第21話 過去話・御法川再び

「私は井の中の蛙だった」


 日も傾きかけたぼ夕方。


 ぼんやりと家近くの公園のベンチに座っていると、唐突な言葉をぶつけられた。


 視線を動かしてみれば、いつか見た女性が、わざわざ僕の隣へと腰を下ろしていた。


 姿勢正しく背筋を伸ばし、長い黒髪で前髪を几帳面なくらいにぱっつりと切りそろえたスーツ姿の女性である。


 御法川みのりかわ、と彼女は名乗っていた。


「……もう少し、前置きとかないんですか?」


 僕はつっこむが、御法川さんはどこ吹く風だった。


「申し訳ないが、これが私のスタイルさ」


 そう言って、無駄に優雅な仕草で長髪を後ろへと払う。


 僕は隠す気もなく、ため息をついた。


「……で、なんです? 井の中の蛙?」


 井の中の蛙、大海を知らず。


 荘子が語ったとされる、有名なことわざだ。


 たいていは勉学だとかスポーツだとかでお山の大将を気取っていた人物が、上京するなり世界に飛び出すなりして鼻っ柱を折られたときの文脈で出てくることが多い。


 その手の話は腐るほどあるし、あまり聞いていて愉快な話だとも思わない。


 だから僕は、一応尋ねてみはしたが、関心はさほどなかった。


 そんな冷めた態度を取る僕をよそに、御法川さんは相変わらず笑みを浮かべた表情だった。


「子どもの頃、私が住んでいた場所は、夏休みって感じの街でね」


「夏休み?」


「夏休みって聞くとなんとなくイメージする風景があるだろ?」


「えーと、海、とかですか?」


 自信なさげに答えると、御法川さんは首を振った。


「ほら、よく言うじゃないか。たとえば小学生の子どもは夏休みになると、おばあちゃんの家に帰省するとかで、普段過ごすコンクリートジャングルとは異なる町にやってくるわけだ。そこには、木々の生い茂った緑の匂いがいっぱいで、見渡す限り田んぼと畑が広がっていて、遠くには山の稜線が緩やかに描かれている。耳を澄ませば蝉だとか蛙だとかがそこかしこで鳴いていて、澄んだ水に太陽の光を反射してキラキラと輝く小川の水音が聞こえてくる。で、そんな風景に紛れるようにして、古くて大きなおばあちゃんの家が建っている。裏には小高い丘みたいな山があって、隙あらばカブトムシを探しに探険してみちゃったりして――夏休みっていうのはそんな光景だよ」


 長々と語る御法川さんの言葉を、僕は要約する。


「つまり、田舎町ってことですよね」


 御法川さんはにやりと笑って答えた。


「そうとも言う」 


 三文字で説明できることを、ずいぶんと叙景的に話す人だ、と僕は思った。


 御法川さんは当時の光景を思い出しているのか、どこか遠い目をして言う。


「私が住んでいたのはそんな田舎町でね。小さな町だった。だけど、当時の私にとっては確かにそこが世界のすべてだった。お気に入りの古本屋もあったしね」


 よくある話だと思う。


 実際僕も小学生の頃は、自転車で移動できる範囲が世界のすべてだった。


「で、田舎町から飛び出したら、大海の広さに鼻っ柱を折られたわけですか」


 半ば皮肉めいた調子で僕は言った。


 そのことに気付いているのかいないのか、御法川さんは大げさにがっくしと肩を落とす。


「そうなんだ……あれは私が大学進学を機に上京したときのことだった。高校生までは習い事で忙しくて、部活とかそういうものに憧れていた反動みたいなものがあってね。私はサークル活動に熱を上げていた」


 目の前のスーツを着た女性も、学生の頃があったのだ、という当たり前の事実をなぜだか意外に思う。


「で、急遽買い出しに行くことになって誰が行くかでじゃんけんをすることになったんだけどね」


「はあ、じゃんけん」


 いまいち、話の方向性がつかめなくなった。


 いまのところ、勉学もスポーツも飛び出してくる気配がない。井の中の蛙の話ではなかったのか、と僕は首をひねる。


「お前は元気だから、という理由で私が急遽音頭を取ることになって、集まったサークルメンバーに向かって大きな声でかけ声を出したわけだ。こうやって――」


 そこで、御法川さんは右手を握り込んで振り下ろした。


 そして、


「『ポリン、チョキン、パリン!』」


 謎の掛け声とともに、僕の前へとパーの形を突き出した。


 そのまま動きを止める御法川さん。


 僕は困惑顔で、


「ぽ……なんです?」


 尋ねると、御法川さんは自嘲気味にふっと笑う。


「あのときのみんなも、そんな顔をしていたよ。みんなぽかんとした顔を浮かべてね。私以外には誰も手を出そうとしていない。『なぜ手を出さないんだい?』と私が尋ねてみると、彼女たちは君と同じように言う。『その、ポリン……? っていうのは何?』」


 さらに尋ねる。


「で、なんなんです、それは」


「じゃんけんのかけ声だよ」


 彼女はさも当然かのように答えた。


「私のいた街では、これがスタンダードでね。『ポリンチョキンパリン』。パリンで手を出すんだ。慣れて来たら『ポ、チ、パ』とか縮めてみたりするのが通でね。てっきりどこでもそうだと思っていた。しかし、東京の大学メンバーたちはまるで奇怪な生き物でも目にしたかのように笑いだす。あぜんとしたよ。そこでようやく私は知ったんだ。じゃんけんてのは普通『最初はグーじゃんけんぽん』でやるんだってね」


 そこで再びふっと笑い、


「私は井の中の蛙だったわけだ」


 てっきり増長した鼻っ柱を優秀な人間に折られる話になると思っていた僕は、少しあっけに取られた。


 そして、大学のメンバーに笑われながら、出した手をさまよわせて『ポリン……ポリン……』と呟く目の前の女性の姿を幻視する。


 僕は思わず、吹き出してしまった。


 御法川さんはそれを咎めるように眉間にしわを寄せる。


「あ、笑ったね!? 君は人の無知を笑うような子だったんだね!?」


 詰め寄る御法川さんに、僕は手刀で謝る。


「あ、いや、すみません。ちょっと予想していた話と違ったもので」


 彼女のする話は、正直言ってくだらなくしょうもない小さな話だった。そのことが、なんだか僕を愉快な気持ちにさせる。


 御法川さんは、怒ったような笑っているような奇妙な表情で言い募る。


「『じゃんけんぽん派』は多数派だからって、少数派の気持ちをないがしろにするからよくないね。言っておくがね、じゃんけんぽんだって日本だけのローカルルールなんだからね? フランスじゃじゃんけんの手の数は井戸が乱入して四つだし、ミャンマーじゃ五つも――」

 

 大人なのに必死に弁解する姿が面白く、失礼ながら僕はまたも吹き出してしまう。


 ぺらぺらとうんちくを披露する御法川さんの声に耳を傾ける。


 笑ったのは久しぶりな気がする。そう思った。


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