第三章 愛という名の罰
ひとしきり胃の中の物を吐き出すと、幾らか気分も楽になった。そのまましばらくじっとして、再び吐き気が襲ってこないことを確認する。
個室を出て洗面台で口を濯ぐ。顔を上げると、青白い自分の顔が鏡に映っていた。ふぅ、と溜息をつくと、カバンの中でスマホが振動する。一瞬、賢一からだと思い緊張が走った。出ないでおこうかとも思ったが、恐る恐る見てみると、それは松本からの着信だった。
急いで通話可能エリアへ移動し折り返す。
「お疲れ様です、水無瀬です」
「おぉ、忙しいところ悪いな。今大丈夫か?」
「すみません、トイレにいました。移動したので大丈夫です」
「あぁ。悪かったな。あーそれでだ、こっちの受診が思ったより長引いててな、昼は確実に過ぎるそうだ。そっちは終わったか?」
「いえ、まだです」
「そうか、じゃぁ悪いんだが、吉田さんが終わり次第そっちで昼飯済ませといてくれ。後でまた連絡するから。よろしくな」
「わかりました。失礼します」
通話を終え、時計を見ると間もなく十二時を打つところだった。
食堂の場所を確認していると呼び出しのブザーが鳴る。
吉田さんを迎えにリハビリセンターへ向かうと丁度廊下に出てきたところであった。先ほど織田と呼ばれていた理学療法士と何か話をした後、こちらに気付いた織田は軽く会釈をして中へ戻って行った。
「吉田さん、お疲れ様。どうでした?」
「いやぁ、待たせてしまったね。うん、担当の先生はなかなかの好青年だったよ。丁寧だったし、リハビリも期待が持てそうだ」
「そうですか。それなら安心ですね」
その後二人は昼食の為食堂へ向かう。そこは海が見えるとても景色のいい場所だった。
「わぁ……」
あまりの素晴らしい景色に思わず声を上げてしまった。空腹を忘れてしまいそうな程だったが、お腹が鳴って我に帰る。やはり身体は正直だ。
二人は海のよく見える窓際に席を取り昼食を食べた。
窓から外を覗くと、食堂の下は庭になっていることに気づく。
「ね、吉田さん、ご飯食べたらあそこに行ってみましょう?外の風に当たりながら海を眺めたら絶対気持ちいいですよ!」
「おぉ、それはいいねぇ」
そうして迎えが来るまでの間、二人は病院の裏庭で海を眺めながら過ごす。
「……施設で過ごしていると、外に出ると言えば病院に行く時ぐらいでねぇ。それも、玄関と車までの短い間さ」
ははは、と吉田さんが笑いながら話しだす。
「それに、普段の付き添いはヘルパーだけど、あの人たちにとっては作業の一つで、どこか事務的で、用が済んだらさっさと帰るもんだから寄り道なんてもっての外。でも今日は久しぶりに外食して、こうやって日に当たりながら風に吹かれて海もゆっくりと眺められて。デートみたいだなぁ。若い頃を思い出すよ」
わっはっはと大きな声で笑う吉田さんにつられて汐梨も笑顔がこぼれた。
「今日はいい日だ。みなちゃんに病院付き添って貰ったおかげで外に出られた。こんな事はもう無いだろうなぁ。一生の思い出だ」
そんなことを言われ、別に大したことでもないはずなのになぜか目に涙が溢れてきた汐梨は、吉田さんにそれを悟られまいとフェンスまで小走りし、溢れた涙が乾くまで景色の写真を撮るふりをして誤魔化した。
涙が乾いた頃、松本から着信が入る。
「吉田さん、迎えの車が来たみたいです。玄関に向かいましょう」
施設へ帰る車中は皆無口だった。長引いた受診で疲れたのだろう。〝病院から見えた海が綺麗だった〞と吉田さんが話したからか、帰り道は海沿いの道を走った。
波に揺れる海面は太陽の光に照らされてキラキラと光っている。
(あの水平線に夕陽が沈む時はどんな景色かな……)
車窓からぼんやりと海を眺めながら、水平線に夕陽が沈むシーンを想像していた汐梨はどことなく憂鬱な気持ちになった。胸の奥に何かが押し込まれるような重みを感じた。
(帰りたくない……。このまま時間が止まればいいのに。このまま全てが消えてしまえば……)
不意にそんなことを思ったことで気付いてしまった。
自分の本当の感情。
そう、辛いのだ。賢一との関係を続けることが辛い。自由を奪って弄び、耳元で独りよがりな愛を囁く彼を黙って受け入れ続ける自分が苦しい。汐梨の中で何かが壊れたようだった。
気持ちが沈んだまま車は施設に到着。
玄関に入った瞬間、冷たい空気を感じた。
出迎えの職員の中に紛れて賢一がこちらを見ているのが分かったが、病院での着信やLINEに一切返信をしていなかった為、賢一の反応が怖くて直視することができなかった。
一刻も早く賢一の視線から逃れたい‒‒‒‒。看護師が労いの言葉をかけてくれたが、視線も合わせず病院からの資料を手渡すと足早にその場から離れた。
ロッカールームで水分を摂りながら気持ちを落ち着かせる。これから自分に起こり得る事を想像してみたが、回避できる術が見つからず、ますます気分が落ち込んだ。
(いつまでもこうしてられない。仕事に戻らなきゃ)
終業まであと二時間もない。ここを乗り切ればなんとか無事に今日を終えることができる。そう自分を奮い立たせ、飲み物と貴重品をしまってロッカールームの扉を開けた。
廊下に出て顔を上げた瞬間、汐梨は心底驚いて息を飲んだ。
「‼」
目の前に賢一が立っていたのだ。
表情ですぐに分かった。非常に機嫌が悪い。
目を細めてこちらに数歩近づいてくる。
汐梨は心臓の鼓動が激しくなるのを感じた。怖い夢を見て目が覚めた時のような激しい動悸。
ポケットに両手を入れて、汐梨との距離を詰めてくる。そして徐々に汐梨を壁まで押し付けると低い声で言った。
「なんで返信しないの?既読も付かないし怪しいよね?本当に受診の付き添いだった?本当は松本さんと一緒だったんじゃないの?しーちゃん指名したの、松本さんだったんでしょ?松本さんとそういう関係なわけ?」
「そ、そんなこと、あ、ある訳ないじゃないですか。本当に付き添いで……ずっと病院にいて、い、色々初めてで忙しくしてたから……賢一さんからの連絡のことは忘れてしまっていて……」
「それを俺が信じると思う?今夜迎えにいくから駅で待ってて」
「今日は……疲れてるから……ちょっと無理、かな……」
「そんな言い訳通用しないから」
そう突っぱねると賢一は行ってしまった。
仕事が終わり、着替えを済ませてロッカールームを出る。気分は沈んでいた。
(今日は会いたくないな……)
あの時の賢一の様子だと、会ったところで何をされるか目に見えている。でも約束を守らなければもっと辛い目にあうだろう。
重い足取りで廊下を進むと、向こうから賢一がこちらへ歩いて来るのが分かった。すれ違いざま、賢一が汐梨に視線を向けたが汐梨は目を合わせなかった。
すかさず賢一からLINEが送られてくる。
〈今夜、分かってるよね?〉
読んだ瞬間、みぞおちの奥にずしりと重みを感じた。
十九時半、遅番を終えた賢一がそろそろ待ち合わせ場所に着く頃だ。
時計をぼんやりと見つめながら、このまま待ち合わせに行かないでしまおうかと何度も思った。でもやっぱり賢一が怖い。その後の恐ろしさを考えたら、今夜は賢一の言うことに従うのが賢明だという結論に達し、待ち合わせ場所に向かう。
左馬田駅に着くと間もなくして賢一の運転する車が汐梨の前で止まった。
「お待たせ。乗りなよ」
中から助手席のドアを開けた賢一は機嫌よくニコッと笑い、とても優しかった。でもその優しさが、汐梨にとっては逆にとても怖く感じたのだった。
機嫌を損ねないよう賢一に従う。
汐梨が乗るとすぐに車は走りだし、街中を抜けて郊外へ向かった。
「き、今日は、どうするの?」
「夜景でも観に行こうか」
「え……夜景?」
車は暗い山道を登り、夜景が一望できる高台に到着した。そこはほんの僅かの街灯と、いくつかのベンチがあるだけの閑散とした場所だった。
しかし明かりが少ない分、夜景がとても際立っていた。
遠くに広がる真っ暗な海には漁船の漁火が点々と輝き幻想的な光景。手前には港の灯りやライトアップされたポートタワーがまるで宝石のように輝いている。
二人は車を降りてベンチに座り、しばしこの夜景を眺めていた。ひとときの穏やかな時間。誰もいない静まり返った展望台に、虫の声だけが響いていた。
賢一がそっと汐梨を抱き寄せた。
そしてゆっくりと顔を近づけキスをする。初めは軽いキス。何度か唇を重ねた後、徐々に深いキスへと変わっていく。
汐梨は気が乗らないながらも賢一のキスを受け入れた。
濃厚なキスがしばらく続くと、賢一の唇は首筋へ、そして右手は汐梨の身体を撫ではじめる。
そっとボタンを外し、胸に触れる。
「んっ」
優しく撫でた後、肌をなぞるように背中に滑らせ、器用にブラジャーのホックを外した。
途端に賢一のキスと両手の動きが激しくなり、あわや汐梨の上半身が露出する。
「っ、ちょ……賢一さん⁉こんな所で……」
唇を塞いで言葉を遮った賢一は汐梨をベンチに押し倒し、スカートの裾を手繰り上げると汐梨の下半身に触れ始めた。
「んっ、待って!賢一さんっ、誰かに見られたら……」
「大丈夫、誰も来ないよ」
両手で賢一を押し退けようとする汐梨をものともせず、右手は汐梨の敏感な部分を刺激し始める。
「あぁっ、ん……こんなの、嫌……」
「本当に嫌がってるのかな?しーちゃんのココは求めてるみたいだよ?」
何も言えず、ただ必死に首をよこに振る汐梨の耳元で賢一が囁く。
「今日松本さんとどんなことしたの?俺以外の男で気持ち良くなるなんて、許さないから」
やっぱり。
どこか嫌な予感がした賢一の優しさ。その頭の中は汐梨を罰することでいっぱいだったのだ。
(恐い‼)
「施設長とは何も無い!本当!吉田さんの付き添いでずっと病院にいたの!」
必死に訴えたが全く聞き入れない賢一は、ますます強引に汐梨を奪おうとする。
「お願いっ、やめて!」
無我夢中で賢一から逃れようと抵抗した汐梨は、勢い余ってベンチから落下してしまった。この時両腕と右膝を強く打ち付け擦りむき出血していたが、あまりにも必死だったため痛みを感じる余裕すらなかった。
すぐさま立ち上がり逃げようとしたが、あっという間に追いつかれ芝生に押し倒されてしまった。
賢一は汐梨に覆いかぶさり、
「俺が上書きしてやるよ」
そう一言告げると怒りと欲望に任せ乱暴に汐梨を奪った。
汐梨は抵抗することをやめ、涙を流しながらただただ身を任せ、この時が過ぎるのを待つのであった。
行為の後の賢一はとても優しかった。
汐梨の乱れた衣服を整えてくれ、傷付いた体を気遣ってもくれた。
汐梨を部屋の玄関まで送り届け、別れ際にはきつく抱きしめそっとキスをした。
賢一が帰ると、汐梨はしばらくの間玄関に立ち尽くした。
虚ろな目。青白い顔。痛みも悲しみも感じていない。感情を失ったまま吸い込まれるように浴室へ向かいシャワーを浴びる。
吐き気が込み上げる。
身も心もボロボロだった。
次の日、手持ちの物では手当てできる道具がなく、制服の下に長袖のインナーを着て両腕の傷を隠した。
傷がヒリヒリする。それがまた昨夜の出来事を思い起こさせ汐梨の心をえぐった。
忘れかけては思い出し、忘れかけては思い出し。その繰り返しでどこか気持ちが安定しない。
昼食の介助をしていた際に入所者の一人が器をひっくり返し床に食べ物が散らばった。
大きな音がしてハッと我にかえり、目を向けると同僚が床に散乱した食事を掻き集めている。汐梨も雑巾を何枚か持って駆け寄った。
「大丈夫ですか?服は汚れてない?」
入所者に声をかけた後、汐梨も手に持った雑巾で床を拭こうと咄嗟に腕まくりをしてしまった。
「!ちょっと水無瀬さん、どうしたのその傷⁉」
汐梨の両腕の傷を見た同僚がギョッとして尋ねた。
慌てて腕を隠したが、当然手遅れだ。思わず嘘をつく。
「あ……昨日、ちょっと転んじゃって……」
「結構広いじゃない。ガーゼか何か充てないと傷に良くないよ?医務室に行って診てもらったら?」
「だ、大丈夫です!このくらい、何ともないですから」
「ダメよ。
同僚に呼ばれて看護師長の藤原が何事かと様子を見に来る。
「あらあら、大変ね。水無瀬さんがどうしたって?」
「昨日転んだって、両腕がすごいことになってるのよ」
「どれどれ……。あぁ。そうね。ちょっとこっちいらっしゃい」
藤原は汐梨を医務室へ連れて行き、椅子に座るよう促すと両腕の傷をまじまじと観察した。
その時、手首に痣があることに気付き、何となくだが、何かの勘が働いた。
「転んだんだって〜?足は大丈夫かしら?」
ズボンの裾を捲り上げると膝の擦り傷を確認。
「随分派手に転んだわね。他に怪我した所はない?頭とかぶつけなかった?」
そう言いながら自然な手つきで上から順にボディチェックをする。
最初は額。前髪をかき分けて怪我が無いか確認する。
「あら?おでこに傷があるわね。でもだいぶ古い傷ね」
「あ、そうです。小さい頃に犬に引っ掻かれたんです」
「そう……。子供の頃の傷なのにこのくらい残ってるってことは結構深い傷だったのね」
「すごい……。その通りです」
「病院には行かなかったのね」
「何でも分かっちゃうんですね。そうです。幼馴染の家で飼ってた犬だったので、本当のことを言ったら捨てられちゃうんじゃないかと思って。それで木の枝に引っかけたって言ったんです。病院に行ってお医者さんが見たらすぐバレちゃうと思って、病院には行かないって駄々をこねたんです」
「そう。優しいのね」
そう言いながら藤原の視線が顎、首へと移っていく。首には湿布が貼られていた。
「首、どうした?もしかして転んだ時に痛めたかな?」
「あの、これは……っ」
「ちょっと見せてね〜」
汐梨の言葉を待たずに湿布を剥がすと、そこには赤紫色の痣が隠されていた。
気まずそうに襟元で首筋を隠す汐梨。
「う〜ん。なるほどね」
藤原は痣のことには触れず首に新しい湿布を貼り、両腕と膝の傷の手当てをする。
「足と腕の傷は化膿止め塗ったからね。これ、一本あげるから、お風呂の後に塗りなさい」
そう言って軟膏を汐梨に渡す。
「酷くなるようなら早めに受診してちょうだい」
それから‒‒‒‒と続ける。
「傷が治るまでは入浴介助から外れること。少しの傷なら構わないけど、これほどじゃぁね……」
「私なら大丈夫です!入浴介助、入れます!こんなことで皆さんに迷惑かける訳にはいかないのでっ」
「いけません。もし傷が悪化したら、それこそ余計みんなに迷惑かけることになるのよ?これは師長命令です。松本さんには私から話しておくから、安心なさい」
「……はい……」
少し強い口調で言われ、俯き加減で医務室を出ていく汐梨の背中を見送り、
「さて、と」
藤原は何かを考え込むかのように腕組みをして目を閉じた。
藤原は医務室を出てスタッフステーションへ向かった。スタッフステーションでは松本が自分のデスクで事務作業をしていた。
コンコン、とカウンターをノックし、松本を呼ぶ。
「松本さん、ちょっといい?」
「あぁ、師長。どうした?」
周りに人がいないか見渡し、近くの椅子を引き寄せて松本のデスクに寄る。
「水無瀬さんのことで、ちょっと話が」
「水無瀬?」
「水無瀬さん、両腕怪我してるのよ。転んだって言って、かなり擦りむいてるの。他には膝も擦りむいてるんだけど、そんな訳だから、傷が良くなるまで入浴介助は外れるように言ったわ。いいわよね?」
「あぁ、そういう事なら構わないが……。そんなに酷いのか?」
「えぇ……。あとね、他にも気になることがあって」
「気になること?」
「傷を処置する時、手首に痣があるのを見つけたのよ。それで何となくだけどピンときちゃって。他にもあるんじゃないかって」
「あったのか?」
「えぇ。あの子、首に湿布を貼ってたんだけど、剥がしてみたらクッキリと」
「痣が?首にか?でもどうして」
「何かがきつく巻きついた、とか」
「巻きついたって?」
「これは私の推測だけど……。首を絞められたんじゃないかしら?手じゃなくて、痣の大きさからすると……そうね。布とか、ベルトとか」
「どういう事だ?」
「分からないわ。でも、あの子何かあるわよ。少し気をつけて見ててあげてくれる?」
「あぁ……わかった」
そうは言いながらも、この仕事をしていれば痣の一つや二つ作るくらい日常茶飯事のこと。松本は藤原の話をあまり真剣には受け止めていなかった。
しかしその日、休憩中にスタッフ達が汐梨の噂話をしているのが聞こえてきた。
「水無瀬さんの腕の傷、見た?すごかったわよ。両腕真っ赤になっちゃって。あれは相当痛いわよ」
「うっかり転んだ、とか言ってたかしら?どうすればあんなになるのよねぇ」
「自転車で転んだとか?」
「よっぽど派手に転んだのねきっと」
「そう言えば……昨日手首に痣があるの見ましたよ!確か、ぶつけたって言ってました」
そう言ったのは美樹だった。
「え〜?よく怪我する子ねぇ」
「あ、思い出した!その日、首に湿布貼ってて、寝違えた、とか言ってましたよ?」
「ホントなの?それ。大丈夫なの?水無瀬さん」
「傷だらけじゃないのねぇ」
「誰かに暴力振るわれてるとかじゃないわよね?」
「えぇ〜⁉誰かって誰よ」
「だからー、彼氏とか?」
「えっ、それって、DVってやつですか⁉」
「でも彼氏いるって聞いたことないわよ?」
「大人しい子だしね、そういうタイプじゃなさそうよね〜」
ひとしきり汐梨についてのあれやこれやを話した後、話題は別のものへと移っていった。
しかしこの時の会話が藤原が言っていた事と重なり、汐梨のことが気になりだすのだった。
休憩後、松本は作業している汐梨に声をかけた。
「水無瀬、師長から聞いたぞ。腕、大丈夫か?あんまり無理するなよ」
「はい。ご迷惑おかけしてすみません」
汐梨の首元を見ると、噂通り湿布が貼ってあった。
「首、どうした?」
「あ……寝違えました……」
「そうか。何かあったら言えよ」
「はい。ありがとうございます」
汐梨が入浴介助を外されて四日ほど経った頃、スタッフステーションでは事情を知らない社員が疑問を口にした。
「ねぇねぇ先輩、どうして水無瀬さん、入浴外れてるんですか?」
「あぁ、転んで怪我してるのよ。両腕かなり擦りむいてて。師長からストップかかってるの。まぁ確かに、高齢者って何かしら病気持ってるから、変な細菌に感染しても困るしね」
「あ〜、そうだったんですね」
「でもここだけの話、DVだって噂がたってんの!」
「えぇっDV⁉」
「シーーーッ。腕の怪我の他にも色々あるらしいのよ」
「色々って何ですか?」
「何かね、体のあちこちに痣があるって噂よ」
「痣ですか?」
「岸本さんが見たって。手首に痣があるの。首にも湿布貼ってて、本人は寝違えたって言ってるらしいけど、もしかしたらDVされて痛めたんじゃないかって」
「え……そうなんですか?」
「あくまでも噂よ?ここだけの話だからねっ」
ここだけの話、と言いながらも、この噂はほとんどのスタッフが耳にしている。だから周りに他のスタッフがいても配慮はされなかった。もちろんその〝周り〞には賢一もいたのだが……。
同僚たちが汐梨の噂話に花を咲かせている頃、当の本人は海岸に来ていた。受診の付き添いの帰りに通ったあの道路沿いにある海岸だ。
あの時に見たキラキラと光る海を見たくなったのだ。
しかしあいにく天気は曇り。海面が太陽の光に反射してキラキラと輝くことはなかった。
憂鬱な気持ちでただただ海を見つめながら波の音を聞く。少し離れた所で若者達がはしゃぐ声が聞こえてくる。時々ウミネコの鳴き声も混ざり、悲壮感が増していく。
目の奥が熱くなる。涙を堪え、鼻をすすった。その時‒‒‒‒
スマホが短く震えた。賢一からのLINEだった。
〈しーちゃんがDVされてるって噂立ってるけど、誰かに何か話した?〉
あぁ、さすが師長は察しが早い。あの時医務室で体の痣を見られたことが、もうDVに結び付いて広まってしまったのか。
でも、もう何も思うことは無かった。
スマホの画面を無表情で見つめ、返信せずに閉じる。そして視線を海に戻した。
すぐにスマホが鳴る。
〈既読ムシ?〉
〈今何してるの?〉
〈誰かと一緒なの?〉
〈俺以外の男と会ってるとか?〉
〈噂の件はどうなワケ?〉
立て続けにメッセージが送られてくる。
うんざりだった。そして汐梨はスマホの電源を切った。
賢一が怒っているのは分かっている。
賢一を無視したら後が怖いのも分かっている。
また辛い目に遭うだろうということも理解していた。
でももう疲れてしまった。
大きなため息をついて膝に顔をうずめる。涙が流れるのを堪えることができなかった。
しばらくの間、汐梨は声を押し殺して泣いた。
その日の夜は雨だった。
暗い部屋に街灯の明かりが差し込み、流れるような雨の影をただ瞳に映していた。
あれからずっとスマホの電源は切っている。
きっと賢一はあの後も何度もメッセージを送ってきてるだろう。電話をかけたかもしれない。でも電源を切っているからわからないし、メッセージを目にすることもない。
きっと賢一は怒り心頭だ。こんなことをしたら酷い仕打ちを受けるだろうことは容易に想像できた。
‒‒‒‒でも‒‒‒‒
もう終わりにしたい。
賢一に出会う前の普通の生活に戻りたい。
もう、今の仕事を辞めてどこかへ逃げてしまおうか。
そんなことを考えるようになっていた。
雨の音に混じり、アパートの階段を昇る足音が聞こえてきた。
同じ階の住人だろうか。
じっと足音を聞いていると、音はだんだん近くなってくる。
奥の部屋の住人かと思ったその時、足音は自分の部屋の前でぴたりと止まった。
ドクン
心臓が大きく脈を打ち、緊張が走った。
〈ピンポーン〉
呼び鈴が鳴り、汐梨は身体を強ばらせた。
微動だにせず外の様子を伺う汐梨。
(誰……?)
このまま静かにやり過ごしたら帰っていくだろうか。
少しの沈黙……。
外に聞こえてしまうのではないかと思うほど、心臓と呼吸が激しくなる。
(お願い!早く帰って……)
そう願っていると、ついにドアの向こうの人物が声をかけてきた。
「しーちゃん?いるんでしょ?」
やはり賢一だった。
「いるなら返事して?」
尚も話しかけてくる。
「スマホ、電源切ってるから全然連絡取れなくて。心配で来ちゃった。何かあった?いるなら声聞かせて?」
賢一の口調は優しく穏やかだった。ずっと無視し続けたにも関わらず、汐梨を責める言葉は一つも口にしない。
汐梨はしばらく黙って聞いていたが、段々、こんなに心配させておきながら居留守を続けるのが申し訳ない気持ちになり、玄関先まで行き、声をかけた。
「賢一さん……」
「しーちゃん!よかった、居たんだね。心配したんだよ。顔、見せてくれる?」
「ごめんなさい。私……」
「体の具合でも悪い?」
「ううん。でも、今日は、帰って欲しい……」
「しーちゃん……。俺、今日の事なら怒ってないよ?何か悩んでる事があるなら話聞くから、ここ、開けて?話をしよう?」
優しく諭すように声をかけられた汐梨は、関係を終わりにできるかもしれないという淡い期待を抱き、賢一に言われるままドアをそっと開けた。
少しだけ開いたドアの隙間から賢一の靴が見えた。ゆっくりと顔を上げると、少し悲しそうな、でもホッとしたような表情の賢一と目が合う。
「しーちゃん!」
賢一がドアを開いて強引に玄関へ入ると、汐梨の肩を強く掴んで引き寄せきつく抱きしめた。
「しーちゃん……」
賢一は汐梨を抱きしめたままそっと玄関の鍵を締めた。
「賢一……さん?」
賢一の胸に伏せられた顔を上げた汐梨は、賢一の顔を見てハッとした‒‒‒‒。
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