第4章「隠された縄文の記憶」

 朝のうちに梅雨空を彩っていた雨雲が消え、昼には見事に晴れあがった。6月も終わりに差しかかり、日はますます長くなっている。

 ここは東京都内、時間本位制ベーシックインカム(以下、時間BI)の実験地区に隣接する大学キャンパス。医学部と人文系の研究棟が並ぶ一角に、小さな講義室が用意されていた。今日はそこで、**藤堂 由梨(とうどう ゆり)**が自らの研究テーマに関連したセミナーを開くという。


 「……といっても、たいしたセミナーじゃないんだけどね。医療NPOの取り組みと絡めて、縄文時代の互酬性について簡単に紹介する程度。興味がある人が来てくれれば十分かな」

 由梨はそう言って控えめに微笑んでいたが、その目はどこか熱を帯びている。


 一方、その横でスーツ姿の職員と話をしているのはユージン・ウォンだ。今日はAI研究室の知り合いを連れて来るとか何とか言っていたが、打ち合わせがあるらしくバタバタしている様子。

 そして俺、**朝倉 想汰(あさくら そうた)**はといえば、先日契約した「イベント設営バイト」の集合日が来週に迫っているため、それまでは時間に余裕がある。由梨が「よかったら来てみない?」と声をかけてくれたので、正直に「縄文についてはよく知らないけど、面白そうだから」と参加を決めた。


 「しかし、縄文時代の研究か……。由梨が医療関係っていうのはわかるけど、なんで縄文?」

 講義室の隅で椅子に腰かけながら、そうつぶやくと、すぐ隣の席に座っていた笠原 レイナが小声で相槌を打つ。

 「私もよくわかんないけど……でもあの子、本気で“時間BI”を縄文の互酬文化と結びつけようとしてるみたいだよ。前にいろいろ熱く語ってたし」

 思い出すのはオリエンテーションに参加したときのこと。由梨は時間BIに興味を持つだけでなく、「かつて縄文時代には一種のベーシックインカム的な相互扶助があったのではないか」と論文にまとめようとしていた。それがどうやら今回のプチ・セミナーのテーマらしい。


 講義室には学生や一般の聴講者らしき人が10名ほど集まり、あとは大学の教員風の人が数名。後方には少し年配の学者らしき女性が座っていて、由梨の発表を見守っているようだ。おそらく指導教授かもしれない。

 定刻を迎え、由梨がホワイトボードの前に立つ。彼女は小柄な体躯ながら背筋をピンと伸ばし、マイクを手にすると端正な口調で挨拶を始めた。

 「本日はお忙しい中、私のささやかな発表にお越しいただきありがとうございます。内容としては“縄文時代の互酬文化”と“現代における時間本位制ベーシックインカム”が、どのような思想的繋がりを持つ可能性があるかを考察したものです……」


 教室の照明がやや落とされ、スクリーンにパワーポイントのスライドが映し出される。まずは縄文時代の一般的な概要を示すところから始まった。

 縄文時代——およそ1万6千年前から約2千3百年前まで続いたとされる先史時代の文化。狩猟採集を中心に、土器やアクセサリーなど豊かな工芸品を残しているが、社会階層がはっきりと発達しなかった可能性が高いと言われている。遺跡の研究から、墓制に明確な身分差が見られないことや、交易網が広がっていたことなどが指摘されている。


 「中でも注目したいのが“互酬性”という考え方です。余った食料を集落の仲間と共有する、獲物は独占せず分かち合う、といった行為が、当時の人々の基本的なコミュニケーション手段だったのではないかと言われています……」

 スライドには狩猟のイラストや出土品の写真が映し出され、由梨は淡々と解説していく。その姿は医療を志す学生というより、むしろ人類学や考古学を専攻しているかのような熱量を感じさせる。


 「よく『縄文人は平等で争いが少なかった』と言われますが、それは近年の研究では若干の疑問も呈されています。ただ、明確な貧富の差を示す遺構が発見されていないのは事実ですし、互いに助け合う文化が強かったのは確かでしょう。この“集落全体で支え合う”精神を、私は“原始的なベーシックインカム”と位置づけたいのです」


 会場の空気が少し動く。前列の学生たちがメモを取り始めるのが見えた。

 「生きていくために、共同体が互いを支え合う仕組み。それはある種、『生存自体を保証する』という点で、現代のベーシックインカムの理念とつながる面があるのではないでしょうか。もちろん、実際には狩猟採集経済と現代の貨幣経済は全く異なるものです。しかし、“生存を共同で担保する”という思想に、私は可能性を感じるのです」


 そこから由梨は、時間BIが導入されつつある実験地区の事例を簡単に紹介した。彼女自身がモニターであり、一部の店舗やサービスが時間通貨に対応している様子、コミュニティの実態などをスライドで示す。

 「現代では、すべての個人が安定した収入を得られるわけではありません。働きたくても働けない人、スキルを活かせない人、将来に不安を抱える若者……。そこに1秒1円が支給されるとどうなるか。食費や日々の雑費はカバーできるかもしれない。でも、家賃や医療費など大きな出費にはまだ不十分。実験地区でも課題は山積です」


 聞いていて、俺は自然と身を乗り出した。まるで自分のことを言われているかのようだからだ。家賃が払えずに苦しんでいる俺の生活を、由梨はメタな視点から分析しているように感じる。

 「では、もし“互酬性”——つまり、みんなで互いのスキルや余力を分かち合う関係が構築されればどうなるでしょう? 食料や物資だけでなく、介護や教育、さらには創造活動や研究にも広がるかもしれない。お金の代わりに時間通貨や、いわば“感謝”の形で交換が行われる。これは一部の地域通貨やタイムバンクの概念にも近いものです。私は、縄文時代の精神こそ、これを実現するヒントになるのではと考えています……」


 そう言うと、スライドには“縄文”と“時間BI”を結ぶ矢印の図が現れ、「互酬性と共創」の文字が浮かび上がる。



 発表の前半が終わり、10分間の休憩が告げられる。室内が明るくなり、人々が一斉に立ち上がり、水やコーヒーを取りに行く姿が見える。

 俺はレイナと顔を見合わせ、「思ったよりマジメな内容だな」と苦笑いする。レイナは「由梨だからね、医療だけじゃなく人類学とかもかじってるんだよ、きっと」と感心したように言う。

 すると、ちょうどそのタイミングで由梨がこちらに向かって歩いてきた。頬には少し赤みが差しており、興奮の余韻が残っているのかもしれない。

 「どうだったかな、難しかった?」

 「いや、すごくわかりやすかったよ。縄文時代にそんな文化があったなんて、改めて驚いた」

 俺が率直に言うと、由梨はほっとした表情で肩を落とす。

 「よかった。まだ発表に慣れてなくて……。そうそう、後半はもう少し突っ込んだ話をする予定なんだけど、もし質問とかあれば遠慮なくね。特に“時間BIの実情”は私が追いきれてない部分もあるし、想汰くんたちの生の声は貴重だから」


 レイナが腕を組んで首をかしげる。

 「でもさ、縄文時代みたいに、みんなが本気で助け合う社会なんて、本当に今の日本で作れるのかな? いくら時間BIがあっても、結局は働かなきゃ家賃も払えないし、そこまで生活保障が完璧になるわけじゃないでしょ」

 そう問われ、由梨はまっすぐにレイナの目を見返す。

 「うん、簡単じゃない。だけど、私は医療の現場で、保険やお金の問題で治療が受けられない人をたくさん見てきた。『互酬性』っていうのは、みんなが“持てるものを持ち寄る”精神だから、うまく組み合わせれば医療費問題や福祉にも応用できるかもって思ってる。時間通貨で基本的な生活をまかないながら、お互いの技術やサービスを交換する……そんな形が可能になれば、何らかの解決策が見えてくるんじゃないかな」


 その言葉には、由梨の信念のようなものが垣間見えた。医療×縄文という奇妙な組み合わせは、彼女の中では筋が通っているらしい。考え込むレイナの横で、俺はふと、「ユージンはどこに行った?」と辺りを見回した。

 すると、入口近くの職員らしき人と雑談している姿が見える。どうやらAI研究室関連の打ち合わせがあるとかで、電話やメールを気にしているようだ。


 休憩が明けると、由梨は後半戦の発表に移った。これまでの理論的な話をもう少し踏み込み、「現代社会に縄文の精神をどう当てはめるか」について、医療・福祉の観点から説明していく。

 医療NPOを将来的に立ち上げたい彼女のビジョンは、単に金銭的な支援をするのではなく、“コミュニティと相互扶助”を組み合わせた新しい医療モデルを作りたいというものらしい。具体的には、軽度のケアや相談を地域コミュニティが分担し、高度医療が必要な場合に専門病院へ回す。それに時間通貨やタイムバンクを組み合わせれば、「医療費を心配せず初期診療にアクセスできるのではないか」という考えだ。

 「もちろん、これはあくまでも構想段階です。でも、私たちが今のうちから“お金がないと病院に行けない”という悲しい現実を変えたいと思うなら、こういうビジョンを描くのは有意義じゃないでしょうか? 私はそこに縄文時代の“支え合いの精神”を見出しています」


 言い切る由梨の目はきらきらしていて、会場の10数名は静かに聞き入っていた。中には興味深そうに眉を上げる人や、熱心にメモを取る姿もある。指導教授らしき人物もうなずきながら聞いていた。


 発表が終わり、一同が拍手を送る。由梨は照れくさそうにお礼を述べ、質疑応答の時間が設けられた。

 最初に手を挙げたのは年配の男性教授で、「縄文時代にも地域間の争いや飢餓があった可能性をどう評価するのか?」など厳しい指摘が飛ぶが、由梨は落ち着いて答えている。

 続いて、若い女性が「互酬性を現代に蘇らせるにはネットワーク技術も必要では?」と質問。そこではユージンが口を出し、「AIやデータ管理を使って共同体のタイムバンクを効率化できるかもしれない」と補足した。

 途中から議論が白熱しそうになるが、時間も限られているため適当なところでまとめに入り、セミナーは終了となった。参加者がぞろぞろと席を立ち、由梨のもとへ感想を伝えに行く人や名刺を交換する人で小さな輪ができる。


 俺とレイナは少し離れたところで見守りつつ、由梨が落ち着くのを待った。途中でユージンも合流し、「由梨さん、すごいね。ちゃんと自分の見解を言葉にしていて」と感心したように言う。

 「だよな。俺なんか、あそこまで広い視点で語れないよ……」

 「うん、すごいわ。あれだけ喋るには相当準備したんじゃない?」

 レイナも頷く。


 由梨がようやく解放されたのはセミナー終了後15分ほど経ってからだった。彼女は少し疲れた様子だが、うれしそうに微笑んでこちらに近づいてくる。

 「ありがとう、来てくれて。……ちょっと難しい話になっちゃったかな?」

 「そんなことないよ。むしろ、本気で医療とコミュニティを結びつけようとしてるのが伝わってきた。縄文の話、興味深かった」

 俺が率直に述べると、レイナとユージンもうなずいて賛同する。


 「そう言ってもらえると嬉しい。あまり“縄文時代”と“現代制度”を直接比較するのは危険だって言う人も多いけど……やっぱり何かしら学べる部分はあると思うの」

 由梨はそう言いながら、鞄から小さな冊子を取り出した。セミナー資料の補足版らしく、縄文時代の出土品の写真や、実験地区の取り組みが並べられたミニパンフレットだ。

 「これ、もしよかったら読んでみて。私がまとめた簡単なレポートなんだけど、一番最後に“互酬性を現代に実装する”ためのシミュレーションが載ってるの」


 レイナが興味深そうに受け取り、「ふーん、こういうの出してたんだ」とめくっている。ユージンは「データベースとAIで補完できそうですね」と眼を輝かせた。俺も横から覗き込み、図解されたフローチャートなどに目をやる。そこには、時間通貨やベーシックインカムと、互酬によるコミュニティ支援を繋げる案が細かく書かれていた。

 「ちょっと理解が追いつかないけど……要するに、時間通貨だけに頼らなくても、人と人とが助け合う仕組みを強化すれば、家賃や食費も少しは軽減できるんじゃないか、みたいな話?」

 「まあ、ざっくり言えばそんな感じ。実験地区の中でも、いくつか“互助グループ”みたいなのができかけてるって聞いたし、私もそれを将来的に医療と結びつけられないかと考えてるの」

 由梨が言うと、レイナがチラリと俺の方を見て、「家賃問題がちょっと楽になったらいいのにね」と苦笑いする。俺も思わず無言で笑みを返すしかない。


予兆を感じさせる一通の電話

 その後、セミナーを終えた由梨とユージン、レイナ、そして俺の4人は、学食のスペースで軽く昼食を取ることにした。キャンパスの学食は安価でメニューも豊富だ。由梨の提案で、学食のカレーを時間通貨で買うなんてことはできないかと思ったが、さすがに大学施設はまだ実験地区の外にあるため、現金オンリーだった。

 食事をしながら、みんなで近況を語り合う。ユージンは例のシェアハウスの契約を正式に済ませたらしく、来月から引っ越すとのこと。「イベントバイトの期間中だけは手伝ってほしい」と大家さんに頼んで、新居での荷ほどきは後回しにするらしい。

 「忙しそうだねえ。でも前向きでいいじゃん」

 レイナが苦笑していると、ユージンは爽やかな笑みで「まあ、やるしかないですからね」と返す。


 由梨はというと、セミナーの反響がそこそこ良かったらしく、教授から「正式に研究テーマにしてみては」と勧められているらしい。医療NPOの立ち上げに関しても、具体的な協力者を探す段階に入りつつあるようだ。「全然落ち着く暇がない」と言いつつも、その表情は充実感に溢れている。

 一方でレイナは「なかなか今のシェアハウスをやめられない」とぼやき、俺も相変わらず「家賃が払えずに詰んでる」と正直に打ち明ける。だが、今度のイベント設営バイトが成功すれば、少なくとも家賃問題は一時的に解消する見込みだ。


 そうやって話している矢先、俺のスマホが振動し、着信画面が表示された。番号は……あのバイト面接で連絡してきたスタッフのものだ。

 「悪い、ちょっと出るね」

 みんなに一言断り、学食の隅の方へ移動して電話に出る。

 「はい、朝倉です」

 『あ、朝倉さん? えっと、急ですみませんが、イベント設営バイトの集合日がちょっと繰り上がりそうで……。来週水曜からって言ってましたよね? 可能なら火曜から来てほしいんです』


 電話越しの相手の声は焦ったように早口だ。聞けば、イベント側の準備が思ったより遅れており、会場の入り時間を1日早めて集中して作業しないと間に合わないという。

 「いや、まあ構わないですよ。俺は特に予定ないんで……」

 『助かります。あと、他の若者スタッフにも連絡してるんですけど、一部の子たちが連絡取れなくて……。朝倉さんのグループ、ユージンさんとかレイナさんとかも一緒に面接受けてましたよね? もし繋がるなら、こっちからのメールを確認するよう伝えてください』


 「わかりました、伝えますね」

 手短に電話を切り、テーブルに戻ると、3人が「どうしたの?」という目でこちらを見ている。

 「集合日が1日早まるんだって。来週の火曜から来てくれってさ」

 ユージンが「あ、マジですか。OKですよ、僕は」と返し、レイナは少し渋い顔をして「うーん、火曜は夜バイトが入ってたんだけど……なんとか調整するしかないかな」とうなだれる。

 「仕方ないよな。そうしないとイベントが間に合わないんだろうし」

 自分自身に言い聞かせるように呟いていると、ふと背後から誰かに声をかけられた。


 「失礼、あの……、朝倉さんたちですよね? ちょっとお話いいですか?」

 振り向くと、そこには学食の制服を着た中年の男性が立っていた。顔には汗がにじみ、どこか落ち着かない雰囲気を漂わせている。見覚えのない顔だが、なぜか俺たちの名前を知っている。誰だろう——と思いながら視線を向けると、男性はさらに小声で言う。

 「あなたたち、時間BIのモニターなんですよね……? もし、よければ“もっと効率よく時間通貨を増やす方法”があるんですが……」


 一気に警戒心が走る。後ろからレイナが気づかれないよう腕を引っ張ってきたのがわかった。ユージンと由梨も顔つきが変わっている。

 「いや、すみません、そういう勧誘は興味ありませんので……」

 俺が即座に断ると、男性はますます焦った様子で手を振る。

 「ち、違うんです! 勧誘とかじゃなくて、ただ“ある装置”を使えば、生体チップのデータをほんの少しだけ書き換えられるって話で——」


 不正利用——頭にその言葉が浮かぶ。やはり噂は本当だったのか? この男は、チップの脈拍データを偽装して“生存時間”を水増しする技術を持ちかけてくる輩の一人なのか?

 「すみません、本当に、そういうのはやってないんで……」

 きっぱり断ろうとしたが、男はしつこく食い下がる。

 「いや、日々の生活が苦しいなら、この方法を使えば少しだけ時間通貨を増やせるんですよ。ほんの数%増やすだけならバレませんし……。僕も実際にやってて、ほんとに少しだけですけど毎日プラスアルファで稼げてる。バレない限り合法みたいなもんです! あなた方も、どうせ家賃とかで困ってるんでしょ?」


 無遠慮な男の口調に、思わずかっとなる。彼がなぜ俺たちの状況を知っているのかはわからないが、少なくとも“苦しんでいる若者を引き込む”ような意図があるのは明白だ。

 「そんなことしなくても大丈夫です。失礼します」

 俺はレイナの腕を掴み、ユージンと由梨を目配せして、その場から立ち去ろうとする。男はまだ何か言いたげだが、周囲の目もあるためか、それ以上は追いかけてこなかった。


 学食の出口へ向かう廊下を小走りになり、外の明るい光へ飛び出す。ようやく安堵の息をついた。

 「……なにあれ、最悪じゃん。勧誘というか犯罪の誘いだよね」

 レイナが憤慨した様子でつぶやくと、ユージンも真顔で「やばいですね。あんなふうに声かけして回ってるんでしょうか」と吐き捨てる。由梨は携帯で何かを操作しており、「時間ベーシックインカム 事務局に通報しておいた方がいいかも……」と冷静に提案してきた。

 俺も同感だ。ここ最近、「不正利用を監視する特殊監査部隊が動いている」という噂があったが、こういう人物がいるからこそ、その監査が必要になってくるのだろう。


 実際、男の言葉を思い返すと、ほんの一瞬だけ“家賃が払えない苦しさ”に負けて誘いに乗りかけた自分がいるのを感じる。たった数%であれば……と。そう考えた瞬間、ゾッとした。

 「……危ないな、俺、もう追いつめられすぎなんだろうか。ちゃんとしなきゃ」

 心の中で小さくつぶやく。そして、改めて思う。ここはもう、人々の“苦しみ”や“欲望”が絡み合う世界になってしまっているのかもしれない。時間BIは確かに革新的な制度だけれど、その裏ではこうした闇も拡大している。


縄文の思想が示すもの

 大学キャンパスを後にし、駅へ向かう途中、由梨が小さく息をつきながら口を開いた。

 「さっきの男の人のこと、私も事務局に連絡しておくね。こういう不正利用の誘いが蔓延すると、時間ベーシックインカム自体が危うくなるから……」

 俺たちも頷く。レイナは少し不安そうに眉を寄せ、「自分があの状況でもうちょっと追いつめられてたら、もしかしたら手を出してたかも……って思っちゃう。なんか怖いね」と言う。

 「わかるよ。俺もそうだ。金ないし、家賃も払えないしってなったら、1日にほんの数百円でも不正で稼げれば……とか考える人もいるはず。だから、こういう勧誘はあり得るんだろうな」


 後ろで歩いていたユージンが、「だからこそ、互酬性とかコミュニティの助け合いが大事なんじゃないですか?」と口を挟む。

 「由梨さんが言ってた縄文の話、あれって要するに『お金のためにズルをする必要がない社会』を作ろうってことですよね?」

 「うん。誰かが困ったとき、隣人が自然と助ける仕組みがあれば、極端な話、お金がなくても生きていける。そんな社会になれば、不正利用に手を染める人だって激減するかもしれない」

 由梨がしっかりとした調子で言う。


 俺はそれを聞いて、半ば皮肉まじりに小さく笑う。

 「……でも、現実にはそこまで行き着いてない。だから、あんな不正の誘いがはびこるんだよな。縄文みたいに、みんなが仲間意識を持って支え合う社会が理想だってわかってても、実際には弱い人が落ちこぼれるのが今の世の中だし」

 レイナは無言でうつむき、ユージンは困った顔をする。由梨は少し考え込むように歩みを止め、こちらを振り向いた。

 「そうだね、今はまだ、理想と現実のギャップが大きい。でも、だからこそ私たち若い世代が“違う未来”を描き直そうとしてるんだと思う。完璧な解決は無理だとしても、一歩ずつ変えられたらいいなって」


 その瞳は決して揺らいでいない。俺は思わず言葉に詰まる。自分の苦しい現実を嘆いてばかりの姿勢が、彼女の強い意志に比べてあまりにも情けなく思えてくる。

 「……そうだな。まあ、そう簡単にうまくいくとは思わないけど、いつか“縄文”みたいな優しい社会になればいい、か。夢みたいな話だけど……」

 精一杯、皮肉に聞こえないよう言葉を選んで返す。由梨はそれを聞いてふわりと笑った。


 「うん、夢がないと生きられないしね。私はその夢に近づけるために、いろんな人の力を借りたいし、私自身も行動しようと思ってる。……想汰くんも、何かあったら遠慮なく言ってね。私にできることがあれば、協力するから」

 そう言われると、なんだか胸が熱くなる。レイナが「私にも言ってよ、役に立つかはわかんないけど」と、やや照れ隠しのようにそっぽを向いて言葉を継いだ。ユージンは「僕もAIとか技術面で力になれることがあるかもしれません」と真面目な表情。


 ほんの少し前まで「踏み出せない」と嘆いていた俺だが、こうして仲間の存在を感じると、少しずつでも動き出さなくちゃと思えてくる。時間ベーシックインカムの恩恵と闇、不正利用の危険、そして縄文が示す“支え合い”——それら全てが混在する時代の中で、自分はどう生きていくのか。



 それから数時間後。夕方には俺とレイナで別の用事があり、ユージンと由梨は大学の教授と話し込む用事があるらしく、再び別行動となった。大学の正門で4人が別れを告げたあと、俺とレイナは並んで駅へ向かう。夕陽がビルの谷間を黄金色に染めていた。

 「ねえ……、次のイベントバイト、うまくいくといいね」

 レイナがぽつりと呟く。

 「そうだな。俺たちにとっては結構大事な勝負だからな。これで少しでも借金を返せたら助かる」

 「私も今のシェアハウスを抜ける資金が欲しいし。ほんと、体力勝負みたいだけど、なんとか頑張ろうね」


 レイナはそう言うと、少し遠くを見つめるように目を細める。彼女はあまり多くを語らないが、きっといろんな悩みを抱えているのだろう。

 「そういえば、さっきの縄文の話……由梨、本気で“大昔の精神”を現代に蘇らせようとしてるよね。なんか不思議だけど、面白いなと思った」

 俺が言うと、レイナは口元をかすかに上げる。

 「うん。私もさ、絵を描くときにテーマをどうしようとか悩んでるんだけど……いつか縄文や日本の古代文化をモチーフにした作品を描いてみたいなって、ちょっと思った」

 「へえ、いいじゃん。レイナの絵で“互酬性”を表現できたら、なんかすごくアーティスティックだろうな」

 レイナは「ま、いつになるかわかんないけどね」と照れ隠しのように答えて、視線を外した。


 そんな何気ない会話をしながら、駅が近づいてくる。街を行き交う人々の中に、チップを埋め込んだ若者も多いのだろうか。最近はいたるところで「時間通貨対応」のステッカーが貼られているのを見かけるようになった。でも、その一方で、あの不正利用を持ちかける男のように裏道を行こうとする人間も確実に存在している。

 さっき由梨が語った“互酬性”が、本当にそんな闇を払拭する鍵になるのだろうか。それは今の時点では誰にもわからない。


 改札を前に立ち止まり、レイナと別れのあいさつを交わす。彼女は逆方向の電車らしく、ホームも分かれている。

 「また連絡する。イベントバイトの件も情報共有しよう」

 「うん、よろしくね。……じゃあね」

 笑顔で手を振り合い、お互い改札を通って行く。レイナの足取りはどこか軽やかに見えた。彼女にも少し前向きな光が差しているのかもしれない。


 俺は自分のスマホを確認する。ウォレットの時間通貨残高はまた増えてきていて、そろそろ5万5千円相当に届きそうだ。あと数日でバイトが始まれば、さらなる現金と時間通貨を得られる見通しもある。

 もしかしたら、俺の人生も少しずつ好転していくのだろうか。そう思う反面、一抹の不安は消えない。闇が拡大するか、光が広がるか——時間BIという大きな実験の中、誰も先が読めない。

 でも、確かなのは「行動しなければ何も変わらない」ということだ。由梨の姿を見て、そんな当たり前のことを再認識した。


 改札を抜けてホームに立つと、ちょうど電車が滑り込んできた。いつものように人混みに押し流されながら車内へ乗り込む。扉が閉まると、夕暮れの街並みが少しずつ遠ざかっていった。

 窓ガラスに映る自分の顔は、相変わらず疲れが抜けていない。けれど、その奥底には、あの頃の“踏み出せない”自分とは少し違う意思が宿っているようにも思えて……。俺は、何とも言えない胸の奥のくすぶりを噛みしめながら、電車の揺れに身を任せた。

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