第20話 這い這い
「赤ちゃんと漢字の取り合わせはひじょーに悪い」
いつもの公園のいつものベンチで、姿勢正しく座っている長い黒髪の御法川さんは、今日も暇そうにしている。
御法川さんがいきなり話を切り出してくることは、
「それは、赤ちゃんに漢字は読めないとかそういう話ですか?」
赤ん坊は漢字以前に文字自体読めないとは思うのだが、いまいち何の話か要領がつかめずそう尋ねる。
「違う違う」
御法川さんは小さく手を振った。そして彼女は「いやね」と話を続けた。
「私が読んでいた小説に、赤ちゃんの描写があったんだ。黒目が大きくてうるうるした瞳、興味深げに自分の手を見つめているときの表情、眠っているときにふと笑顔を見せたり、なんでもかんでもとりあえず口に入れようとしたりと書いてあってなかなかこれが可愛らしい描写だったんだが」
「だったんだが?」
「いざ赤ちゃんが成長して、自分で十全に手足を動かして移動できるようになるとだね、両手と両ひざをついて四つんばいになり、おなかを床につけずに前進する動作だ。つまり、これをなんて言うかわかるかい、君?」
御法川さんはやにわにポーチに手を突っこんで、メモ帳とペンを僕へと差し向けた。
書け、ということなのだろう。
僕は大人しくそれを受けとって、さっと四文字を書き記した。
『ハイハイ』
いったいこれは何の儀式なのだ、そう思いながら御法川さんの顔を見上げると、彼女は満足げな表情でうなずいていた。
「そう、『ハイハイ』だ。それが道理なんだ。しかし、その本ではこう書いてあった」
御法川さんはメモ帳とペンを取り戻すと、さっと四文字を書き記した。
『這い這い』
書道でも習っていたのか、それは整然とした綺麗な字であった。
そして、そのメモ書きが僕に見えるよう、御法川さんは印籠のように掲げる。
御法川さんは挑むような目つきで、僕を見る。
僕は、どういう態度を取るべきなのかで困ってしまう。
「いや、まあ、漢字で書いてはありますけど……同じことですよね?」
そう言うと、御法川さんはクワッと目を見開いて、
「ぜんぜん、ちっがーーう!」
その声に、公園にたむろしていた鳩が、びっくりしてバサバサと飛び立っていく。
耳元を手で押さえる僕をよそに、御法川さんは気炎を上げて言う。
「よく見比べてくれ! 受ける印象が全然違うだろ! はいはいやハイハイなら、赤ちゃんが愛らしく四つんばいで近寄る情景が思い浮かぶ。それはいい。けどね、這い這いと書いたらそれはもう、ホラー映画なんだ。階段の上から、あらぬ方向に折れ曲がった腕でブリッジした状態の降りて来る、血の涙を流したすんごく顔色の悪い女の霊の情景しか思い浮かばないだろ!?」
パーンッとメモ帳をベンチに叩きつける御法川さん。
御法川さんは、想像力が豊かだった。
「しか思い浮かばないってことはないと思いますけど……」
何となく、彼女が言わんとしていることはわかる。
這うという字は、這いずる、だとか、這いまわる、だとか、這い寄る、だとか。蛇や不快害虫やコズミックホラーに付随する言葉として使われがちだ。
漢字という表記自体も、画数が多く堅苦しいイメージがつきまとう。
そのイメージが、赤ちゃんの可愛らしいイメージにそぐわない、とかいつまんで言えばそういうことなのだと思う。
しかし、別に日本語としては間違ってはいないはずである。
「こういうのは個人の好き好きでやっていいんじゃないんですか」
僕の言葉に、御法川さんはぷいっと目をそらす。
「それはそうなんだが、私が気に入らない」
暴君御法川さんだった。
「赤ちゃんと漢字の取り合わせはひじょーにまずいんだ。ほら、考えてごらんよ。赤ちゃんに関する言葉ってひらがなが多いだろ? おしゃぶりだとかあんよだとか、まんまやよちよちとか」
「寝返りとかはどうなんです。吸啜反射とか」
「……」
御法川さんは何気なく発した僕の発言を黙殺する。
暴君御法川さんだった。
「赤ちゃんの名前を紹介するときだって、仮に名前が漢字で『隆之介』だったとしても、たいていはひらがなで『りゅうのすけくん(三か月)』ってテロップが出るだろ?」
「まあ、言われてみれば」
最近はテレビを見ないので、はっきりとは思い出せないが、確かにあまり赤ん坊の名前を漢字で紹介しているイメージは僕の中にない。
素直にそう言うと、御法川さんはそれ見たことかと言わんばかりの得意顔を浮かべた。
「だろう。みんなわかっているんだ。赤ちゃんはひらがなかカタカナなんだって。ゆえに『這い這い』は邪道なんだ」
きっとその小説かも漢字表記しただけで、見知らぬ地の見知らぬ女にここまで言われるとは思っていなかっただろうな、と僕は思う。
御法川さんは大仰に足を組みなおし、長い黒髪をファサッとかきあげ、経験豊富な先達のような口調でこう言った。
「君ももし、赤ちゃんの描写をするときには気をつけるといい」
そんなピンポイントな日が来るとは思わなかったが、僕は素直にうなずいた。
「はい、みのりかわさん」
「わかればよろしい」
うんうん、とうなずいた御法川さんは、ふと首をかしげた。
「ん? なんか今、ニュアンス違くなかったかい?」
僕は無言で首を振るのであった。
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