第四章 夕日に惹かれて
翌朝、ミーティングの時間が迫るスタッフステーションはざわついていた。出勤するはずの汐梨が時間になっても来ないのだ。
「おかしいわね、シフト勘違いしてるのかしら?」
「……電話、出ないですね。結構鳴らしたんですけど」
「こんなこと今まで無かったわ。体調悪くて休む時は必ず連絡くれてたし。もう一度掛けてみてくれる?」
「分かりました」
そうこうしている間に時間となり、松本と藤原がスタッフステーションに現れた。
「どうかしたのか?」
いつもと様子が違うと感じた松本がスタッフに尋ねる。
「水無瀬さんが……今日出勤のはずなんですけどまだ来てないんです。さっきから電話も何度も掛けてるけど全然出なくて」
「誰も何も聞いてないのか?」
「はい……」
「そうか。後で俺からも連絡してみる。まずはミーティング始めてくれ」
各部署からの申し送りが始まる中、藤原が松本の袖を引っ張る。
「まさか、自宅で倒れてる、なんてことないでしょうね」
「あぁ……。俺もそれは考えた。とにかく一度電話してみる」
ミーティング後、松本は汐梨に電話を掛けたが、いつまで経っても呼び出し音ばかりが聞こえ続けた。
スマホが鳴る。さっきからずっと鳴り続けている。これで何度目の着信だろう。
着信音が鳴り続ける中、汐梨はスマホなど見向きもせずただベッドに横たわっていた。その目はどこを見るでもない。焦点が合っているのかすら分からない。まるで死んだ魚のようにただ目を開けているだけだった。
顔には痛々しい傷と痣。唇は切れて流れ出た血液が固まっていた。簡単に掛けられたタオルケットから露出した四肢にもたくさんの傷や痣があり、その傍らにはベルトやスカーフ、ちぎられたガムテープが乱雑に置かれている。
しばらく鳴り続けた着信音が止み、部屋が静まり返る。
シーン、という音が逆にうるさく感じるほどの静寂の中で、ただ息をしているだけの抜け殻の瞳から静かに涙が流れた。
「どうだった?」
受話器を置く松本に藤原がすかさず尋ねた。
「だめだ。やっぱり出ないな」
「一体どうしちゃったのかしら……」
「……家に行ってみるか。もし倒れでもしてたら取り返しがつかないからな。悪いが、師長も一緒に来てくれないか?」
「分かったわ。すぐに準備する」
松本は現場が混乱しないよう、ごく一部のスタッフにだけ事情を説明し、藤原と共に汐梨の自宅へ向かった。
アパートに到着し、部屋番号を確認して松本がインターフォンを押す。 三十秒ほど待ったが応答がなく、もう一度押してみたがやはり応答はなかった。
「……居ないのか?」
「!ねぇ、水無瀬さんに電話かけてみて」
「あぁ」
松本が電話をかけると部屋の中から着信音が聞こえ、二人は顔を見合わせた。
「水無瀬さん?中にいるの?私、藤原よ。大丈夫なの?」
「水無瀬!無事なのか?いるなら返事しろ!」
二人がドアを叩きながら呼びかけるが一向に返答がなかった。
「管理人に連絡して鍵を開けてもらいましょう」
「そうだな。調べてみる」
二人がやり取りしていると、キィと小さな音がして扉が少しだけ開いた。
「あの……」
扉の隙間から、姿は見せずに声だけが聞こえてくる。
「水無瀬!無事なのか?」
「心配してたのよ?仕事にも来ないし連絡もつかないから、もしかして家で倒れてるんじゃないかって。何か……あったの?」
「すみません……。体調が良くなくて……。しばらく、お休みいただけませんか?」
「体調が良くないって……どこか具合が悪いの?」
「…………」
「水無瀬さん、様子を知りたいから、顔、見せてくれない?」
そう言われてしばらく黙り込んでいた汐梨だったが、ようやくドアガードを外し、再び少しだけ扉を開けた。
藤原が汐梨の姿を見ようと扉の隙間から中を覗き込む。目に映ったのは、ひどく傷付いた汐梨の姿だった。
思わず息を飲む藤原。その後ろから松本が覗き込むと、汐梨は咄嗟に傷を隠した。
「……中に、入ってもいい?少し話そうか」
こくんと頷き、汐梨は無言のまま部屋の奥へ戻って行った。
二人も後に続き、小さなテーブルを三人で囲んで座る。
少しの間沈黙が続いたが、藤原が口を開いた。
「……何があったの?」
「…………」
「出勤できなかったのは、その怪我が原因?」
汐梨は俯いたままおずおずと頷いた。
「誰かにやられたのか?」
松本の直球すぎる質問に、〝ちょっと!〞と言うような視線を送る藤原。
「傷、見せてもらってもいい?」
そう言って汐梨の顔をじっくりと観察するが、こめかみの裂傷や額と顎の痣、唇も切れて出血痕があるなど、あまりのむごさに眉をひそめた。
続いて羽織っていたカーディガンを少し脱がせると、肩や腕にも痣を確認。そして両手首の痣も目に付いた。
「ここの痣……この前よりも濃くなってる。新しいものよね?」
汐梨は俯いたまま。
「……誰かに、乱暴されたんじゃない?」
藤原のその言葉に、汐梨は口に手をあて、声を押し殺して肩を震わせた。
「今回だけじゃないでしょ?辛かったわね……」
藤原の両腕で優しく抱かれた汐梨はついに声を抑えきれず泣き出した。
しばらく藤原の腕の中で泣き続けた汐梨だったが、次第に落ち着きを取り戻すと松本が聞いた。
「‒‒‒‒で、相手は?付き合ってるヤツか?」
首を横に振る汐梨。
「知らない人、なの?」
またも首を横に振る。
「知り合いの人に乱暴されているってこと?」
汐梨はうなだれるように深く俯いた。
「警察に相談はしたのか?」
首を横に振る汐梨に「どうして」と語気を強める松本をなだめ、藤原が冷静に言った。
「DVはれっきとした犯罪よ。だから一度相談に行きましょう」
「警察はだめです!」
これまで口を開くことがなかった汐梨が突然強い口調で反論したことに驚きつつも、藤原はその理由を尋ねた。
「それはなぜなの?」
「それは……」
汐梨はそれ以上何も答えられなかった。
相手が賢一だと知られたくないのはもちろんだったが、例の画像を賢一が持っている以上、その画像をネタに報復されることが怖かった。自分が、これまで賢一とどんなことをしてきたのかを周囲に知られることを恐れていた。
汐梨が何も答えられず黙り込んでいると藤原が尋ねた。
「相手の人のこと、……好きなの?」
「好きじゃないです!本当はもう終わりにしたいんです!でも……でも……っ」
自分の意識がない間に撮られた裸の画像で脅されている、とはとても言えない。
「分かった、もういいわ。何か事情があるのよね……。嫌なことを聞いてしまってごめんなさいね」
そして松本に向き直り、
「とにかくこんな状態じゃ到底仕事には出て来られないわ。せめて顔の傷が目立たなくなるまで休んでもらいましょう。それでいいかしら?」
「あぁ、そうだな。現場には上手く言っておく。だから心配するな。何かあったらすぐ連絡しろ。俺達はもう事情を知ってしまったから隠し事はするな。いいな?」
「はい……ありがとうございます」
その後数日間休みを取り、ようやく傷や痣が化粧で隠せる程度に目立たなくなった汐梨は不安な気持ちを抱えながら出勤する。
休んでる間も何度か賢一から連絡があったが、傷が痛むなどと理由をつけて避けてきた。もし自宅に訪ねて来たらと、何かしらの言い訳を用意していたが、賢一が来ることはなかった。
ただ、勤務が重なった場合、職場にいる以上逃げも隠れもできない。
でもさすがに周りに人目があれば賢一は何もして来ないだろう。できるだけ一人にならないように気を付けなければならない。
極度の緊張の中、そんなことをあれこれ考えていると急に吐き気が込み上げてきた。
急いでトイレへ駆け込もうとした寸前、出勤してきた賢一と目が合う。激しく動揺した汐梨は咄嗟に目を逸らした。
その日は一日神経をすり減らした。できる限り一人にならないよう、人目の付かない所に行かないよう、賢一の視界に入らないよう……。こんな日々が続くのかと思うとうんざりもした。
この日の締め括りは居室のリネン交換だった。
この作業は各居室、一人で対応することになっている。しかし、寝たきりとはいえ室内には入所者がおり、一人ではないという安心感があった。
だが、このほんの僅かな油断を賢一が見逃すはずもなく、黙々と作業に取り組む汐梨の背後に音も無く忍び寄る‒‒‒‒。
その頃松本は、施設内の消耗品の補充をしながら設備に不備はないか巡回をしていた。
各居室前に設置されているアルコール、トイレットペーパーやハンドペーパーなど、減っている分を補充しながら蛍光灯が切れていないか、加湿器の水が切れていないかなどの確認をしている。
いつも十分な数を台車に積んで巡回するが、もう少しで手持ちの物が無くなりそうだ。一度備品庫に戻ろうかと考えていると、廊下の先の居室前に寝具や備品を積んだ台車が置かれているのが目に付き、分けてもらおうとそちらに足を向けた。
その居室から賢一が出て行くのを遠目に見たが、台車が置かれたままだった為、一応居室を覗いて声をかけた。
「悪い、ここにある備品、少し分けてもらってもいいか?」
静まり返っている部屋。
「誰もいないのか?」
中に入ると、入り口の奥の方で汐梨が怯えた様子で座り込んでいた。
「水無瀬!どうかしたのか?」
「い、いえっ。……なんでもないです……」
そう言ってごまかした汐梨だったが、顔は青ざめ、明らかに様子がおかしかった。
(そういえば……)
直前にこの部屋から賢一が出て行ったことを思い出した。
夕方になり、日勤の職員は次々と着替えを終えて帰路に就き始めた。汐梨も靴を履き替え、玄関を出ようとする。
「水無瀬!」
松本が呼び止めた。
「今日、体は痛まなかったか?もしアレなら、駅まで乗せてくぞ」
「あ……大丈夫ですっ。すっかり良くなりましたし。お疲れ様でした」
「そうか……気をつけてな」
そう言って一度は見送ったものの、やはり何か気がかりだった松本は、汐梨が利用する駅まで行き様子を伺うことにした。
少しすると汐梨が歩いて来るのが見えた。
駅の入り口へ向かって歩いている汐梨に、ロータリーに入って来た賢一の車が接近。汐梨の横に付けると、二人は何か話している様子だったが、汐梨はどこか嫌がっているようにも見えた。何かのやりとりをした後、汐梨は渋々と言った様子で賢一の車に乗り込み、二人の乗った車は去って行った。
汐梨と賢一‒‒‒‒二人は松本の知る限り、これまであまり接点を持たなかった。職場ですら二人が何かを話している所を見かけたことがない。そんな二人がなぜ、一緒の車に乗って行ってしまったのか……。
(あの二人には、何かあるのか……?)
翌日、松本の心配をよそに汐梨はいつも通り出勤してきた。特に変わった様子は見られない。
昨日賢一と何があったのか、聞き出したいところもあったがぐっと堪えた。しかし、昨日の二人のことが気がかりで仕事に集中できずにいた松本は、こういう時は体を動かすに限ると館内の巡回に出かけた。
浴場の前を通りかかった時、何日か前に洗い場の蛇口の調子が悪いと報告が上がっていたことを思い出した。
中を覗くと丁度入浴が終わって掃除を始めたところだった。
「お疲れ。洗い場の蛇口が調子悪いって聞いたけど、どれか分かるか?」
そう言いながら入って行くと、六人ほど作業していた中に汐梨もいたことに気付く。
半袖・短パンの入浴作業着から露出している四肢は、あの時見た状態と比べると驚くほどきれいになっていた。
一瞬安心した松本だったが、両腕に貼られた湿布が半袖から覗いているのを見逃さなかった。
汐梨には湿布で痣を隠す癖がある。
(もしかしてあの湿布の下には痣が?でも、一体……)
その瞬間、脳裏に昨日の出来事がまるで光の速度で駆け抜けた。
昨日、賢一が出て行った直後の居室で汐梨が怯えていたこと、汐梨が賢一の車に乗って行ったこと、その翌日に貼られた不自然な湿布。
(まさか、水無瀬に暴力を振るっていたのは……)
夕方、松本は汐梨が作業を終えるのを待って小会議室へと呼び出した。
「悪いな、呼び出したりして」
「いえ……あの、何か?」
「単刀直入に訊く。水無瀬、お前、遠野とどういう関係だ?」
「えっ‒‒‒‒」
「ただの同僚っていう間柄じゃぁないよな?」
「‒‒‒‒っ」
「二人きりで会ったりすることもあるんじゃないのか?」
「あの……そ、それは……」
「昨日、駅でお前が遠野の車に乗るのを見た」
「‼」
「それに昨日、遠野が出て行った直後の部屋でお前はひどく怯えていたよな?何かされたんじゃないのか?」
「なっ何もされてません!」
「なら何であんなに怯えていたんだ?」
「それはっ……」
「お前に暴力を振るった相手、遠野なんじゃないのか?」
「ちっ違います!遠野さんは何の関係もありませんっ」
「じゃぁこれは何だ?」
松本は汐梨の右手首を掴むと、腕に貼られている湿布を引き剥がした。
「痛っっ」
湿布の下には松本の指摘通り、鮮やかな赤紫色の痣が隠されていた。
「この痣はどう説明する?昨日、遠野に付けられた物なんじゃないのか?」
「…………」
汐梨は答えなかった。松本も、汐梨が答えてくれるのをじっと待ったが、沈黙が続くだけだった。
「もう一度だけ訊く。遠野にやられたんじゃないのか?」
「……違い、ます……」
〈それは嘘だ〉松本はそう確信している。だが、今はこれ以上問いただしても本当のことを話してはくれないだろう。
「……そうか、分かった。‒‒‒‒戻ろう」
松本がドアを開けて汐梨を先に出す。
「悪かったな、時間取らせて。帰りの電車時間大丈夫か?」
小会議室に鍵をかけながら松本が言った。
「えっと……走れば間に合うと思いま……す……」
汐梨が時計を確認しながらそう答えた時、丁度夜勤で出勤してきた賢一と目が合ってしまった。
「そうか?間に合わないようだったら送って行くぞ」
松本がそう言いながら振り向いた時、明らかに動揺している汐梨を見て咄嗟に二人の間に割って入り、
「おう。お疲れさん」
さりげなく手を挙げて汐梨を庇うようにその場から連れ出した。
その後ろ姿を、まるで嫉妬に満ちたような鋭い目つきで睨みつける賢一。ポケットからスマホを取り出すと何か文字を打ち始めた。
ロッカールームで着替えをしていた汐梨のスマホが震えた。LINEの通知に賢一の名前を見て心臓が締め付けられるのを感じた。
恐る恐る開く。
〈松本さんと密室で何してたの?明日またお仕置きだからね〉
その文章を見た途端、全身の力が抜けて手のひらからスマホが滑り落ち汐梨もその場に崩れるように座り込んだ。
絶望感しかなかった。呆然としながらこれからの日々のことを考えた。考えたところで、賢一に人形のように弄ばれる自分以外を想像することはできなかった。
気が付くと、汐梨はいつの間にか駅のホームに立っていた。
考え事をしていて記憶が飛んでいた自分に恐いほど驚いた。
時計を見ると、帰りの電車はあと数分で入ってくる。
ふと空を見上げると、夕日が空や雲を茜色に染めて、今日一日の命を精一杯燃やしているように思えた。
(きれい……)
不意に切なさを覚えたその時、
『間もなく二番線に青ケ浜行きの電車が到着いたします』
とアナウンスが流れ、十数秒もすると轟音と共に反対側のホームに電車が入ってきた。
空気が抜ける音をたててドアが開く。黙ってそれを見ていた汐梨だったが、ドアが閉まる寸前、衝動的にいつもとは違うその電車に飛び乗ってしまった。
心臓がドクドクと脈を打つ。
電車は街中を抜けると田園地帯を走り、やがて海岸線に出た。
車窓から水平線が見える。太陽はまだ高い位置にあった。
ハラハラしながら窓の向こうをずっと見ていた。
(お願い、まだ沈まないで)
電車が青ケ浜駅に到着すると、まばらな人混みをすり抜けるように一目散に改札を出て小走りで海を目指した。
海岸に到着すると、夕日は今まさに海に沈もうとしていた。
「間に合った……」
弾んだ息で一言そう呟くと、吸い込まれるような足取りで砂浜へ足を踏み入れる。靴に砂が入るのも構わず、波打ち際の少し手前まで来るとそのまま座り込んだ。
夕日は眩しかった。
真っ白で、でもその周りは黄色からオレンジへと変化していて、海に映った光は白熱灯に照らされているようだ。
みるみるうちに太陽が水平線に近くなる。
あぁ、地球は回っているんだと改めて実感させられた。
ついに太陽が水平線へと沈み始める。
太陽は黄色く光り、その周りを赤銅色に染め、海は青さを失って黒の中に朱色を織り交ぜて波と一緒にゆらゆら揺れていた。
汐梨はそれをただじっと見つめた。
何も考えることはなかった。
この時だけは心を空にして、ただただ、これまで毎日当たり前のように繰り返してきた宇宙の営みを目の当たりにしていた。
あとわずか、太陽のひとかけらが水平線に消えようとしていた時、突然汐梨の目から涙が流れた。
これまで空っぽだった心が感情を取り戻したのだ。
(もう十分だ。どうでもいい、どうなってもいい。何もかもを消し去りたい。逃げたい。解放されたい。消えたい……。この夕日と一緒に沈んでしまいたい——)
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