体力勝負だが特別な資格や経験は不要、と書いてある。


 「これ、うさんくさくないか……?」

 正直、不安が先立つ。ネットで募集されているこの手の仕事には怪しい業者も多いし、何より「時間通貨払い可」というのがどうにも引っかかる。ただ、同時に「短期でがっつり働けるなら現金も稼げる」という魅力は捨てがたい。

 今のアパートの家賃問題を解決し、シェアハウスへの引っ越しを本格的に考えるには、数万円単位のまとまった現金がどうしてもほしい。その条件を満たす手段として、こういうバイトは貴重かもしれない……。


 俺は意を決して、メールにあった電話番号へ連絡してみることにした。緊張で指先が汗ばんでくる。数回コールすると、低めの声の男性が応対した。

 「もしもし、イベントスタッフ募集の件でご連絡いただいた朝倉さんですね? はい、詳細を説明しますね……」


 会話をしながらメモを取っていくと、どうやらこの求人は実験地区内で行われる「Art & Tech Festival 203X」というイベントの準備要員で、本当に“時間通貨のプロモーション”も兼ねているらしい。運営側が新進気鋭のアーティストやテック企業を集め、最先端の展示を企画しているという。

 「なるほど、確かに面白そうですね。報酬はどんな感じになるんですか?」

 俺が尋ねると、相手は「時給1000円+時間通貨1000秒」などという二重支給の形式を提示してきた。一日8時間労働で考えれば、日給8000円+8000秒=16,000円相当。2週間働けばそれなりの額になる計算だ。


 「本当にそんなにおいしい話があるのか……?」

 内心疑いが晴れないが、相手の話す内容は具体的で、まともに聞こえる。運営側としても、時間通貨を広めたい意図があり、今後の制度拡大を見据えたPR活動の一環なのだとか。

 「もしご興味あれば、明日か明後日に面接会を行ってますので、ぜひお越しください。場所は実験地区のホール横の事務所で……」


 こんなチャンス、逃す手はない。とりあえず面接を受けて判断しよう。俺は電話を切った後、グループLINEに興奮混じりの報告をした。

 「怪しい気もするけど、短期で稼げそう。家賃払うにもシェアハウス引っ越すにも、まとまった金が要るから、ちょっと行ってみるわ」

 するとユージンが即座に反応して、「それ面白いですね! 僕も参加していいですか?」と食いついてきた。どうやら彼は、時間通貨を絡めたバイトに興味津々らしい。レイナや由梨も「そこまで怪しくなさそうなら検討してみたい」と言う。

 こうして、俺たちはまた一つの“賭け”に出ることを決めた。上手くいけば、俺もレイナもここから抜け出す糸口を掴めるかもしれない。


 翌日、実験地区のイベントホール裏手にある臨時事務所を訪れた。ユージン、レイナ、由梨も同じ時間帯に面接を予約しており、建物の前で合流する。

 簡素な扉を開けると、中は事務的な机とパソコンが置かれた空間で、スタッフらしき数名が忙しそうに電話やデータ入力をしている。受付で名前を告げると、奥からサングラスをかけた壮年の男性が現れた。

 「どうも、面接に来た皆さんですね。こちらへ」

 粗雑な対応ではないが、どことなく裏社会めいた雰囲気を醸し出している。俺たちは顔を見合わせ、不安がよぎるが、ここまで来たからには引き下がれない。


 奥の部屋で4人同時に面接が始まる。質問内容は「期間中、フルタイムで働けるか」「体力はあるか」「時間BIに参加しているか」「SNSで情報を発信してもらう場合があるが協力できるか」など。

 俺たちが「大丈夫です」と答えると、面接官の男性は「じゃあ、もう決定でいい」と言わんばかりに承諾してくれた。拍子抜けするくらいあっさりした展開だ。

 「今回、急ぎで人手が欲しいんで、助かりますよ。若い人たちなら体力もあるだろうし。ギャラは時給1000円プラス時間通貨1000秒ってやつで、合計すると時給2000円相当……かなりいい条件だろ?」


 もちろん悪くない条件だ。だが、それでも俺の胸には一抹の疑念がある。何か裏があるんじゃないか、と。

 しかし、男性は淡々と「別に違法行為はない」と断言し、「興味があるなら書類を読んでサインしてくれ」と契約書を出してくる。

 契約書の文面を見る限り、確かに短期アルバイト契約で日給制となっており、一部を時間通貨で支払う旨が明記されている。しかも交通費まで出るという至れり尽くせりだ。


 「うまい話だが、実際にイベントをやるなら相応の人手が要るだろうし、早く人を集めたいのかもしれない」

 ユージンが俺の耳元で囁くように言う。レイナは少し不安そうに契約書を眺めている。由梨は書面を一通り読み込んだ後、「おおむね問題なさそう」と小声で呟いた。

 こうして俺たちは、短期バイトの契約書にサインする。面接官の男性は「おう、助かるよ」とそっけなく言い、「じゃあイベントの1週間前から毎日集合して、会場の設営やら雑務を頼む。詳しい日程はLINEグループで連絡する」と続けた。


 「やった……」

 思わずほっとする。これで2週間しっかり働けば、現金で数万円、時間通貨も同等額……合わせれば十数万円分になる計算だ。それだけあれば、家賃の滞納分を補填し、さらにシェアハウスへの引っ越し初期費用を捻出する可能性が見えてくる。


 事務所を出てみんなで近くのベンチに腰掛け、契約書の控えを見ながら雑談する。ユージンは意気揚々と「これで当面は生活費と研究費に困らない」と笑う。レイナも小さく微笑みながら「画材や作業スペースの資金に回せるかも」とつぶやいた。由梨は「イベント自体に参加できるのは興味深いし、医療NPOの広報にも繋がるかも」と前向きだ。

 だが、俺の胸の中にはまだうっすらと不安がこびりついている。家賃や現金問題が解決の方向へ向かうのはありがたいが、あまりにも話がトントン拍子に進みすぎている。

 「……ほんとに大丈夫かな」

 呟くと、レイナがこちらを向く。

 「なに、大丈夫じゃなさそう?」

 「うーん、なんか“うまい話には裏がある”っていうじゃん。でも、まあ契約書読んだ限りでは普通のアルバイトだよな……」


 するとユージンが「大丈夫ですよ、仮に詐欺的なものだったら、こんな大勢の若者を騙すのは難しいんじゃないか」と笑い、「時間BIの実験地区だからこそ、いろんな企業や団体がPRを兼ねて参入してるのかも」と楽観的に見ている。

 由梨も「もし怪しいことがあれば、実験地区の運営や政府筋が目を光らせるはずだし、不正な行為があれば特殊監査部隊も動くでしょう。リスクは低いんじゃない?」と同意する。


 「そっか……そりゃそうだよな」

 俺も何とか納得してみる。確かに、ここは実験地区。時間通貨の導入を推進する勢力と、それを監視する組織が入り乱れている。そう簡単に悪事がまかり通るような場所でもないかもしれない。

 「せっかくいい話が来てるのに、ネガティブにばっか考えても仕方ないしな……」

 そう思い直して顔を上げる。夏の陽射しはもうじきピークを迎えようとしていて、ジリジリと肌を焼き始めていた。



 面接後の夜、夕飯代わりに実験地区で時間通貨を使って食事をしてから帰ることにした。だんだん慣れてきたが、それでもまだ「生きているだけで稼いだお金」で食事をする感覚が新鮮で、少し気持ちが浮つく。

 ふと、裏通りを歩いているときに視線を感じた。振り向くと、暗がりに黒いバンが停まっており、何やら二人組の男が降りてきて、建物の陰へ消えていくのが見えた。

 「特殊監査部隊……か?」

 胸がざわつく。以前から噂には聞いていたが、実際に目の当たりにすると薄気味悪い。夜の不正取締りでも行っているのだろうか。


 そのまま歩みを進めようとしたが、なんとなく好奇心が勝って、そっと角から覗いてみる。バンの近くに残っている運転手らしき人物はマスクをしていて、こちらには気づいていない様子。しばらくすると、建物の陰に消えた男たちが戻ってきて、バンに何か荷物らしきものを載せている。


 「……何してんだろう」

 彼らの会話は遠くて聞こえないが、一人は小型のタブレットらしき端末を操作し、もう一人はバンの荷台を開けて何かを格納している。まるで証拠物品を押収しているように見えるが、確証はない。

 胸の奥に一抹の恐怖を感じながらも、見つかったら面倒だと思い、その場をそっと離れた。


 歩きながら、ふと脇腹のあたりに埋まっている生体チップを思い出す。これは間違いなく政府公認のシステム……のはずだが、その一方で闇の勢力が不正利用を図っている。特殊監査部隊は、そうした裏を取り締まるために暗躍しているのだろう。

 俺には関係ない、そう言い聞かせても、もし運悪く犯罪行為の片棒を担いでしまうことがあったら……と考えると背筋が寒い。バイト先だって、本当にクリーンなのかどうか。時間BIが絡んでいる以上、全く予想外の事件に巻き込まれる可能性もゼロではない。


 家賃が払えない、仕事が見つからない、そんな悩みから抜け出したいだけなのに、いつの間にか深い沼へ足を踏み入れている気がしてならない。大げさかもしれないが、夜道の薄暗さが不安を増幅させる。



 アパートに戻ると、既に日付が変わっていた。雑然とした部屋に足を踏み入れると、いつものカビ臭い空気が迎えてくれる。ため息まじりに電気をつけ、床に脱ぎ捨ててあった服を軽く片づける。

 「はあ……こんな部屋、早く出て行きたいのに」

 口をついて出る言葉は愚痴ばかりだ。だけど、シェアハウスへの引っ越しには初期費用が必要だし、現金収入を増やすにはあの短期バイトに本当に賭けるしかない。働いているうちに不審なトラブルが起こらなければいいが……。


 ベッドに腰を下ろし、スマホを開く。グループLINEにはユージンが「とりあえず、短期バイトよろしく。頑張って稼ぎましょう!」と能天気なメッセージを投げている。由梨は「病院のシフトもあるけど、なんとか合わせて頑張る」と返信。レイナはスタンプだけだが、これには参加するつもりらしい。

 「みんな前向きだなあ。俺だけがネガティブなのかも」

 そう思いつつも、彼らと行動を共にしていると、どこか心強いのも事実だ。孤立していないのは救いだが、それでもやはり踏み出す一歩が重い。


 夜中、ベッドに横になってもなかなか眠りにつけない。天井を見つめ、頭の中でいろんな想像が駆け巡る。もしこのイベントバイトが順調に終わって金が貯まれば、家賃を清算し、シェアハウスへ移動して生活を立て直せるかもしれない。さらに時間通貨も一気に増えるから、日常の出費の多くをそちらで済ませられそうだ。

 そうなればようやく、「生きるために嫌々働く」状態から少し解放されるのだろうか。レイナのように創作に専念する時間を持てるかもしれない。ユージンや由梨はさらに自身の目標へ邁進するだろう。


 だけど——本当にそんな未来が見えるのか。俺はただ流されているだけじゃないのか。時間BIが当たり前になったところで、結局努力しなければ得たいものは得られないだろうし、他人任せで生きられるほど社会は甘くない。

 あるいは、そもそもこの時間BIがいつまで続くかも定かではない。国レベルの政策として定着するにはまだまだ議論や実験段階で、何か重大な問題が起きればすぐに頓挫してしまうかもしれない。


 「……考えても仕方ない」

 思考が堂々巡りになっているのを感じ、目を閉じて深呼吸をする。チップが埋まった腕には、小さな傷痕がかすかに触れられる。あのときは「これで人生が変わるかも」と期待したのに、実際は現実の苦しさは変わらないままだ。

 “踏み出せない一歩”はいつになったら踏み出せるのか。結局、誰かに頼ろうとしている自分がいるのではないか——そんな自問自答が脳裏を走り回り、眠気はどこかへ吹き飛んでしまった。


 外を走る車の音が遠くに聞こえる。夜は更け、アパートの安アパート特有の木造の軋む音がかすかに響く。隣室の住人が帰宅したのか、ドアが閉まる音がして足音が階段を上っていった。

 どこかでセミの声すら鳴いているような気がする。夜なのに……と不思議に思いながら、結局俺はその音を子守歌代わりにして眠りに落ちるしかなかった。

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