第32話 妖精が生まれる瞬間
「私は妖精が生まれる瞬間を感じ取った」
いつもの公園のいつものベンチで、背筋を伸ばして姿勢正しく座っている御法川さんは、今日も暇そうにしている。
御法川さんがいきなり話を切り出してくることは、ゴブリンが妖精の一種と言われてもどうにも信じがたいのと同じぐらいに当たり前であるために、僕はいまさらつっこむことをしない。
「それは、また、スピリチュアルですね」
妖精。それは神話や民間伝承などに見られる、人と神の間の、霊的な存在のことである。一種のステレオタイプとして、美しい少年少女の見た目の小人で、トンボのように透けた羽根を持っていて、花や木の葉の服を仕立てて着込んでいる妖精は、創作の世界では引っぱりだこの存在でもあった。
そして、もちろんそれは科学的に証明されたものではない。
僕は半ば胡散臭いものを見るような目で、御法川さんの話の続きを待った。
御法川さんはそんな僕の目つきにもうろたえず、演説するかのような自信に満ちたいつもの口調で、
「妖精ってのは願いから生まれるものなんだ」
「はあ、願い、ですか」
「たとえば、ノッカーという妖精がいる。鉱山に現れ、鉱夫の間でまことしやかに囁かれるかの妖精は、「コンコン」というノック音で、金や銀の鉱脈を教え、落盤の警告もしてくれる良い奴なんだこれが」
まるで旧来の友人を紹介するかのようだった。
「確かに、そんな妖精がいたらいいなあ、とは考えてそうですね」
「だろう。別に妖精に限った話ではないが、基本的にその手の存在は、需要があって生まれるものなのさ」
日本でも、家の繁栄を願って、座敷童という住みついている間は幸運を約束する妖精のような存在の話はある。
御法川さんは話を続ける。
「他にも、チェンジリングという妖精もいる。聞いたことあるかい?」
「まあ、はい。取り替え子、ですよね。映画にもなった」
チェンジリングはヨーロッパの伝承で、自身の子どもへとすり替わった妖精の子ども、あるいは、取り替えられた子どものことを指す。
「取り替えられた子どもは妖精の国へと連れ去られ、代わりに残された妖精の子どもは二、三年で衰弱死してしまう。そういう話だね」
「……あまり、人の願いとは関係ない感じがしますが」
なんだか暗い話だった。
そこに誰の願いがあるのかと首をかしげ、僕はそう言った。
すると、御法川さんは神妙な顔をする。
「この伝承が生まれた背景には、乳児の死亡率の高さがあってね。大事な赤ちゃんとの別れが、当時の人々にはものすごく身近なことだったんだ」
「ああ」
日本にも、七歳までは神のうち、という言葉があった。
身も蓋もないことを言ってしまえば、七歳まではいつ死んでもおかしくない、という意味の言葉だ。江戸時代には二歳までに死んでしまう赤子の割合は二割もいたというのだから、七五三を無事に迎える親の気持ちも、今より痛切なものであったことが想像できる。
「子を失った親の嘆きは並ひと通りではない。そこで彼らは、死んだ我が子は妖精の国で今も生きて楽しく暮らしている、そう願ったというわけだね」
どこかしんみりとした口調で、御法川さんは言った。
それとは違うが「虹の橋」という、亡くなったペットが向かう楽園を謳った詩も存在する。それもまた、愛するペットが死後も幸せに過ごしていることを願った飼い主によって生まれたものと言われていた。
僕はしんみりした空気の中で、あらためて話を最初に戻した。
「それで、御法川さんが感じ取った妖精は、なんだったんですか」
そもそも、この話は御法川さんが「妖精が生まれる瞬間を感じ取った」と言ったことから始まっている。
ここまでくれば、さすがに言わんとしていることが、僕にもわかってきた。
果たして、御法川さんはいったいどのような「願い」を、その心のうちに思ったのだろうか。
うかがうような目つきで、僕は御法川さんを見た。
彼女は、言った。
「それがね、私の部屋が散らかってたんだよ」
急にしょうもない話の予感がしてきた。
「はあ、それで?」
一応、尋ねると、御法川さんはしきりに首をかしげ、
「いや、私はね、そこまで散らかしたつもりはないんだが、なぜかは知らないがいつのまにか部屋がめちゃくちゃになっているんだ。漫画や本が本棚から飛び出しているし、しわくちゃの服がベッドやらソファに投げ出されているし、くしゃくしゃに丸めた紙の束がそこらじゅうに散らばっているし」
「……」
僕はもう、言葉もなかった。
「そこで、私は部屋を見回して、『これは!』と思った」
「……何がですか?」
「妖精のせいなんだこれは。そう、妖精ってのはいたずらをする天邪鬼な存在でもあるからね。綺麗に整頓された部屋を見ると、散らかしちゃう、子どもみたいなやつなんだ。まったく困った奴らだよ彼らは」
そう言って、やれやれと首を振る御法川さん。僕は思わず口を挟んだ。
「御法川さん」
「なんだい?」
小首をかしげて僕を見る御法川さんに、僕は言った。
「妖精のせいにしてないで、部屋を片づけましょう」
「……はい」
実際に、ブラウニーという名の人の家事を手伝う妖精がいて、彼らは片付いている部屋を見ると逆に散らかしてしまうという話がある。
彼らもきっと、勝手に散らかったのを自分のせいにされていたのだろうな、と僕は思った。
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