第二章 悪夢の始まり

 汐梨が賢一と知り合ったのは入社してすぐだった。新入社員の歓迎会と称し、若手とノリの良い社員が数名集まって汐梨や当時一緒に入社した人達を食事会に誘った。

 中堅の社員は割と真面目な人が多かったが、若手の連中はやんちゃ盛りで、新入社員と随分盛り上がっていた。人見知りな汐梨は一番端の席に座り、終始愛想笑いをしながら

(早く帰りたいな……)

 とばかり考えていた。

 ようやくお開きになり、挨拶を済ませてそそくさと駅に向かって歩いていると一台の車がゆっくりと横を通りかかり止まった。

「汐梨ちゃん」

「あ、えっと……遠野とおのさん、ですよね」

「賢一でいいよ。一人?」

「はい」

「そう‒‒‒‒」

 賢一は周囲を見回した。

「送ってくよ。乗って?」

「いえ、電車で帰るので、大丈夫です」

「遠慮しないで」

「いえいえ、本当に」

 どこまでも遠慮した汐梨だったが、賢一が車から降りてきて助手席のドアを開けた。

「さ、どうぞ」

「あの、でも……」

「いいから」

 少し強引に助手席に押し込み、ドアが閉められた。賢一は運転席に戻ってくると突然汐梨に覆いかぶさるように体を寄せた。

「‒‒‒‒‼」

 驚いた汐梨は目を瞑って体をこわばらせた。

 そんな様子を見た賢一は

「あ、ごめんね?シートベルト締めようと思って。びっくりさせちゃった?」

 と微笑む。

「い、いえっ。私こそ、お手を煩わせてしまって……」

「ふふっ。可愛いね」

 

 車は走り出し、気まずい沈黙が流れる。賢一は時々汐梨に何か話しかけるが、極度の人見知りな汐梨にはどうしても会話を続けることができなかった。

 しばらく暗い道を走っていくと、その先に自動販売機の明かりが見えてきた。

「何か飲もうか。飲みたい物ある?」

「あ、私は大丈夫です」

「そう?」

 賢一は車を降りて自動販売機へと向かう。小銭を出そうとしているのか、財布を覗いている。少しして温かい飲み物を二本持って戻ってきた。

「お待たせ。俺優柔不断でさ、何買おうか迷っちゃった。はい、汐梨ちゃん」

 キャップを開けてホットココアを汐梨に手渡した。

 人前で、特に男性がいる場で飲み食いする事にかなり抵抗があった汐梨だが、せっかくキャップを開けてくれたのに飲まないと悪いと思い少し口をつけてみせる。

「もっとグッと飲んじゃって!」

 賢一に焚き付けられ、緊張しながらもゴクゴクと飲み込む。


 時間も遅く車の通りもほとんどない静かな道を走りながら賢一が一方的に話しかける。

 汐梨はそれにポツポツと返答するだけで会話はどうも弾まない。そんな空気が気まずいな、と考えていると、急に頭がぼんやりとしてきて目を開けているのがしんどく思えてきた。その様子を賢一は見逃さず、

「汐梨ちゃん、大丈夫?」

 と声をかける。

「あ……ちょっと眠くなっただけです。気分が悪いとかではないので、大丈夫です」

「無理しないで、寝ちゃっていいからね。着いたら起こすから」

「いえ、頑張って起きてます」

 そう言いながらもしばらくは睡魔と戦っていた汐梨だが、いつの間にか眠りの中へと落ちてしまった。

 

 深い暗闇の中で誰かが汐梨の名前を呼ぶ。答えようとするが言葉にならない。何かを話しかけられているが頭が回らず、目を開けようとするが重い瞼はなかなか持ち上げることができなかった。

 誰かが自分の体を起こそうとしている。自分でも立とうとするが足に力が入らない。夢と現実の間で今一体どういう状況なのか理解できないまま意識は再び暗闇へと落ちていった‒‒‒‒。


 それは夢だったのか、冷たい感覚と体がねじれるような、誰かに体を揺すられているような、そんな記憶が砂嵐のような映像の中に断片的に映し出されては消えていった。

         

 閉じた瞼の中、明るさを感じて汐梨は目を覚ました。

 見慣れない天井、見慣れない部屋。瞬きをする度視界がぐるぐると回った。

(う……ここは、どこ?)

 重い体をなんとか起こすと、掛かっていた布団がずり落ちて裸の上半身が露わになった。

「‼」

 慌てて布団を手繰り寄せ、何も考えられないままただ呆然と辺りを見渡した。

 ピピピピピピッ

 突然背後で目覚ましのアラームが鳴り、振り向くと同時に何者かが音の出所であるスマホに腕を伸ばした。

 アラームを止めたのは‒‒‒‒。

「え……どうして……」

「おはよう、汐梨ちゃん」

 ドクンと激しく脈打つ心臓に呼吸が浅くなる。

 隣にいたのは裸の賢一だった。

「あの……私、どうして‒‒‒‒」

 どうして自分はここにいるのか、ここはどこなのか、あの後自分はどうなったのか、そして、どうしてお互い裸なのか‒‒‒‒。

 頭の中には確かにあるのに、口に出すことができず言葉に詰まる。

「あの後汐梨ちゃんすぐ寝ちゃったでしょ。途中で声かけたんだけど全然起きなくてさ、家も分かんないし、仕方ないから俺の部屋に連れて来たんだよね」

 涼しい顔で賢一はそう答えた。

「で、でも!どうして私達、は……はだか、なんですかっ?」

「どうしてって……」

 賢一はゆっくりと汐梨に近づき、右手で汐梨の後頭部をそっと撫でながら自分に引き寄せた。

「女の子に求められたら、断るワケいかないじゃん」

「えっ⁉」

「昨日の汐梨ちゃん、結構積極的だったよ」

「そっそんなの、覚えてないです!」

 昨日はお酒を飲んでいないから酔っていたはずはない。だから記憶が無くなるはずがない。なのに、車に乗っている途中からの記憶がほとんど無いのだ。

(昨日、車に乗せてもらって……そうだ、あの時自販機で買ってもらったココアを飲んだ辺りから急に眠くなって……。まさか……)

 ハッとした。もしかして、飲み物に何か入れられていたのではないか。

 そう考えた途端、とてつもない恐怖感が汐梨を襲った。

「ひ、ひどいです……。こんな事するなんてっ。レイプじゃないですか!」

「やだなぁ。レイプだなんて。求めてきたのは汐梨ちゃんだよ?記憶が無いなんて、言い訳になるのかな?」

「それは……っ」

 言い返せず口籠る汐梨に小気味良さそうな視線を送り『ふっ』と笑う賢一。そして耳元で囁いた。

「汐梨ちゃんって可愛くて結構モテるイメージだけど、案外初めてだったんだね」

 その瞬間、汐梨の心臓は大きくドクンと脈打ち、胸を大きなハンマーで叩きつけられたかのような衝撃を覚えた。

「ハァハァハァ……ッハッ‒‒‒‒」

 急に呼吸の仕方がわからなくなり苦しくなる。訳のわからない汗が吹き出してきた。

「わ……たしっ、か、帰りますっ」

 なんとか声を絞り出し、辺りに脱ぎ散らかされた衣服をかき集め服を着る。無造作に置かれたバッグを掴み取り、逃げるように部屋を飛び出した。

 アパートの階段を駆け降りて少し走ると大通りに出た。

 ここがどこか見当もつかず、上がった息を整えながら周囲を見渡していると運良くタクシーがこちらへ走ってくるのが見えた。汐梨は必死の思いで半ば道路にはみ出しながら手を上げてタクシーを止めた。

「すみませんっ、左馬田さまだ駅までお願いします!」

 タクシーが走り出すと少し気分が落ち着き、冷静さを取り戻すことができた。

「あの……、左馬田までは何分くらいですか?」

「そうだなぁ、今の時間はだいぶ道も空いてるから、十五分ってところかな?」

「そうですか……」

 車内の時計を見ると朝の六時を少し過ぎたところだ。急いで着替えを済ませれば仕事に向かう電車には十分間に合うだろう。そんなことをぼんやりと考えながら車に揺られる。

 早朝なだけあって道路にはほとんど車もなく、少し寂しい風景に感じた。

 左馬田駅でタクシーを降りる。汐梨の住むアパートは駅前のロータリーからワンブロック歩いたところにある。徒歩二分といったところだ。

 鍵を開けて部屋のドアを開けると、こもった空気が汐梨の体に纏わり付いてきた。

 後ろで淋しい音を立ててドアが閉まった瞬間、持っていたバッグが手から滑り落ち、靴を乱暴に脱いで真っ直ぐに脱衣場へ駆け込んだ。

 呼吸が荒くなる。脱ぎ捨てられる衣服。裏返しのまま床に散らかし、浴室に駆け込むと勢いよくシャワーを出した。

 ボディーソープを何度も手に出し狂ったように体中に塗りたくる。まるで自分自身丸ごと汚れてしまっているかのように、腕も首も上半身も顔も髪も……。

「うっうぅっ……っっ」

 唐突に感情が溢れ出し、溺れるくらいのシャワーを頭から被りながら、周りに声が漏れないよう腕を口に押し当てて声を押し殺すのだった。


 ショックを隠しきれないままどうにか出勤した汐梨は、心ここに在らずといった様子でぼんやりと着替えを済ませる。

 髪を結ぼうと腕を上げると、くっきりと痣の付いた手首が鏡に映りギョッとする。

 微かに頭の中をかすめる砂嵐の記憶と今朝の出来事……。手が震える。震えを鎮めるように右手で左の手首をグッと握った。

 呼吸が荒くなるのを必死に堪える。呼吸も震えている。静かに、ゆっくりと深く息を吸って吐くと、無理矢理気持ちを切り替えてロッカールームを出た。

 

 仕事に打ち込んでいる間は余計なことを考える余裕もなく、ひたすら無心になれた。入社したばかりで覚えることも多く、業務にだけ集中した。

「水無瀬さん、備品庫に行って補充分の備品持ってきてくれる?このリストに載ってるから。よろしくね」

「はい、わかりました」

 台車を押して備品庫へ向かう。中は何列も棚が並んでいて奥の方はあかりをつけても薄暗い。まだどこに何が置かれているのか把握しきれていない汐梨はリストを頼りに棚と棚の間を彷徨っていた。

「えっと……ペーパータオルは……あ、見つけた。それから‒‒‒‒」

 プラスチック手袋‒‒‒‒。それは奥の棚の一番上に積まれていた。汐梨にはとても届きそうもなく、踏み台を持ってきて一段上がる。

 汐梨が手を伸ばすと、背後から何者かの腕が伸びてきて汐梨の手首を握った。突然のことに驚いて振り向くと、それは賢一だった。

「汐梨ちゃん、こんな所にいたんだ?探したよ」

 賢一はもう片方の手首も掴み、そのまま汐梨を棚に押しつける。激しい恐怖心が蘇った汐梨は一瞬だけ気が遠くなり、膝から床に崩れ落ちてしまった。

「おっと」

 賢一が汐梨を支え、ゆっくりと床へ座らせる。そしてそっと抱きしめて耳元で言った。

「今朝のこと、誰かに話した?」

「…………え?」

「汐梨ちゃんのことだからペラペラ言いふらすことはしないと思うけど、でも一応忠告。プライベートなことは安易に他人に話さない方がいいよ?」 

「プライベートって……。だ、だって、あれは無抵抗な私を勝手に!」

「あ〜確かに無抵抗ではあったかな?」

「どういう、意味ですか?」

 ニヤリと笑って賢一はスマホを取り出すと、一枚の画像を汐梨に向けた。

「‼」

 それは、ベッドに裸で横たわっている汐梨の画像。しかし、両手に手錠をかけられ、首にはゴツい首輪。口枷もされているという、目を背けたくなるような自分の姿だった。

「嫌ッ」

 賢一のスマホを奪い取ろうと手を伸ばしたが軽々とかわされ、逆に腕を引かれて床に押さえつけられてしまった。

「あぁ、なんていい顔をするの?このまま汐梨ちゃんを襲っちゃいたいよ」

「や……やめて……」

 恐怖のあまり目から涙がこぼれた。

「安心して。かなりギリギリだけど俺だって自制がきくんだ。どうせなら後でゆっくりじっくり楽しみたいからね」

「遠野さんと楽しむことなんてありません!」

「分かってないなぁ。見たでしょ?さっきの画像。あれがある内は汐梨ちゃんは俺の言う事を聞くしかないんだよ?いいの?あの画像が俺以外の誰かの目に触れることになっても」

「ッ!絶対にやめてください‼」

「ね?困るでしょ?これで分かったよね?汐梨ちゃんは俺に服従するしかないんだよ」

「そんな……」

 声を押し殺して泣く汐梨に、賢一は冷たい視線を向けて静かに微笑んだ。

「じゃ、そういうことで、俺は仕事に戻るから。汐梨ちゃんも早く戻らないと怪しまれちゃうよ?」

 手袋の箱を床に下ろすと賢一は備品庫を出て行った。

 この出来事をきっかけに、汐梨と賢一の関係はこれまで続けられてきたのであった。しかしそれは決して甘い関係ではなく、乱暴に弄ばれ時には体に傷や痣が残ることも少なくなかった。

 何度か抵抗や拒否を試みたこともあったが、そんな時は決まって力でねじ伏せられ、いつもよりも辛い仕打ちを受けることを覚えた汐梨はいつしか心を閉ざし、賢一と行為に及んでいる間はひたすら無になるのであった。

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