第2章「1秒1円の世界へ」


 翌週の月曜日。朝のうちに届いた事務局からのメールを開きながら、俺は電車の中でぼんやりと窓の景色を眺めていた。先日チップを埋め込み、ウォレットアプリをインストールしてから数日が経つ。アプリに表示される「時間通貨」の残高は、秒単位で小刻みに増えているようだが、実のところまだまともに使ったことはなかった。

 だが、今日は違う。事務局から案内された「実験地区」のオリエンテーションに参加し、そのあと自由に地区内を回って「時間通貨」を活用できる店舗などを体験見学する予定になっている。いわば、“1秒1円”を実際に使える世界との初対面だ。胸の奥で得体の知れない期待と、不安に似た緊張がせめぎ合っている。


 電車が大きく揺れ、アナウンスが次の駅名を告げた。いつもなら乗り過ごさないよう神経を張り詰めるところだが、今日は少し余裕を持って出てきたので、焦りはない。途中下車して朝のコンビニで缶コーヒーと菓子パンを買い込む。

 当然ながら、その支払いはまだ現金。実験地区外では時間通貨が使えないのだ。バッグの中に入っている財布は相変わらず薄いままだが、ウォレットアプリを開くと、そこには数日前から1秒単位で蓄積された数千円分の「時間通貨」が表示されている。

 「もしかしたら、これで本当に生活が多少なりとも楽になるかもしれない……」

 そんな淡い期待を抱きながら、俺は電車に乗り換えを繰り返し、ようやく目的地の最寄り駅にたどり着いた。


実験地区への入り口

 改札を出ると、すぐに「時間本位制ベーシックインカム 実験地区 →」という案内看板が目に留まる。示された矢印の方向へ歩いて数分。大通りの先に、見慣れないゲートのようなものが設置されていた。ゲートといっても警備員が立っているわけではなく、デジタルサイネージが埋め込まれたモニュメントのように見える。上部には「Time-Base City」と英語でのロゴが輝き、あたかもテーマパークの入口を思わせる。

 そばには観光案内所のような施設があり、“実験地区”と書かれたパンフレットがスタンドに並んでいる。外国人観光客向けらしい英語版まであるようだ。思ったよりも力を入れているらしく、その場に立ち寄る人の姿もちらほら見かけた。


 受付のようなブースが設置されていたので、恐る恐る近づいてみる。すると、スタッフらしき女性がにこやかに声をかけてくれた。

 「いらっしゃいませ。もしかして本日からのオリエンテーションに参加される方ですか?」

 「あ、はい、そうです。事務局から案内をもらって……」

 俺が画面を見せると、彼女は笑顔で案内の紙を差し出す。

 「では、そちらのビルに入っていただき、5階の会議室へお進みください。朝倉想汰さんでよろしいですね。受講者リストにお名前がございますので、このまま直行してくださいね」


 言われた通り通りに、近くの商業ビルへ向かう。ビルの外壁には「Time-Base City サテライトオフィス」と書かれた看板。自動ドアを抜けると、エントランスホールにスタイリッシュなディスプレイが設置され、「実験地区」の地図がデジタル表示されていた。ここではどんなサービスを使えるのか、提携店舗はどこにあるのかなど、直感的に見てわかるようになっているらしい。

 「意外と整備されてるんだな……」

 俺はつぶやきながらエレベーターに乗り込み、5階まで昇った。


 5階の会議室フロアに降りると、入口に“ベーシックインカム オリエンテーション会場”と大きな貼り紙が貼ってある。扉を開けると、中は広めのセミナールームになっていて、すでに十数名ほどの若者が席についていた。

 部屋の奥にはスクリーンと演壇があり、係員らしき人々が準備をしている。どことなく前回の説明会に似た雰囲気だが、こちらの方がカジュアルなレイアウトだ。パイプ椅子ではなく、テーブルと椅子がいくつかのグループに分かれて配置されている。


 入室し、受付で名前を告げると、「こちらの席にどうぞ」と促される。見ると、何やらグループ分けがされているようだ。俺の名前が書かれたカードが置かれたテーブルには、すでに数名が座っている。

 席について周囲を見渡すと、あの日、説明会で顔を見かけた人たちがちらほらいる。なかでも、一番目立つのはやはりユージン・ウォンだ。彼は髪をきちんとセットし、カジュアルなジャケットを羽織って隣の席の人と笑いながら談笑している。目が合うと、にこっと笑って軽く手を挙げてくれた。

 「やっぱり来たんですね、朝倉さん」

 「ああ、まあ、一応……」

 俺が曖昧に返事すると、「楽しみですよね、どんな風に時間通貨を使えるのか」と、彼は満面の笑み。AI研究に興味があると聞いたけど、こんなにも社交的だとは思わなかった。


 そして、もう一人。ショートヘアでキャップをかぶった女性、笠原レイナも同じテーブルにいた。キャップのつばから見える大きな瞳が、俺のことをちらりと見やる。

 「……やっほ」

 小さく手を挙げて挨拶してくれたが、口調は気だるそうでもある。隣にはスケッチブックらしきものが置いてある。彼女もどうやらこの実験にかなり興味を持っているはずだが、表情からはそれが分かりにくい。

 さらに、その奥にはロングヘアの女性、藤堂由梨が座っていた。彼女は手元のタブレットで何か資料を読んでいて、俺たちに気づくと軽く微笑んだ。

 「おはようございます、朝倉さん。あの後、きちんと検査やチップの埋め込みは問題なかったですか?」

 「ええ、まあ……痛みは思っていたほどじゃなかったです」

 そう答えると、由梨は「それはよかった」とほっとした表情を浮かべる。医療関係に詳しそうな雰囲気は前から感じていたが、彼女自身も不安はあったのだろうか。


 そんなやり取りをしているうちに、前方の担当者がマイクで話し始めた。

 「それでは皆さま、お揃いのようですので、ただいまから“実験地区オリエンテーション”を始めます。今回、皆さまには1秒1円が積み立てられる“時間通貨”を生活の中で使っていただき、どんな変化や課題が生まれるのかを共に検証していく予定です」


 室内の照明がやや落とされ、スクリーンに映し出されるスライドショーが始まった。前回の説明会よりもビジュアルに力を入れているようで、街並みや店舗の写真がカラフルに表示されている。

 「ご覧のとおり、すでにこの地区には時間通貨で支払いが可能なカフェやコンビニ、アパレルショップなどが数十店舗ほど存在しています。今後さらに提携店舗が増える予定です。また、公共施設の一部も時間通貨に対応しており、図書館やシェアオフィスなどでは時間通貨で利用料を賄うことができます」


 この説明には会場中がざわめいた。まるで一つの“仮想通貨社会”がこの地区だけで先行運用されているようなものだ。実験とはいえ、そこまで大掛かりに整備しているとは予想以上だ。

 「ただし、まだ家賃や公共料金などは従来の法定通貨でしか支払えないケースが多いのが現状です。その点は皆さまにとっても大きな課題かと思いますが、まずは時間通貨が日常のどこまでをカバーできるのか、ご自身の生活スタイルを試しながら模索していただきたいと思います」


 こうした説明を一通り聞いたあと、担当者は「では、これからグループワークの時間をもうけます」と宣言した。

 「実験地区の地図や店舗リストは、皆さまのテーブルに配布いたしますので、仲間同士で話し合って、今日はどこを見学したいか、どのように時間通貨を使ってみるか、プランを立ててみてください。約30分後に各グループから簡単に発表していただきます」


 なるほど。俺の座っているテーブルは、ユージン、レイナ、由梨、そして俺の4人で一つのグループらしい。こういう形で強制的に顔合わせさせるのが狙いなのだろう。

 やや緊張するが、配られた資料を手に取り、さっそくみんなで顔を突き合わせることに。小さなグループワークは学生時代のゼミを思い出すが、今の俺には新鮮な刺激でもあった。



 まずは地図を広げてみる。実験地区は大きく3つのエリアに分かれているようで、商業エリア、住宅エリア、公共施設エリアとなっている。

 商業エリアにはカフェや書店、コンビニ、居酒屋などが並び、住宅エリアにはシェアハウスやウィークリーマンションのような物件がある。一部は「時間通貨対応の賃料」と書かれているが、詳しい条件は書いていない。公共施設エリアには図書館やスポーツセンター、イベントホールなどがあり、いくつかは時間通貨で利用可能だそうだ。


 「へえ、図書館で時間通貨が使えるってどういうことだろう。無料じゃないんだ?」

 俺が疑問を口にすると、レイナが資料にざっと目を通して答える。

 「貸し出し自体は無料だけど、閲覧席に電源やWi-Fiが付いてて、その利用料を時間通貨で払うって書いてる。スタディスペースの延長料金も時間通貨でOKなんだって」

 「なるほど、滞在時間に応じてお金がかかるのか。でも、私たちにとっては“生きてる時間”が収入になるわけだから、ある意味逆転してるよね」

 由梨が感心したようにつぶやくと、ユージンは笑顔を浮かべる。

 「そうなんですよ。僕はAI研究に専念できる場所を探してたから、こういう場所があるのはありがたい。家賃の代わりに時間通貨が使えるシェアハウスとかも興味あるなあ」


 シェアハウスか。考えたこともなかったけど、家賃をまかなえるなら、いまのアパートを出て、こちらへ引っ越すという選択肢もなくはない。

 「まあ、まだ始まったばかりだろうし、どこまで本当に使えるのか試してみるのが大事なのかもな」

 そう言いながら、俺は住宅エリアの欄を眺めるが、簡単に移住なんてできるほど甘くはないだろう。入居審査や物件数の制限もあるはずで、書類上は綺麗事を並べている可能性もある。


 レイナがふと口を開く。

 「とりあえず、今日は商業エリアを巡ってみたいな。私は材料とか画材をそろえたいし、1秒1円で買い物ができるなら、その感覚を確かめたいし」

 「画材って、レイナさん絵を描くんですか?」

 由梨が興味深そうに訊くと、レイナは照れくさそうに頬をかいた。

 「ちょっとイラストを描いたりしててね。美大に行ってたけど、中退しちゃった。まあ、いろいろあって」

 「へえ、そうなんですね。私、医療関係の勉強してるんですけど、絵とは縁遠いからすごく新鮮です」

 由梨が素直に感嘆の声を漏らすと、レイナはそっけなく「まあ、好きなだけ」と返す。でも、その言葉の端々からは、イラストへの強い思いがあることが伝わってくる気がした。


 一方、ユージンはAI関連のプロジェクトをやりたいと以前言っていた。では由梨は?と気になり、俺は尋ねてみる。

 「由梨さんは、医療関係の仕事を目指してるんですよね? それも今回の実験に興味があった理由なんですか?」

 彼女はタブレットを閉じながら小さく頷く。

 「そう。私は医学部に籍を置いてるんだけど、同時に社会起業家を志していて……医療サービスをもっと多様な人が利用できる仕組みを模索してるの。時間通貨の導入は、保険制度や年金問題の穴を埋める一つの可能性があるかもしれないから、参加してみたの」

 なるほど。意識が高いというか、本気で社会を変えたいと思ってるタイプに見える。俺みたいにただ流れで来たわけじゃなさそうだ。


 「朝倉さんはどうなんですか?」

 突然の問いかけに、思わず言葉に詰まる。ユージンが俺に向けて好奇心いっぱいの瞳を向けてくる。レイナも、由梨も、興味ありげにこちらを見つめていた。

 「いや……俺は、今の生活に行き詰まってて、バイトも転々として先が見えなくて……。そんなときにこの制度を知って、まあ、少しでも楽になれればと思ったんだ。特に高い志があるわけじゃない」

 正直に打ち明けると、誰も笑ったりはしなかった。むしろ、うんうんと聞き入れてくれている雰囲気がある。

 「でも、そういう人ほど、この制度で何かを掴めるんじゃないかなって思うよ」

 と、ユージンが朗らかに言った。

 「僕はね、生きてるだけで価値になるってアイデアにすごく魅力を感じる。お金のために働くっていう呪縛から解放されるなら、クリエイティブなことや研究に没頭する余裕が生まれるかもしれない。朝倉さんだって、何かやりたいことが見つかるかもしれないじゃないですか」


 自分でもよくわからないが、彼の言葉はどこか温かい。レイナや由梨も頷いている。そんな優しい空気に背中を押されるように、俺はそれまで抱えていた遠慮や恥ずかしさを少しだけ解きほぐせた気がした。


 「じゃあ今日は、まず商業エリアを回ってみる? 画材もそうだし、カフェとかコンビニもどう運用してるか体験できるといいよね」

 俺がそう提案すると、レイナが「それがいい」と即答した。由梨とユージンも賛同し、「昼食を兼ねて、時間通貨でご飯を買ってみるのも面白そう」と盛り上がる。

 こうして、俺たちのテーブルは「今日は商業エリアを巡る」プランを固め、簡単なタイムスケジュールをメモすることにした。



 オリエンテーションの最後に、各グループがプランを簡単に発表し合う。どのグループも商業エリアや公共施設を回ろうとしていたが、「実際にシェアハウスの内見をする」と意気込むグループもあった。中には「もうすぐ引っ越し予定です!」と宣言する人までいて、驚きと同時に刺激を受ける。

 担当者から諸注意があった後、午後は自由行動となる。つまり、このまま俺たちは実験地区に繰り出し、好きに使い倒して構わないらしい。その代わり、後日アンケートやヒアリングに協力し、細かな使用実態を報告してほしいとのことだ。


 会議室を出ると、さっそくレイナがスマホを取り出してアプリを開いているのが見えた。

 「私のウォレット、今どれぐらい貯まってるんだろ……おお、意外と溜まってるじゃん。二万円近くある」

 彼女は嬉しそうだが、不思議と顔に出にくいタイプなのか、口調は淡々としている。

 「それ、いつチップ埋めたんだっけ?」

 「えっと、私先週の金曜かな。そこからずっと秒単位でチャリンチャリンって感じ」


 俺も自分のウォレットを確認してみる。すると、先週の埋め込み施術から数日経っているおかげで、約三万円ほどの残高が示されていた。正直、金銭感覚が狂いそうになる数字だ。

 「でも、これ実験地区以外だと使えないんだよね」

 レイナがため息まじりに言う。確かに、どんなに表示が大きくなっても実験地区や提携店舗以外ではほぼ無力。それでも、いまこうして仲間たちと“時間通貨”を使いながら街を歩くのは少しワクワクする。


 ビルの外へ出ると、日はすでに正午をまわり、春の日差しが眩しい。商業エリアまでは徒歩10分程度らしいので、地図アプリを確認しながらゆっくり歩くことに。道中、至るところに「Time-Base City」のロゴがあしらわれた看板やバナーが設置されており、力の入れようを感じさせる。

 「なんかこう、テーマパークみたいだよね」

 ユージンが笑いながら言うと、レイナも肩をすくめる。

 「本当にね。いっそ入場料でも取ればいいのに、って感じ」

 「いや、それはさすがに行き過ぎだろ」と俺は苦笑する。


 そんな冗談を言い合いつつ、商店が立ち並ぶ通りに足を踏み入れる。通りの掲示板には「時間通貨対応!」と書かれたポスターが何枚も貼ってあった。カフェや雑貨屋、ドラッグストア、書店など、対応店舗を示す共通ステッカーも見える。まるで「クレジットカードOK!」と同じ感覚で「Time Currency OK!」と主張しているのがどこか滑稽だ。

 「じゃあ、まずは昼飯だな。どこか飲食店入ってみる?」

 ユージンが提案し、地図を確認すると、ちょうど目の前の通りに「TimeCafe」と書かれたカフェレストランがあるようだ。席が空いてるかを見てみようということになった。


 木目調の看板が目印のカフェに入ると、内装は落ち着いた雰囲気。カウンターの上にはメニューがずらりと並んでいて、ホットサンドやサラダ、コーヒー各種など、一般的なカフェメニューを取り揃えている。

 店員の女性が「いらっしゃいませ」と笑顔で出迎えてくれたので、4人テーブルに着く。昼時で混んでいるかと思ったが、運よく空き席があったらしい。

 「当店は時間通貨対応ですので、1秒あたり1円でお支払い頂けます」と、店員は当たり前のように案内する。すでに“それが普通”という空気が出来上がっているようだ。


 メニューを開くと、値段の表記が少し変わっていた。例えばホットサンドが“600円 or 600秒”と記載されており、どちらか好きな方法で支払えるらしい。単純明快でわかりやすい。

 「えーと……ホットサンドとコーヒーセットでだいたい1000円。じゃあ時間通貨で払えば1000秒ってことか」

 計算してみると、1000秒は約16分40秒ほど。つまり16分40秒生きれば、このセットが買える……と考えると、なんとも不思議な気分だ。

 「でも、実際にはウォレットから一瞬で1000秒分の金額が引き落とされるのよね」

 レイナがしみじみ言うと、ユージンが「それでも実質、生命活動で稼いだお金なんだから気楽だよね」と笑う。


 俺たちはそれぞれ注文することにした。俺はホットサンドセット、レイナはスープとパスタ、由梨はサラダとドリンクバー、ユージンはハンバーガーとスムージー。会計は一括でも個別でもできるらしいので、各自ウォレットで支払うことに。

 スマホアプリを開き、店員の提示するQRコードを読み取ってみる。すると「合計1000秒分を支払いますか? OK」という画面表示に。OKボタンを押すと、あっという間に「決済完了」と表示された。

 「おお……ホントに数値が一瞬で減った」

 ウォレットの残高は三万円ちょっとから、1000円(1000秒)分を差し引かれ、約2万9千円相当に変わっている。これで本当にご飯が食べられるわけだ。改めてなんとも言えない不思議な感覚に包まれる。


 レイナやユージン、由梨もそれぞれ支払いを済ませ、店員は慣れた様子で「ありがとうございます。お席でお待ちください」と微笑む。

 しばらくして運ばれてきた料理は、見た目も味も、ごく普通のカフェのランチと変わらない。が、俺たちには格別に思えた。「命の秒数」で買った食事——と考えると、噛み締め方が違ってくるような気さえする。


 「でもさ、このお店は現金でも払えるわけじゃん。店側にとっては時間通貨ってメリットあるのかな?」

 俺が疑問を口にすると、由梨が答えてくれた。

 「おそらく実験地区からの補助金みたいな形で、店舗にはメリットがあるんだと思う。時間通貨を一定量以上受け入れると特区からの助成が受けられるとか、PR効果もあるし」

 ユージンも頷く。

 「顧客層の拡大を狙ってるんでしょうね。興味本位で来る人もいるだろうし、SNS映えする話題にもなる。案外、こういう施策は最初のうちだけでも集客力を高めるかもしれない」


 なるほど、確かに俺たちもこうしてわざわざ足を運んでいるわけだから、店側としてもメリットがゼロではないのだろう。


商店街での発見と戸惑い

 食事を済ませて店を出たあと、商店街をさらに進む。通りには、所々に「時間通貨対応」の旗がはためいている。ここまで徹底して視覚効果を入れているのは、プロジェクト側の力の入れようを感じさせる。

 雑貨屋や書店、ドラッグストアをざっと眺めながら進んでいくと、レイナが足を止めてショーウィンドウを指差した。そこは画材店らしく、筆や絵の具、スケッチブックなどが並んでいる。

 「ちょっと入っていい?」

 「もちろん」

 彼女は目を輝かせるようにして店内へ向かった。俺たちも後に続く。


 中はアナログ画材からデジタルペイント用のタブレットまで置いてあり、なかなか本格的だ。レイナは筆やキャンバスをあれこれ吟味し、「これほしかったんだよね」と独り言を漏らすが、値段を見ると決して安くはない。

 「そのキャンバスいくら?」

 俺が問いかけると、レイナは値札を示す。

 「3500円……ってことは3500秒」

 なるほど、約58分くらい生きれば買える計算だ。レイナは少し考え込むように眉をひそめた。

 「ここで買うと、私のウォレットから3500秒分が一気に減るのか……。お昼に1200秒ぐらい使ったし、残りは2万8000円分くらい。悩むなあ」

 「でもさ、その分また秒単位で増えていくわけだろ? 迷うなら買っちゃえば?」

 ユージンが気軽に言うが、レイナは真面目な表情で首を振る。

 「いや、私まだ家賃は現金で払わなきゃいけないし、バイトも辞めたばっかで収入不安定だし……。時間通貨ばかり増えても、結局、現金が足りないと追い詰められるかもしれない」


 たしかに、そこが時間通貨の難しいところだ。生きている限り自動的に積み立てられるというのは夢のように聞こえるが、実際には多くの出費がまだ法定通貨を必要としている。

 「今後、こっちの地区に住むとか、働くとかできれば話は違うけど、現時点では現金収入を補わないといけないもんな」

 俺も実感を込めて言うと、レイナは「そうなんだよね」とため息混じりに応じた。

 それでも、結局彼女は我慢できずに筆とキャンバスを買うことにした。店員が時間通貨決済のQRを提示し、それを彼女がスマホで読み取る。あっという間に「3500秒」が減った。

 「うわー、ほんと一瞬だ。なんかゲームのポイントみたいな感じ」

 「ま、また数日生きれば取り戻せるよ」

 ユージンが笑いを誘い、レイナも悪くない気分なのか、ほんの少し口元を緩めていた。



 その後、俺たちは書店や雑貨屋を冷やかしつつ、次第に商店街の端へと歩を進めた。気づけば午後3時を過ぎ、日差しが柔らかくなってきた。途中でカフェに入ったり、コンビニで飲み物を買ったりもしたが、すべて時間通貨での支払いが可能。これはこれで快適だが、反面、頭のどこかで「現金が出ていかなくても安心はできない」という引っ掛かりが残る。

 その理由は単純だ。家賃や公共料金を払うための現金収入がなければ、いずれ生活が破綻してしまう可能性があるからだ。俺の財布にはまだ少ししか現金が入っていない。バイトも決まらず、どうにか単発アルバイトを漁って日銭を稼いでいる状況だ。いくら時間通貨が増えたところで、今のアパートを追い出される危機はそう簡単に解消できない。


 レイナも同様に「今はまだバイトを探してる」と言っていた。ユージンはAI関連の仕事やインターンのあてがあるらしいし、由梨は医療系の勉強を継続しつつ実験の研究対象として参加している。どうやらこの4人の中で一番生活が不安定なのは俺とレイナかもしれない。

 だからこそ、彼女が画材を買うかどうか悩んだのも理解できるし、俺も「同じ境遇だ」と感じる部分がある。ユージンや由梨は前向きに「これはすごい仕組みだ」と感心しているが、その熱が少し眩しく思える瞬間もあるのだ。


 商店街の端まで来ると、雑居ビルが並ぶエリアにたどり着いた。そのうちの一つに「TimeHub」と書かれた看板が見える。どうやら実験地区内のコミュニティスペースらしい。コワーキングスペースやイベントホールが入っていて、ここでも時間通貨で利用料を払えるという。

 「ちょっと寄ってみる?」

 由梨の提案に全員が賛成し、ビルの自動ドアをくぐる。内装はオシャレなコワーキング施設で、打ち合わせや自習をしている若者の姿がちらほら。コーヒーサーバーや軽食の自販機もあるが、「時間通貨対応」と書かれたステッカーが目に付く。

 受付に行くと、スタッフが流暢な口調で説明をしてくれた。

 「こちらは利用料が1時間あたり500円(または500秒)です。フリードリンク付きで、複合機なども自由にお使い頂けます。滞在後にウォレットを読み取って精算となりますので、どうぞお好きな席をご利用ください」


 1時間500秒……つまり8分20秒ほど生きればその分が賄える計算か。改めて数値にすると不思議だ。

 「これで長時間居座れば、生きてる秒数が上回って得になるとかは……ないか」

 ユージンが冗談めかして言うと、受付のスタッフが笑顔を返す。

 「仮に何十時間連続でここに滞在したとしても、その分だけウォレットから時間通貨が引き落とされますからね。どこかでバランスを取らないと、あっという間に残高が減ってしまいますよ」


 たしかにそうだ。結局は使う分だけ秒数を“消費”する仕組みなのだから、ただ長く生きれば生きるほど得をするわけでもない。生活に必要な出費が多ければ、そのぶん時間BI残高が減るのも当然だ。

 「うまく使いこなせるかは、まだまだ慣れが必要そうだな」

 俺がそうつぶやくと、レイナが「ほんと、それ」と相槌を打つ。



 TimeHubのソファ席に腰を下ろし、しばし休憩を取る。ちょうど4人用のスペースがあったので、そこに落ち着くことにした。疲れを癒やすようにコーヒーをすすりながら、ふとユージンが話を切り出す。

 「ところで、みんなこの制度をどう活かそうとか、考えてることある?」

 「さっきも少し話に出たけど、やっぱり暮らしを立て直す手段の一つになるといいなと思ってる。いまのところ家賃には使えないけど、食費や日常雑貨が時間通貨でまかなえるなら、現金を少しでも節約できるから」

 俺がそう答えると、ユージンは「なるほどね」と頷く。続いてレイナが口を開く。

 「私も似た感じ。好きな絵を続けたいけど、生活が厳しければバイトを増やすしかない。そうなると創作の時間が減るし……。時間BIなら最低限の生活費を賄える可能性があるから、それに賭けたい」


 そこで由梨が真剣な眼差しで言葉を継ぐ。

 「私は、医学部の実習を兼ねて、そのうちこの地区で医療ボランティアをやりたいって考えてるの。時間通貨が普及すれば、患者さんが治療費の心配をせずに病院に来られるかもしれないから。実験段階だからまだどうなるかわからないけど、いずれ制度が広がれば医療のアクセス改善に繋がるかもしれないと思って……」

 医療費の問題は深刻だ。今の日本は保険制度こそあるが、それでも高額治療に苦しむ人は少なくない。時間通貨がそこにどう作用するのかは未知数だが、由梨の目指す世界には大きな意義がありそうに思える。


 ユージンはというと、「僕はAIでこの制度をさらに発展させたい」という野心を口にする。

 「時間通貨のデータを使えば、人々の活動やライフスタイルが可視化できる可能性があるんです。どんな仕事をしたいのか、どんな分野に才能があるのかを、従来の“お金”だけじゃない新しい指標で判断できるようになるかもしれない。研究者としても興味が尽きないですよ」


 それぞれの思惑を聞いていると、みんな前向きだし、ある程度のビジョンがあるようだ。俺だけが「なんとなく参加した」感じで、まだ夢や目標と呼べるものがはっきりしない。だが、彼らの話を聞いていると不思議とやる気が出てきそうな気配もある。

 「いつか、やりたいことが見つかるといいですね」

 由梨が微笑む。俺は視線を落として曖昧に笑い返す。

 「そうだな……とりあえず、食いつなぐところからだけど」



 楽しい時間はあっという間だ。時計を見ると午後5時を過ぎていた。外に出ればすでに日は傾き始め、街全体が夕焼け色に染まっている。俺たちはそこで一旦解散することにした。由梨は病院に寄る用事があるらしく、ユージンは大学の研究室に戻って処理しなければならない書類があるとか。レイナはもう少し商店街を回りたいと言っていた。

 「もしよかったら、今度また集まろうよ。LINEかSNSでつながろう」

 ユージンの提案で、連絡先を交換する流れになる。4人がLINEのグループを作って「BI組(仮)」という仮タイトルをつけた。レイナがやる気なさそうに見えて、意外とノリが良いのがおかしかった。

 「ありがとう。じゃ、またねー」

 名残惜しい気分もあるが、それぞれ用事があるし、この実験地区での行動も個人の自由だ。別れ際、レイナは「今度私の絵を見に来てよ」とぽそっと言い残し、去っていった。彼女の背中には先ほど買ったばかりの画材が揺れている。


 ユージンと由梨も別方向へ消え、俺は一人で駅へ向かう。あれだけ時間通貨が使えた一日を過ごした後でも、結局アパートの家賃は現金で払わなければいけないし、電車も当然ながら現金(ICカード)対応のみだ。スマホの交通系アプリをタッチしながら改札を抜けると、時間通貨の残高は微妙に減り、現金の残高は変わらないという面白い状況になっている。

 「まあ、悪くない……のか?」

 確かに時間通貨でランチや買い物ができた分、今日はほとんど現金を使わなかった。ただ、家賃や諸費用をどう工面するのかという悩みは一向に消えない。


 電車に揺られながらスマホを覗き込むと、ウォレットの表示はまだ2万数千円分の時間通貨が残っている。数日もすれば3万、4万と増えていくだろう。けれど、それで生活の全てが賄えるわけでもない。

 SNSを開いてみると、「時間BIって結局金持ちが得する仕組みじゃないの?」という批判の投稿が目に飛び込んできた。別のユーザーは「働かなくなる人が増えて社会が崩壊する」と危機感を煽る。

 現状では、実際にこの制度を体験している俺ですら、何が本当の問題点なのかはまだ掴み切れていない。ただ、ポジティブな面も感じるし、ネガティブな予感も拭いきれない。まさに手探りの状態だ。


 ホームに降り立ち、薄暗い夜道を歩いてアパートへ戻る。ドアを開けるといつもの生活空間が広がり、目に飛び込むのは散らかった狭い部屋と無機質な蛍光灯の光。実験地区のあの華やかさとは対照的な現実がここにはある。

 床に置いたままの郵便物を拾い上げると、見慣れた封筒が一通。差出人は大家さんで、「家賃支払いに関する再度のお願い」と書かれていた。急に胃が重くなり、封を切るのも嫌になる。結局、現金がなければ生きていけないのだ。


 「はあ……どうすりゃいいんだよ」

 ため息だけが虚空に消える。実験地区での一日は夢のようで、現実はまだ色を変えない。俺はベッドに腰を下ろし、スマホを閉じた。ウォレットを見ればまだ余裕がある数字が並んでいるのに、全然気が楽にならない。

 翌日はまた日雇いバイトを入れる予定だ。これが続く限り、俺の生活は根本的に変わらないのかもしれない。少なくとも、何か行動を起こさなきゃ、時間通貨の恩恵だけでは食っていけないだろう。


 そんな焦りに似た思いを胸に抱えながら、俺は古びた部屋の中で孤独を噛み締める。時間BIによって世界が変わる——そう信じたい気持ちと、それでも変わらない現実に押しつぶされそうな自分がいる。どちらが勝つのかはわからない。

 だが、何もしなければ変わらないままだ。今日、同じテーブルを囲んだ仲間たちは、それぞれ未来へ向けた思いを語っていた。もしかしたら、彼らと一緒なら何かを掴めるかもしれない……そう思うと、胸の奥にかすかな熱が蘇ってくる。


 「俺だって、何かを変えられるかな……」

 自分に問いかけるように呟き、天井を見つめる。すっかり日も落ち、部屋は暗い。蛍光灯の眩しさが目にしみる。

 ふと、チップの埋まった腕をそっと撫でてみる。そこには少しだけ傷が残っているが、特に痛みはない。あの日、確かに俺は生まれて初めて大きな決断をしたんだ。そろそろ自分の人生を本気で考えてみてもいい頃かもしれない。


 そうして、静かに目を閉じる。ここから先、時間BIをめぐる物語がどんな道を示すのか——俺自身、まだ何もわかってはいない。それでも、今日の一歩が小さな始まりになったことだけは、確かな実感としてこの胸に残っていた。

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