第30話
お爺さんの口元が、僅かに緩む。
「……本当に、お前さんは鋭いのう」
その、しみじみと漏れ出た台詞。それはきっと、今までのような褒め言葉ではない。一種の『呆れ』のようなもの……でも、その呆れの中にも、複数の感情が織り混ざっているように感じる。それは果たして、どっちなのか。後悔なのか、それとも——。
「あなた、さっきこう言ったわよね。『過去を知ることは問題ない。知ったところで過去は過去。変えることはできない』って」
「ああ、その通りじゃ」
確かに、この範囲の知れた世界で知り得る過去なんて、知ったところで影響はほぼ無いでしょう。でも、一つだけ、私たちは見落としている。勿論、それはこのお爺さんは把握しているであろうこと。
「あなたは、嘘をついてるわ。それはあくまで『誰にも遭わなければ』の話。あなたが過去の人間と接触したら、話は変わる。そうでしょ?」
事実、私はさっきまで、自分の言動一つで未来が変わる状況にあった。いや、私だけじゃない。私が知り得ないだけで、ハルとトシの言動次第では、私の後の未来だって変わっていたかもしれない。
「お前さんの言う通りじゃ。しかし嘘は言ってないさ。あの時はそんな例外の話をしてはおらん」
「屁理屈言っちゃって。目的は親に逢うことなのに」
「ふふっ。それもあるが、この世界を旅しているのもまた事実。仮に儂が親父に逢えたとしても、その後に現実に戻る気はない。変わった世界を眺める勇気もないからのう」
そうか……もしこの事実を打ち明けて許されようとも、現実に少なからず影響は出るかもしれない。その影響が良い方に転んでも、悪い方に転んでも、それが分かるのは現実に戻った後。それならいっそ、目を背けてしまおうってことね——。
でも、そんなの、私は許せない。
何より、私はこのお爺さんを、意地でも現実に戻さないといけないんだから。
「あなたを心配する家族のことは、放っておくつもり?」
「先は元々長くない。それこそ、要らん心配じゃ——」
「いーや!」
私は、勢いよく立ち上がった。無意識にできた握り拳から蘇った感触が、私の背中を押す。
「申し訳ないけど……全然長くなくないから!あなたには、しっかり九十歳まで生きてもらわないと困るから!勿論、ゲンジツでね」
この一言が吉と出るか凶と出るか、それは一種の賭けだった。今目の前にいるお爺さんが、今の時点で何歳なのかは正直知らない。でも、その後悔を一番深く感じているとすれば、それはこの家を手放した前後のはず。そのタイミングなら、まだまだ『その時』までは決して短くない。それに……。
「ただ生きるだけじゃないわ。日誌に書かれていたルールは、一から六までじゃない。私が見た時には、間違いなく『零』があった。あなたには、現実に戻って、その生きた証を記してもらわなきゃいけない。でないと、私が戻った時には、きっと全てが変わってしまっている」
私が迂闊だったのは、あの日誌の一部を目にしておきながら、前半しかロクに読まずこっちに来たこと。それでも、だからこそ今ははっきりと思い出せる。あの違和感のあった『零』……あれは始めに書いたものじゃない。きっと、隙間に無理やり書き足した結果の、違和感だ。
流石のお爺さんもこれには驚いたようで、細く弱々しかった目をまん丸にして私を見つめる。私の言動に、そして表情に嘘が無いのか、それを見定めているよう。
「……お前さんの一本道とやらでは、そうなっておるのか」
「私だけの一本道じゃないわ。トシも、ハルも、そしてあなたもよ」
「ハッハッハ!そうかそうか」
お爺さんは、初めて見せる表情で大きく笑った。そして、徐に夜空を眺め、気持ちを落ち着かせるように鼻から大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。
「では、お前さんはこの儂に、この後悔を抱えたまま、贖罪も果たさぬまま、その余命と使命を全うするためだけに現実へ戻れと言うのか」
「…………」
なるほど……この世界に固執しているのは、そういう理由だったのね……。
「……あなたがこの世界に囚われることは贖罪にはならないわ。それに——」
言いかけた言葉が、喉の奥で引っかかってしまう。今までとは違う、言葉の重み。これを言ってしまえば、もう引き返せない。間違いなく、もう暫くは……。
「……あなたの後悔は——」
今年あの約束は、果たせなくなるかもしれない。それでも、やるしかないんだ。私がこの一本道を一本にする為に。
もう一度、背中を押して——
「あなたの後悔は、私が引き継ぐ」
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