第1章「始まりの同意書」
目覚まし時計が鳴り終わるころ、俺はいつものように硬いベッドの上で体を起こした。春先とはいえまだ肌寒く、薄い掛け布団では少し心許ない。
ぼんやりとした頭で部屋を見渡す。何度眺めても、六畳ひと間の殺風景なアパートだ。この壁紙の少し汚れた白と、安っぽい蛍光灯の光に、すっかり慣れきってしまっている。かれこれここに住んで一年ほどが経つが、部屋の中は一向に潤いを感じない。暖房も古く、電気代を気にして使うのをためらうくらいの生活には、これがちょうどいい。
スマホの充電ケーブルを外して電源を入れ、まずはニュースをチェックする。すると、画面に飛び込んできたタイトルが目についた。
——「政府、新時代の社会保障へ『時間本位制ベーシックインカム』実験開始 若者対象モニター募集」
今はテレビをあまり見ないので、最初はどこかの煽り記事かと思った。だが、すでにネット上でも大きく取り上げられており、「時間BI」「1秒1円」といった言葉がSNSで拡散されている様子がわかる。
数か月前から噂話程度には耳にしていたが、まさかこんなに早く実験が始まるとは……。驚きと胡散臭さが入り混じった気分で、枕元に放り出していたタブレットを手に取る。
見れば見るほど突拍子もない仕組みだ。「生きている時間そのものを通貨価値に変える」など、本当にそんなことが可能なのだろうか。技術的にはブロックチェーンや生体モニタリングを活用し、1秒ごとに1円が個人ウォレットへ積み立てられるらしい。
俺は思わず苦笑いした。そんな夢みたいな話が本当に実現したら、ここでくすぶっている俺の生活も多少は楽になるかもしれないが、そもそも財源はどうするんだ? どこからそんなに大量のお金が湧いてくる?
半信半疑のままタブレットを置き、キッチンへ向かう。蛇口をひねれば冷たい水が出る。この部屋は備えつけの給湯器が故障寸前でお湯が出にくい。朝は冷水で顔を洗うのが習慣になってしまった。氷のような水で顔を叩き、なんとか頭をしゃっきりさせる。
さて、今日はバイトの面接がある。先週までやっていたコンビニの夜勤シフトは人員整理で切られた。マネージャー曰く、「もう人は足りてるから、週に一度だけならシフトをあげられるかも……」と曖昧に言われたが、週1で生活費を賄えるわけもなく、事実上のクビだろう。
朝食代わりに食パンをかじりながら、これから始まる一日に気が重くなる。そういえば家賃の支払いがまた遅れている。大家さんには「来月には必ず払います」と言ってしまったが、本当に間に合うのか自分でもわからない。
そこでふと、ポストをチェックしようと玄関へ向かった。外から差し込む薄曇りの光が、ドアに取り付けられた小さなポストの隙間を照らしている。
ポストのフタを開けると、数枚のチラシと一通の長形封筒が入っている。チラシは近所のスーパー特売か何かだろう。問題はその封筒だ。表面には見慣れない役所の名前。少なくとも家賃や公共料金の督促状ではなさそうだが、不意に嫌な予感が走る。
手に取ってみると、宛名は確かに「朝倉想汰 様」。震えるような心持ちで封を開けると、そこには**「時間本位制ベーシックインカム 実証モニター選抜のお知らせ」**と大きく印字された文字が飛び込んできた。
——そういえば、数か月前にネットでモニター募集の簡易登録をしてみたことがあった。興味本位というか、宝くじ気分で「当たるわけない」と思いながら入力フォームを埋めて送信したのだ。
記載された文面によれば、どうやら一次選考を通過し、正式に“説明会”へ招待されるらしい。そこでは制度の詳細と契約内容、個別のモニタリング方法などを詳しく案内し、同意書へのサインが求められるとのこと。
俺はその書面を読み返しながら、頭の中がぐるぐるしてきた。モニターなんてどうせ名ばかりだと思っていたのに、本当にこんな封筒が届くとは……。
「……どうする、これ」
思わず独り言がこぼれる。嬉しい気持ちより先に、不安がこみ上げる。身体にチップを埋め込む、あるいは自分の生体情報を国にリアルタイムで管理される——そんな話が現実味を帯びてくると、どこか背筋が寒い。
だが考えてみれば、いまの俺にはそこまで選択肢がないのも事実だ。生活費の捻出や将来の展望が暗い状況で、「1秒1円」が本当なら、家賃に怯える生活から解放されるかもしれない。それに、新しい社会制度の実験という未知の領域へ飛び込むことで、人生を変えるきっかけが掴める可能性もある。
封筒の最後には説明会の日時と会場が記されていた。場所は都心にある大きな合同庁舎で、今週末に行われるようだ。休みを取る予定はないが、幸い面接と重ならない時間帯なので参加はできそう。
「よし……とりあえず、行くだけ行ってみるか」
そう呟いて、封筒をそっとバッグにしまい込む。もちろん、参加したからといって本登録を確実にするかは、まだわからない。実物を見て、話を聞いて、リスクが高すぎると思えば辞退すればいい。
そして、何がどうなっているのかを一度自分の目で確かめたい——何より、“時間本位制ベーシックインカム”なんていう怪しげな新制度が、どういう仕組みで動こうとしているのか興味があるのは確かだ。
俺は少しだけ前向きな気持ちを抱えながら、狭い玄関で靴を履き、バイト面接へと向かう。どこか心の奥で、「これが最後のチャンスかもしれない」という焦りを感じていた。
電車を乗り継いで都心へ向かった週末の朝。いつものように混雑した車内だったが、土曜日ということもあり、スーツ姿の人々より私服の学生や遊びに行く若者の姿が目立つ。
降り立った駅はオフィスビルが立ち並ぶいかにも“官庁街”という雰囲気のエリアで、見上げれば高層ビルが空を狭くしている。
封筒に書かれていた地図を頼りに歩いていくと、細長いビルがいくつも連なった複合庁舎群の入り口に行きついた。警備員が立っていて、入館証の発行や持ち物チェックが結構厳重だ。
「時間本位制ベーシックインカムの説明会に来ました」
受付でそう伝えると、事前登録リストを確認され、来客証を首から提げるように言われる。少し緊張するが、マニュアル対応のためかスタッフの態度は事務的で、案内されたエレベーターに乗り込むと同じくらいの年齢の男女が何人か一緒になった。
エレベーター内は、どこか落ち着かない空気が漂っている。視線を合わせる人は少ないが、これから説明会に参加する者同士、なんとなく気まずい空気を共有しているように感じた。
指定されたフロアで降りると、そこは広いロビーになっていて「時間本位制ベーシックインカム 実証説明会」と書かれた立て看板が目に入る。スタッフらしき人たちが書類や資料の束を運んでバタバタしており、どうやらすでに説明会が始まる直前らしい。
名前を言うと、受付の女性職員が「こちらへどうぞ」と会場へ案内してくれた。ドアを開けると、中は大きな会議室で、数十名ほどが既に座席に着いているのが見える。空いている席に腰を下ろすと、目の前には分厚い資料が置かれていた。
ほどなくして、前方に設置されたスクリーンに映し出されるスライドが切り替わり、登壇した担当官がマイクを手にした。
「皆さま、本日はお集まりいただき誠にありがとうございます。それでは、これより“時間本位制ベーシックインカム”に関する実証実験の説明会を始めさせていただきます」
一礼の後、スクリーンに映るタイトルがはっきりと目に入る。「1秒1円の世界へ——時間本位制ベーシックインカム 実証プロジェクト」。文字だけでもインパクトが大きい。会場のあちこちから小さなさざめきが起こる。
担当官は淡々と制度概要を読み上げ始める。
「今回のプロジェクトは、限られた若者層を対象に、1秒あたり1円が自動的にウォレットへ加算される仕組みを導入し、その社会的影響や問題点、メリットを検証する目的があります。ご承知の通り、従来のベーシックインカム構想とは異なり、通貨の裏付けとして“時間”そのものを採用する点が特徴です」
会場では、既に真剣にメモを取る者や、スマホで録音する者など様々。担当官はさらに続ける。
「ただし、この仕組みを適切に運用するためには、生体認証の精緻(せいち)な管理が不可欠です。私たちは、脈拍・体温・脳波などを計測可能なチップを対象者に埋め込み、それらのデータを暗号化し、ブロックチェーン技術で管理する予定です。これにより、死亡や意識不明の際に不正なデータが生成されるのを防ぎ、実際に“生きている秒数”だけが正確にカウントされるわけです」
その説明に、会場は一気にざわついた。やはり「身体にチップを埋め込む」という部分が大きな抵抗を生んでいるのだろう。俺も、そのリスクを考えると背筋がそわそわする。プライバシーや健康面への影響など、不安要素はいくらでも挙げられそうだ。
前の方の席から、意を決したように手が挙がる。担当官が指名すると、若い男性が声を張り上げる。
「チップ埋め込みには、安全性や倫理面での批判が大きいはずです。もし事故や障害が起きた場合、国はどう責任を取るんですか?」
担当官は少し表情を曇らせながら答える。
「実証段階とはいえ、医療機関と提携し、安全性を最優先に考慮しております。また、今回のプロジェクトでは全員が同意の上で参加する形を取ります。将来的には、埋め込みではなく装着型デバイスでの検証も視野に入れておりますが、現時点ではチップ技術が最も精度が高いとの判断です」
さらに別の参加者から矢継ぎ早に質問が飛ぶ。
「1秒1円ということは、1日86400円ですよね? 日本全国で導入したら財源が膨れ上がりますが、そんな予算があるんですか?」
「今回はあくまで若年層の限定モニターという形です。全国的導入となれば大きな課題が山積しています。まず小規模での実証で問題点を洗い出そうという狙いです」
こうしたやり取りが続き、会場の空気は熱を帯び始める。やはり反対意見や懐疑的な声も多いように感じるが、それでも「面白い」「画期的だ」という囁きも耳に入ってくる。
俺はというと、資料に目を落としながら自分の中の葛藤を持て余していた。これほど大きな実験に飛び込むのはやはり怖い。しかし、今のまま日雇いを続けても、明るい未来が描けるわけではない。
担当官による全体説明がひととおり終わると、画面に「契約までの流れ」というスライドが映し出された。
「皆さまには本説明会終了後、別室にて個別面談を行い、その場で参加を希望されるかどうかを確認いたします。もしご希望の場合は、今日お渡しする同意書にサインしていただきます。その後、検査と簡単なオリエンテーションを行い、正式にモニターとして登録される運びです。辞退をご希望の場合も、遠慮なくお申し付けください」
これを聞いて、退室時に即決を迫られるような気分になった。もちろん、担当官も「すぐに決められなければ後日でも構いません」と補足していたが、一度帰ってまた出直す気力はなかなか湧かないし、迷う人が多いことは容易に想像がつく。
会場の後ろを見回すと、私服の青年や女性が少し居心地悪そうに身動きをしているのが見えた。みんな、何を思ってここに来ているのだろう。切羽詰まっている人もいれば、純粋な好奇心で来ている人もいるかもしれない。
「では、以上で全体説明を終わります。引き続き、ホール横のブースで個別相談と面談を行いますので、番号順にご案内いたします」
担当官が締めくくると、会場のあちこちから椅子のきしむ音が鳴り、参加者たちが立ち上がり始めた。
俺は資料を簡単にまとめ、テーブルの上に置かれた「参加者番号」を確認する。幸いそこまで後ろの順番ではないようで、数分待てば面談へ案内されるはずだ。
待合スペースの一角で、別の参加者が意気揚々とスタッフに質問しているのが目に入る。何やら「僕、AIの研究してるんですけど……」と話している。容姿はアジア系の外国人に見える。あとで名前を知ることになるが、彼がユージン・ウォンだ。自分とは対照的に、やや興奮気味の口調からはチャレンジ精神が強そうだと思った。
一方、廊下の奥にはキャップを目深にかぶったショートヘアの女性がスマホをいじりながら、スタッフに「で、チップってどこに入れるんですか?」とぶっきらぼうに聞いている。こちらは後に出会う笠原レイナだ。パッと見は気が強そうだが、どこか繊細な雰囲気もある。
そして、さらに奥の方ではロングヘアの女性が、担当官らしき人物とすでに話し込んでいた。資料の余白にびっしりとメモを取っている様子がうかがえる。後にわかるが、この人物が藤堂由梨であり、医療関係の勉強をしているらしい。
不思議なことに、こうして人々の様子を眺めていると、俺だけが特段の目的もなくここにいるような気がして、なんだか取り残されたような感覚になる。——しかし、その思いはすぐにスタッフの「次の番号の方、面談ブースへどうぞ」という声で途切れた。
案内された小部屋は、質素な応接セットのある狭い空間だった。簡易的に仕切られただけの部屋のようだが、机の上には書類が並べられ、タブレット端末が置かれている。すでに担当の職員が待っており、俺が入るとにこやかに会釈をした。
「お疲れさまです。本日はご参加ありがとうございます。では、まずは書類を確認させていただきますね」
そう言われ、封筒と資料、本人確認書類を差し出す。職員はそれらをテキパキとチェックし、電子端末に何やら入力している。
「朝倉想汰さんですね。ご年齢が二十二歳……大学は中退と伺っていますが、現在はアルバイトなどを?」
「はい、先日までコンビニで夜勤してましたが、いろいろあって辞めてしまって。いまは次の仕事を探しています」
職員は頷きながら、画面に指を走らせてメモを取っている。
「なるほど。今回の時間BIに関しては、ご不安などございますか? 特に生体チップの埋め込みや、個人情報の取り扱いについて……」
俺は少し考えてから口を開く。
「正直、不安はあります。でも、興味もあるんです。このままの生活を続けていても辛いだけだし、どうせなら新しい仕組みを試してみたいというか。あと、実際にどこまで本気でやるんだろうっていう疑問もあって……」
職員は少し微笑むように表情を和らげた。
「お気持ちわかります。実は、現場の私たちも手探りなんですよ。国の方針としては、若者の未来の可能性を広げる施策として、まずは限られた人数で実験を始め、結果を検証することになっています。ただ、技術的・社会的な課題は山積みですし、正直リスクがないわけではありません。だからこそ、みなさんにじっくり考えていただきたい」
俺は静かに頷きつつ、机の隅に置かれた同意書のファイルを見つめた。分厚い注意事項が綴られているのが目に入る。
職員は続ける。
「もちろん、今日ここで署名せず一旦持ち帰ってご家族などと相談しても構いません。でも、もしすぐにでも参加の意思が固まっているなら、諸々の手続きがスムーズになります。どうされますか?」
廊下で待っている間、どうしようかとずっと悩んでいたが、ここまで来て腰が引けるのも自分の性格上なんだろう。「人生を変えたい」と思う割には、いつも踏ん切りがつかない。
——でも、今回は違うかもしれない。
胸の奥で小さく震える不安を握りつぶすように、俺は覚悟を決める。リスクはある。けれど、それ以上に「やらないで後悔するぐらいなら」という気持ちが、今の俺を突き動かしていた。
「……署名、したいです。お願いします」
職員は「わかりました」と答え、ファイルを開いて概要を一通り説明し始める。書類をめくるたびに、「○○に同意する」といったチェック欄がいくつも出てくる。中には具体的な免責事項や機密保持に関する条文がぎっしり書かれている。どうやら、相応の法的リスクヘッジがされているらしい。
軽く読み流すだけでは把握しきれない量だが、ここで立ち止まるとまた決心が揺らいでしまいそうだった。自分なりに重要そうな部分だけには目を通し、職員の簡単な補足説明を聞きながらサインと押印を繰り返す。
インクのにじむサイン用紙を見つめていると、不思議と気持ちが落ち着いてくる。ある種の諦めとも言えるかもしれないが、それでも「俺は一歩進んだんだ」と自分に言い聞かせる。
「ありがとうございます。では、後ほど正式なスケジュールと、チップ埋め込みまでの流れをメールでもお送りしますね。遺伝子検査やアレルギーなどの事前チェックがあるので、今月中に病院で受診していただく必要があります。大丈夫でしょうか?」
「はい、やります」
職員は丁寧にお辞儀をし、書類をバインダーにまとめると、タブレット端末に何やらデータを送信するように操作をした。
「では、朝倉さんが正式に参加者となる手続きを進めます。ようこそ、新しい社会実験へ——というと大げさかもしれませんが……私どもも全力でサポートしますので、よろしくお願いします」
こうして俺は、たった今、未来を左右する大きな決断を下した。頭の中で何度も「本当によかったのか?」と問いかける声が渦を巻く。後悔しないように、自分でできる努力はしよう。リスクがあっても構わない。そうして奮い立たせるしかなかった。
面談を終えて部屋を出ると、先ほどエレベーターで見かけた人たちの顔がちらほら見える。中には「やっぱり無理です」と辞退用紙を突き返している人もいた。意外とその数は少なくないようで、ポツポツと会場を去っていく人の姿がある。
一方で、あの外国人の青年——たしかユージンと言っていたか——は嬉しそうにスタッフと談笑している。彼の手にはすでに同意書のファイルがあり、遠目に見ても署名済みだとわかる。
彼のように自信満々に思える人を見ると、自分の弱気がどこか恥ずかしく感じられる。でも、決めたのだから仕方がない。
少し行った先の廊下では、キャップをかぶった女性——レイナも、どうやら署名を済ませているようだ。スタッフに質問を繰り返しているようで、辛辣な口調ながらも「で、そのチップ入れたら体にどんな副作用があるの?」など聞いているのが聞こえてくる。
小柄だが声ははっきりしていて、まあまあ気が強そうだなと思う反面、彼女も何か焦りや事情があってここに来たのかもしれない。
さらに奥のスペースでは、資料にさまざまなメモを書き込んでいたロングヘアの女性——由梨という名らしい——が担当官と会話している。会話の断片からは医療系の知識が垣間見え、「臨床データをどの範囲で公開するか」といった具体的な話題が聞こえてきて、こちらは相当勉強している様子だ。
俺はそんな光景を横目で見ながら、ロビーに戻った。封筒と資料をしっかり抱え、再びエレベーターに乗り込む。視界に入るのはスーツ姿の役人や、同じように帰り支度をする若者たち。
何とも言えない連帯感と疎外感が同居した空気だ。多くの人が、時間BIへの疑念と期待を抱え、ここから家路につくのだろう。
外に出ると、午前中の晴れ間が嘘のように雲が厚くなり、小雨がぱらつき始めている。どこか湿った匂いがビルの狭間に満ちていて、冷たい風が頬を撫でた。
建物の軒下からにじり出ると、路上にはタクシーやバスがひっきりなしに行き交う。急ぎ足で帰る人々の流れに紛れながら、俺は駅へ向けて歩き始めた。頭の中にはチップ埋め込みのイメージがぐるぐると回り続けている。
「実際、痛いのかな……?」
思わず独り言を口にしてしまう。手術というほど大げさなものではないらしいが、局所麻酔で数分とはいえ体内に異物を入れるのは気持ちが悪い。しかも、それで手に入るのが“1秒1円”という世界。果たして本当にうまくいくのだろうか。
改めて空を見上げると、一段と厚い雲が広がり、今にも大粒の雨が落ちてきそうだ。俺は慌てて足を速める。濡れるわけにはいかない。家賃もままならない身で、スーツをクリーニングする余裕などないのだから。
ようやく駅の改札を抜け、電車に揺られて再び自宅の最寄りへ戻る。気づけば時刻は午後を回っていて、小腹がすいた。とはいえ、財布の中身はお察しだ。贅沢する余地はなく、駅前の弁当屋で一番安いのり弁を買って帰路につく。
駅からアパートまでは人通りの少ない狭い路地を行く。薄暗いが、今は朝ではなく昼下がり。曇天のせいかあたりは妙に静かだ。週末だというのに活気がまるで感じられない。
玄関のドアを開けると、いつもの空気がむわっと押し寄せる。湿気交じりの室内はカビ臭く、シャワーの水栓が壊れかけていることを思い出す。敷金を削るかもしれないからと放置しているが、そろそろどうにかしないと不快感が増すばかりだ。
のり弁の袋をテーブルに置き、カーテンを引いて部屋の換気をする。灰色の空が見えるだけで、気持ちはさっぱり晴れないが、密閉された空間よりはマシだろう。
とにかく腹ごしらえをしよう——と思って袋を開けると、中の白いご飯や揚げ物の匂いがほんの少しだけ食欲をそそる。いつもより空腹が強いのは、説明会に行って緊張した分、エネルギーを消耗したのかもしれない。
食事をしながらスマホを再びチェックする。すると、早速「時間BI 実証プロジェクト事務局」からメールが届いていた。
件名: 「朝倉想汰 様: モニター参加手続きに関するご連絡」
ざっと本文を読むと、来週中に指定病院でアレルギー検査と血液検査を受ける必要があるらしい。さらに翌週には埋め込み施術とウォレット設定、そして実験地区のオリエンテーションが予定されているようだ。
「実験地区……?」
何でも、都内のある区画が「時間BI」導入を部分的に先行運用する“特区”として設定されているらしい。そこでは加盟店が時間通貨を受け入れ、公共サービスも一部対応するという。まだ知名度は低いが、施策の一環として開発を進めているとのこと。俺たちモニターは、その地区に自由に出入りして生活状況を観察されることになるようだ。
まるで“実験用のラット”にでもされている気分は否めないが、一方でそこに新しいチャンスが眠っているかもしれないとも思った。今の閉塞感から抜け出せるなら、とにかくやってみるしかない。
弁当を食べ終え、書類をテーブルに広げて再度目を通す。この厚いファイルには契約書の副本や注意事項があれこれ書かれている。例えば「ウォレットの電子キーは紛失や盗難に注意すること」「家族や友人と共有しないこと」「生体モニタリングデータは厳重に保護されるが、法的措置が必要な場合に提供される可能性もある」など、読むほどに気が重くなる情報が多い。
しかし、その一方で、「時間が収入になる」世界というものが現実に動き始めている。その事実はやはり刺激的だった。ネットニュースでは、既に賛否両論が荒れ狂っている。
「働かなくても金がもらえるとか、社会が崩壊する」「人間の価値を時間だけで測るなんて愚かだ」「実験参加者はモルモットだ」といった批判の声が強い。
一方で、「これが成功すれば若者の将来不安が激減する」「クリエイターやアーティストが活動に専念できる」など、期待を寄せる書き込みもあるにはある。
俺自身は、批判派か肯定派かと聞かれたら、どちらとも言い難い。ただ、この生活を変える手立てがほかに見当たらないという消去法でここまで来た。悪く言えば流されているだけだが、心のどこかでは「何か面白いことが起きるかも」とうすぼんやりした期待があるのも確かだ。
気づけば窓の外は暗くなり始めている。明日からはまた新しいバイト探しに動かないといけないが、それも続くかわからない。憂鬱な思いとわずかな希望がない交ぜになって、頭の中で渦巻いていた。
数日後、病院での検査を終え、さらに数週間が過ぎたころ。指定された日時に再び都心の庁舎へ行く。いよいよ“チップ埋め込み”の日だ。集団説明会に出たきり会っていなかったが、どうやらあのとき同意書にサインした人たちも同じスケジュールで施術を受けるらしい。
ビルのロビーでふと隣を見れば、あの外国人青年——ユージンが微笑んで手を振っている。彼も相変わらずやる気満々の様子だ。後ろには、ショートヘアの女性(レイナ)とロングヘアの女性(由梨)の姿も見える。どうやら待合スペースで雑談しているようだ。いつか彼らと直接話す機会が来るのかもしれない。
こうして、俺は完全に“1秒1円”の世界へ足を踏み入れる準備を整えた。
埋め込みに先立って、看護師から簡単な説明を受ける。「局所麻酔をしますが、痛みは多少あるかもしれません。アレルギー検査は問題なしでしたし、部位は上腕の内側あたりに入れる予定です」とのこと。予想はしていたが、いざ目の前に注射器やメスの器具を見せられると心拍が速くなる。
「では、朝倉さん、こちらのベッドに横になってくださいね」
看護師が落ち着いた口調で誘導してくれる。俺は唾を飲み込みながらそのベッドに腰をおろし、腕をまくって麻酔の注射を受ける。ちくりとした痛みとともに、じわじわと腕の感覚が鈍くなるのを感じる。
横目で器具の準備をしている様子を見ていると、ふと「俺はこれから何をやっているんだろう」と自問する。普通に考えれば、こんな怪しげな制度を疑うのが当然だろうに、俺は数十分後には体内にチップが埋め込まれる。
だけど、もうここまで来たらやるしかない。今さら後戻りはできないし、今のままの人生じゃ何も変わらない。
「少し圧迫感がありますよ。痛かったらすぐに言ってください」
看護師の言葉と同時に、メスがわずかに肌を切る感触がある。痛いというよりは妙な押し込まれるような不快感だが、我慢できないほどではない。何度か道具が触れる感覚が続き、チップが差し込まれるようだ。
やがて手際よく処置は終わり、ほんの小さな絆創膏が貼られる。「明日からはシャワー程度であれば大丈夫ですが、あまり激しい運動は控えてくださいね」と注意を受け、ベッドから起き上がる。
腕にはまだ麻酔の感覚が残っているが、そこまでの激痛はなかった。あまりにあっけないので拍子抜けするくらいだ。
それでも、「自分の体に機械が入ったんだ」と思うと背筋がゾクッとする。完全に“普通”の生活には戻れなくなった、そんな一線を越えた気分だ。
簡易的な説明を終えて部屋を出ると、廊下でユージンが嬉しそうに腕をさすっていた。彼も埋め込みが済んだようで、「すごいですね、未来に生きてるって感じがします」と呟いている。
俺は苦笑いするしかない。「まあ、未来っちゃ未来かもしれないけど……」
この後、ウォレットの初期設定が行われるらしい。別フロアの会議室に集合し、チップと連動する専用スマホアプリをインストールした上でテストを行うとのこと。
時間通貨が1秒1円で積み上がる……いよいよそれが形になると思うと、どこか現実離れした気分になる。
エレベーターに乗って指定のフロアに行くと、さきほど施術を終えた若者たちが何人も集められていた。皆、腕に小さな絆創膏を貼っている。思わず吹き出しそうなくらい、奇妙な一体感がある光景だ。
係員からスマホ用のQRコードが配られ、「こちらのアプリを入れて、登録画面にお進みください」と案内される。俺は言われるがままQRコードを読み込んでアプリをダウンロードし、名前やIDなどの初期情報を入力する。
「それでは生体チップと接続しますので、画面の指示に従ってください」との声で、俺は画面を見ながら腕を静かに近づける。ブルートゥースかNFCのような技術でペアリングするらしい。
しばらくすると、アプリ画面に緑色のバーが表示され、「ウォレット接続成功」と文字が出た。そこに「残高:0円」と見えるが、すぐに「1…2…3…」と数値が増え始める。
「え……これ、いま何が起きてる?」
信じられない思いで見つめると、1秒ごとに1円ずつ加算されているのがわかる。まるでストップウォッチのように、1,2,3…と数字がリズミカルに上がっていく。
「マジで本当に動いてるのか……」
ユージンが「すごい! もう僕は10円溜まりました!」と横で笑っている。俺も釣られて思わず笑みがこぼれるが、頭の片隅では「こんなの、長く続くわけない」という冷めた思いも離れない。
やがて係員から説明があった。
「皆さん、現在表示されている金額は“時間通貨”と呼ばれるものです。あくまで実験地区内の店舗や提携サービスなどで利用可能となります。段階的に広がる可能性はありますが、まだ全国で使えるわけではありませんのでご注意を。あと、勝手に使わずに貯金できるのかといった質問があるかもしれませんが、システム上、ウォレットにある残高はリアルタイムで価値変動を管理しており、現金化のプロセスには一定の制限があります。詳しくはアプリ内の利用規約をご参照ください」
なるほど、完全に“本物のお金”としてすぐに使えるわけでもないようだ。試験運用特区内での支払いがメインらしいが、それでも家賃や公共料金は従来の法定通貨でしか払えないところが多いという。夢のような話と思いきや、やはり現実は一筋縄ではいかないのだろう。
説明会の最後に、担当官がこう締めくくった。
「皆さまには今後、実際にこの時間BIを活用して生活していただき、その様子を定期的にレポートしていただきます。特区内のコミュニティに積極的に参加される方もいれば、まったく働かずに過ごす方もいらっしゃるかと思います。それぞれのスタイルが、どのような結果をもたらすのか——それが今回の最も重要なデータです。よろしくお願いいたします」
こうして、俺たちは“1秒1円”という奇妙な新世界へ本格的に足を踏み入れることになった。現時点では、その実感はまだ薄い。アプリに表示される数字が少しずつ増えているのを眺めながら、なんとも言えない高揚感と不安が入り交じる。
「生きてるだけで金がもらえる世界」——そんな言葉だけを聞くと夢のようだけれど、果たしてこの先に待ち受けているのはバラ色の未来か、それとも大きな落とし穴か。俺は出口の見えないトンネルに突き進むような気持ちで、廊下を歩いていた。
肩越しに見ると、廊下の先でユージンやレイナ、由梨らしき姿がある。彼らはそれぞれの思惑や人生を抱え、同じ実験に参加する仲間だ。まだこのとき、彼らとの本格的な接点はないが、後に俺の運命を大きく変える存在になるかもしれない。
「ま、なるようになるか……」
思わずつぶやいて、腕に貼られた絆創膏の存在を確認する。ここには、人生を大きく変えるかもしれない小さなチップが埋まっている。そのチップが、これからどんな物語を紡いでいくのだろう。
外に出ると、ビルの谷間に少しだけ青空が覗いていた。気のせいか、さっきまでの雨雲がどこかに去っていったように見える。
「もしかしたら、悪くないかもしれない」
そう自分に言い聞かせるように笑ってみた。すると、不思議と心が軽くなる。
こうして俺は、新たな一歩を踏み出した——時間本位制ベーシックインカムという、誰もが「まさか」と言いたくなる世界への最初の入り口をくぐったのだ。
この瞬間はまだ知らない。そこには数々の困難や矛盾、そして思いがけない絆や発見が待ち受けていることを。
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