第6話

「ねぇ、侃」

「侃」

「侃、さっきの授業なんだけど――」


 転校して数日すると、授業が終わってすぐに伊里院さんが椅子をぐい、とあたしの方まで近づけてくるのが、もう当たり前の光景になっていた。

 初めは遊びに誘おうとしていたクラスメイト達であったが、普段の様子から「ちょっと厳しそうだな」と判断したか、そのような誘いはめっきりなくなったようだ。

 といっても、歓迎会として今度カラオケに行くことが決まっているのだが、カラオケは大丈夫なのか聞くと――


「それは大丈夫だよ。昔お父さんが連れてってくれたから」


 とのこと。いくら無神経なあたしでも、? とは聞けなかった。彼女の口から「お父さん」が出たのは、その日その時が初めてだったからだ。

 聞かなくても分かる。たぶん、今はお父さんと一緒に暮らしていない。そして、お母さんとの仲も、あまりよろしくないのだろう。


「なーんか、幼馴染が取られた気がするなー」

 諫早の方のがそうぼやくと、伊里院さんがくるり、とそちらに首を回し――

「これまで15年も一緒に過ごしてきたのだから、少しくらい良いでしょう?」


 そうやって、言葉遣いだけは綺麗なのに、かなり強気に返して少し驚いた。まぁ当のナオはわざとらしく口を尖らせ「ぶー」なんて文句を言ってるので、気にするほどでもなさそうだが。


 あたし相手だけ伊里院さんの口調が変わるのは、もうクラスメイト皆慣れたようだ。はじめは人前だけ他人行儀な感じだったが、いつの間にか元に戻っていた。たぶん二日目には戻ってた。猫被るのが下手すぎる。

 時折「なんで藤崎さんだけあんな懐かれてんの?」なんて陰口が聞こえてくるのは、もう聞こえないフリをする。

 というかあたしに聞こえてるってことは漏れなく伊里院さんにも聞こえてるわけで、たぶんそのせいでこの子はあなた達の遊びの誘いを断ってるんだよ――と言いたい気持ちがないわけでもないが、あえて仲悪くなる必要もないので流石にそんなことは言わない。


「侃、普段何してるの?」

「普段? ……本読んだり」

「他は?」

「……本読んだり、本読んだり、本読んだりしてるわ」

「買ってるの? あんまり家には本なかった気がしたけど……」

「いや見えてないでしょ!?」


 確かに一回部屋には上げたけど!?


「匂い、って言うのかな。紙の匂い、あんまりしなかったから」

「……待って、それは冗談で言ってるわけじゃなくて、マジで言ってる?」


 冗談と本気の差が分かりづらいのよこの子。表情ほとんど一緒だもん。ポーカーフェイスが上手すぎる。カードゲーム超強そう。あぁでも柄が分からないか。

 でも、私の疑問に対し、コクリ、と頷いて言うのだ。


「本屋にはあんまり連れて行って貰えなかったけど、図書館だけは、昔から行ってたよ」

「……そうなんだ。そっか、読めるのか」

、ね」

「…………あー、はい、はい、そういうことね」


 一瞬何のことを言ったか分からなかったが、1週間も一緒に居るとなんとなく空気感、というか、彼女の言いたいことが分かるようになってきた。

 間や言葉が独特ではあるけれど、一貫してることはあるから。


 ――それは、目が見えないことの不自由さを、隠そうとはしていないということ。


 彼女にとって書物は、手の中にあればなんとか読むことが出来るものだ。

 だけど、目が見えない彼女が、どうやって本を選び、どうやって手に取るというのだろう。

 表紙? 分かるわけはない。背表紙? カバーが付いてれば終わりだ。そもそも本棚のどこに何があるのかすら分かるまい。


 イラストは文字と違って、肌触りだけじゃほとんど分からないらしい。というのも彼女は生まれた時から全盲――つまり、色のついた世界を見たことすらない。

 日本語なんて、常用されているのはたかが2000文字程度。ゴシック体とか明朝体とか多少文字が崩れたところで、使われる文字数が増えるわけではないので、全ての文字を覚えたらなんとかなる。


 だが、イラストに2000パターンしかないという人間が居たら、そいつは見識が狭いか頭が固いかのどちらかだろう。

 モノクロであっても無限大だ。あまりに形に自由度が高すぎて、彼女はイラストから実物を想像することは出来ない。絵本すらかなり厳しいとか。そのため、どうしても漫画だけは読めないらしい。


「昔住んでたところの近くにあった図書館で、いつも本の読み聞かせをしてて、しばらくそこに通ってたんだ。……小学校の頃までだけど」

「んじゃ、行く?」

「……良いの? きっと、迷惑かけるよ」

「これまであたし、迷惑なんて言った?」

「…………ふふっ」


 そう言って微笑むと、伊里院さんはあたしの身体をぎゅっ、と横から抱き締めてくる。

 もちろん、ここは教室の中。クラスメイトが「ひゅー!」なんて声を漏らす。ついでにナオも。あんたはやめろ。


「てか、本読みたいなら電子書籍は買わないの? 読み上げ機能とかあったと思うけど」

「オーディオブックは聞いてるよ。ただ、買うことはあんまりないかな」

「……ま、私も似たようなものね」


 バイトしてない学生が自由に使えるお金なんて、親から恵んでもらえるお小遣いくらいしかない。お嬢様学校とはいえ、お小遣いが無限に燃える子はそこまで多くない。逆にバイトしてる子は普通の共学校よりはずっと少ないと思うし、それはお小遣いが多いからだろうけど。

 元手が少なく、かつバイトもしないとなると、お金を使わないで良い趣味を見つけるしかあるまい。私の図書館巡りのようにね。


「オーディオブックって聞いたことないけど、朗読みたいなやつよね。どんな感じ?」

「うーん……、最近はAI製のもあるけど、そういうのは言葉に抑揚がなくてだいぶ聞き取りづらいからプロのを選んでるよ。えっと……」


 そう言って鞄からスマホを取り出した伊里院さんは、慣れた手つきでアプリをタップし――


 ぴたり、と指が止まった。


 あたしが「ん?」と首を傾げると、「ごめん、見てくれる?」とスマホを渡してくるので受け取る。

 ストアが強制で開かれ、アプリ更新の画面が映っていた。

 あぁ、指先の感覚だけで押してたら、急に違う画面に変移して分からなくなったのか。代わりにストアから更新し、終わったのを確認してから「はい、」と返す。


 スマホには触れたものを読み上げるアプリを入れてるみたいだが、学校ではマナーモードにしているから機能していない。というか女子高生なのに、伊里院さんは学校に居る間、ほとんどスマホに触れることはないのだ。

 SNSとかやってないみたいだし、読み上げソフト無しじゃブラウザすら見れないので仕方ない気持ちもあるが、休み時間とかに何をするでもなく固まってるのを見ると、つい話しかけちゃうのよね。

 元からそんな友達が多いわけではなかったあたしだけど、最近は特に伊里院さんに付きっきりだ。まぁ、それに文句言うのもナオくらいなんだけど。


「イヤホン……、持ってる?」

「ごめん持ってない。落とすの怖いから家に置きっぱなし。持ってるなら借りて良い?」

「私のだけど、良いの?」

「今更でしょ」

 あたしの返答に少しだけ嬉しそうに微笑んだ伊里院さんが、をポーチの中から取り出した。

「……なんか変なの持ってるのね」

「有線接続出来ないから……」

「じゃなくて、なんでコレ、左右繋がってるの?」


 正直なことを言うと、こんなの初めて見た。ワイヤレスイヤホンが一般的になった現代じゃ、スマホに接続用のジャックがないなんて当たり前だ。スマホには充電以外の端子を指す場所すらない。

 なのにこのイヤホンは、接続ジャックはないのにイヤホンの左右がケーブルで繋げられている。不思議だ。


「繋がってないと、耳から外れた時に見つけられないんだよ。これなら引っかけて落としちゃっても、転がっていかないし」

「あー…………、なるほど…………」

「それに、こういうのを使うのは大体外でだからね。……地面に落ちた小さいものを探すのは、流石に厳しくて」

「そりゃ仕方ないわ……、んじゃ、借りるわよ」


 耳に差し込む。ちょっと私の適正サイズより大きいかな、という感じだが、人のものを耳の中に差し込むのって、……よく考えたらあんまりよろしくない気がするわね。なんも気にせず良いって言っちゃったし、なんも気にせず差し込んじゃったけど。


 スマホが操作され、オーディオブックが再生される。

 どこかで聞き覚えのある男性の声だ。たぶん、有名な声優さんだろう。

 一人で朗読劇をするように、地の文は淡々と、台詞には感情を込めて読まれていく。

 数名の台詞を、全て一人で演じている。若い女性の台詞を壮年男性の声で聞くのに違和感があったのは、最初だけ。

 数分聞いてると、全然気にならなくなってきた。なるほど、初見さんに聞かせるには確かに良いわ、これ。


 チャイムが鳴り先生が教室に入ってくるので、慌ててイヤホンを耳から引っこ抜いて返す。普通に聞き入っちゃったわ。


「ありがと。また聞かせて」

「……うん」


 コクリと頷かれた。

 その表情は、本当に嬉しそうで。

 自分の好きなものを他人にも認められるって、いいよね。気持ち分かるわ。


 んじゃ、この子にも勧められる本、考えとかないとな。

 そんなことを考えているうちに、あっという間に授業は終わり、1週間ぶりの土曜日がやってくる。

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