夢の中

ドアが開いて、ザラスはそちらを見る。古い木のドアを閉める背の高い背中が視界に映る。

「魔法をかけていましたか、部屋に」

  作りがしっかりした都のホテルの部屋や壁とは違う。この作りで声が少しも溢れてこないことは普通ならあり得ない。

 ドアを閉め向かってくるグラスバードが懐疑の目を向けた。

「私のように部屋を出ていくだとか、そういう気は遣えないのかい」

 ザラスは肩をすくめるそぶりをする。

「あいにく。貴方がクラムに何をするかわからなかったので」

 ところでクラムは?と続けられ、グラスバードは眉を寄せた。

「部屋で寝ているよ」

 あっさりと真実を答えるが、ザラスがそれみたことかと言わんばかりの視線を向けてくる。グラスバードはそちらを見ない。

「……なるほど、そういったことができるのですね。先に伝えておいていただければ、彼女の紅茶に眠剤を入れるようなことは…」

「は? 入れたのか」

「そんなわけないでしょう。冗談ですよ」

 焦らせてみただけだとわかり、お互いに嫌なものに対し息を吐く。

「あの子はどうも我々のような年上の男に好かれやすい気質がありそうですね」

 呟いたザラスの頭の中にはもう一人、大工に勧誘されている元傭兵のことも含まれて浮かんでいる。

  一緒にしないでくれないか、と言いながらグラスバードは部屋から出るドアの方に向かう。

「行かれるんですか」

  グラスバードはそれには返答しないが足を止めた。

「……目が覚めるのは明日の朝になるだろう。その程度の魔法をかけた。今日も朝しか食べていないし、お腹が空いてるだろうから、食事をやってくれ」

「それは言われなくても。……お一人で良いのですね」

 一応、協会の人間である自分として尋ねる。

「他に誰かいるのかい」

  孤独であるために孤独であった魔法使いは答える。

 ザラスにはクラムが彼を選択するかもしれない未来も見えてきている。

 窓が風でがたつき、ザラスはそちらに目を向ける。

「嵐が近づいてきています。雨雲の匂いもする」

  アーバンリキュガルの研究をし、協会の者として生きていれば、この香りには敏感になる。

「かなりの数になるでしょうね。想像以上です。この村にも入ってくるかもしれない」

「何もしなければ、危害は加わらない。人々にだけ、日の沈みと同様に瞼が落ちる魔法でもかけておこう」

 ザラスは訝しげに眉を動かした。

「……私はあまり魔法使いの仕組みについて存じてはいないのですが、そんなに力を使って大丈夫なのですか」

「何だい、心配でもしてるのかい」

 ザラスはこのからかいには乗らなかった。グラスバードはため息をつく。

「……私の師匠が死んだのは、大奇襲のときだった」

 ザラスが片眉を上げる。グラスバードは窓の方を見ているが、嘘ではないのはわかる。

「……私の弟子に死に様なんて見せたら、許しませんよ」

 グラスバードはその言葉には笑った。次会うときは、私の弟子かもしれないじゃないか。そう残して、部屋から出て行った。


 クラムは夢の中にいた。自覚はあるが、微睡のような感覚で、ゆっくりといつか見た草原の中に立っていた。風が広く続く大地の緑の、柔らかな絨毯を波うたせている。

 感覚を感じないふかふかとした地面を歩いていると、遠くにいつかと同じように手を振る人影が見えた。クラムはそちらに近づいていく。いつかの時とは違い、足取りは重くならず、歩いていくことができた。

 誰か、は少年だった。純粋に光る目をしている。こんにちは、と挨拶され、こんにちはと返す。

「いたから手を振ったけれど、どうしてこんなところにいるの?」

「……ちょっと、色々あって。ここはどこなの?」

「夢の中だよ。あるいは、もう一つの世界だ」

  ほら、と少年が指をさす。空の方に向かうそれをなぞるように見上げると、夕焼けが始まる前の様な、淡い色々のマーブルな模様が、オーロラのように空にゆったりと流れている。何とも幻想的で美しい。

 最初は、先生に落とされた夢だから、先生の見せるものかと思ったけれど、違うみたいだ。

 クラムと少年は、草原の上に並んで座った。クラムはそばにあった猫じゃらしの穂先を指でいじる。

「この夢、魔法みたいだね」

 呟きに少年は膝を抱える。

「そうかな。魔法が使えるのは、魔法使いだけだから、わからないけど、もしかしたら、最初にこの場所を生み出した人は、魔法使いだったかもね。魔法使いに知り合いがいるの?」

「うん、私の……」

  そこでクラムは黙った。私の、何だろう。

「先生、って、呼んではいる」

 迷いながら答えると、少年はそっか、とクラムを覗き込む様にして笑う。

「大事な人?」

  クラムはその問いには反応できなかった。

「魔法使いなら、賢人だね、そっか」

  少年はクラムの様子には気を止めていない様に話を続けながら目を細めた。

「その人、食べられちゃうかな」

  言葉に驚いて、クラムは少年を見る。

「食べられちゃうって、アーバンリキュガルに?」

「ああ、うん。そう呼んでるんだったね」

  クラムは草原と空の境へ目を向ける。

「……食べられないよ。とっても強い人だから」

 クラムの瞼の裏に、あの熱く美しい炎が写る。グラスバードに言ったことはないけれど、クラムはあの火がとても好きだ。

「そっか、なら、たくさん燃えるんだろうな」

  言葉の響きに違和感を覚えて、少年の横顔を見た。風と草を見る目は揺らいでいる。

「悲しいの?」

  少年は頷く。

「アーバンリキュガルは、悪いものだよ」

  少年は首を横に振り、寂しく笑う瞳のまま、クラムを見た。

「……ぼくは、君たちがアーバンリキュガルと呼ぶものだよ」

  風が、まるで現実の様に吹いた。髪が激しく揺れる。クラムには、言葉の意味がわからない。

「キミが、アーバンリキュガルなの?」

「……正確には、だったんだけどね」

 呟く少年の声に、嘘をついているわけではないのはわかる。けれど、クラムにはまだうまく飲み込めない。

「どうして……」

  疑問の言葉を言いかけたけれど、それ以上、繋ぐことができなくて止まってしまう。

 少年はクラムの意を汲んだ様に、少しずつ話し出した。

「アーバンリキュガルは、この、賢人しか夢として見ることのできない世界に来たいんだ。それだけなんだよ。それだけが、救われ、幸福になる方法だから。

 僕たちはただの世界に澱む闇だったけれど、僕たちにあるとき、光が差して、そしてわかってしまったんだ。ここに来れば、救われること。

 でもそうして、この場所に来るためには、喰らうしかないことも、わかってしまった。この夢を生み出す体を喰らうしか、方法がないんだ」

  だから、仕方ないんだよ。少年はそう言った。喰らうことでしか幸せになれないものたち。それでも、許容することはできないこと。

 クラムの髪はまだ風に揺れている。足元の豊かに生きる草を見ていた。

「……キミは、今、幸せ?」

 クラムが問うと、少年は悲しそうに笑う。

「幸せだよ、とても。ここには誰もいないけど、もっと先に行くと、友達もたくさんいるんだ」

  少年は草原の果てを見る。クラムは目を閉じた。

「ここは、お気に入りの場所で、よく来るんだ。こんなに長くここにいられた人はいない。キミの眠りは、何か、特別なのかな」

「……先生に、魔法をかけられたんだよ。だからきっと、長く眠ってる」

「どうして魔法をかけられたの?」

  クラムは壁に行き当たったように感じた。なぜ眠らされたのか。先生が外へ出ていく時間を稼ぐため?

「……わからない」

 何より、この世界では頭がうまく働かない。ぼうっとしているようで、一番楽な状態でもあるような、不思議な感覚だ。それでも紡げる言葉を口にする。

「私は、アーバンリキュガルを、許容できない」

「……うん、そうだね」

 でも、ここへ来ることが望みだというのなら。

「少し、考えてみるよ。戻ったら。喰らわなくても、ここに来れる方法を」

  少年が少し目を開いて、嬉しそうに笑う。

「ありがとう。賢人に至るお姉さん」

  呼び方に驚いて今度はクラムが目を開くと、少年は笑う。

「わかるよ。アーバンリキュガルだもん。キミは賢人の卵だ。一体どんな賢人になるんだろう。何にしても、キミが世界から失われるのは、僕も惜しいよ。だから」

  生き抜いてね。あの世界で。

 クラムは少年を見ると、しっかりと頷いた。それと同時に、ふっと足元が重くなる。少年が手を振る。バイバイ、と口が動く。

 そうか、これは現実の重さなんだ。

 わかったときには、夢は閉じていた。


      *


 瞼を開けると、暗い天井が広がっている。何度か瞬きをして、自分がどこにいるのかを思い出した。体を起こし、部屋の中を見る。蝋燭の火はもう全て消えている。

 カーテンから微かに覗く外の世界の方が、月の光で少し明るく見えるくらいだ。一体どのくらい寝ていたのか。クラムは頭に手を当てた。夢のことも、少年のことも、はっきりと覚えている。

 足を床につけ部屋を出ると、隣の部屋の電気はついていた。誰もいないか、と思ったが、ドアを閉めると、その音に気づいたようにキッチンから先生が現れた。少し驚いたような表情をしている。

「……もう起きたんですか」

 もうって……と部屋の時計を見る。時刻は夜の十時を示している。

「すごく寝てましたね」

  目をこすりながら言うと、お腹が鳴る。そういえばご飯を朝以降食べていない。気づくと余計にお腹が空いた。その様子に先生が少し笑う。

「何か作りましょう。朝しか食べていないと聞きましたし。久しぶりに」

  そう言いながらキッチンの方へ戻っていく。協会にいた頃は、ほとんどがみんなが集まる食堂での食事だったけれど、ときたま先生に稽古をつけてもらって遅くなった日などは、先生自ら夜食を作ってくれたりしたのだ。

 覚えていてくれるんだな、と。クラムはそのことが嬉しく、懐かしかった。

 先生が作ってくれたのはミルク粥だった。お腹の空いている時に重たすぎるものは調子が悪くなるから、と体のことを考えて。でもそこにたっぷりとチーズを乗せてくれる。

(ああ、私の好きなものだ)

 そう見つめるクラムに、「今でも好きですか?」とザラスは尋ねる。クラムはしっかりと頷いた。

 昼間は三人が座っていたテーブルで食事になる。湯気の立つ、クタクタに煮込まれたミルク粥は、銀の匙で掬うとチーズが伸びて、途切れないので口に入れてしまってから噛み切る。もぐもぐと食べていると、ザラスがそれを見て笑う。

「こういったときの表情だけは、変わりませんね、人というのは」

  クラムはザラスの方を見る。ちょうどザラスも食べ始めてしまって、表情は見れなかった。

  よほどお腹が空いていたのか、しばらく無言で食べ進めて、お皿の三分の二ほど食べ進めたとき、ようやくと満たされてきたお腹でクラムはスプーンの動きを緩めた。

 一口分の白く雪のような粥を掬い、口を開く。

「眠っている間、夢を見ていました。あの夢を」

 先生が顔を上げるのが見ていなくてもわかって、続ける。

「そこで少年と話していました」

「……あの夢…賢人の見る夢ですか」

  草原の、と念を押され、頷く。

「あの少年ですね。どんなことを話したのです?」

 アーバンリキュガルの研究者としての血が疼くのだろう、そういう雰囲気の踏み込み方で、クラムはこの面の先生に触れることは珍しく、少し微笑みながら、思い出話をするように話す。

「あの少年は、アーバンリキュガルだそうです」

  あまりにも穏やかな口調で、クラムはそれを告げた。まだ少し寝ぼけている部分があるのかもしれない。ザラスは何も言わない。絶句しているからだが、それもわかって、クラムは続ける。

「アーバンリキュガルは、賢人たちの見るあの夢の『世界』に行きたいのだそうです。そのためには、賢人を喰らうしかないのだと」

 その後は淡々と、少年の語った内容を伝えていた。先生はただ黙って聞いていた。夢は夢で、真実ではないかもしれない。信じていないわけではなく、クラムにもそれが真実だと言える確証がないのだ。それでも、話したいから、という理由だけで話した。子供のようだな、と思いながら。けれど「先生が何故眠らせたのか」という話を思い出したとき、語りは止まった。

「先生は、……グラスバードさんから、どこまで事情を聞いているのですか」

  その仮名を、使うために呼ぶのは初めてだった。慣れなくて口がもつれそうになる。先生は少し思考する間を空けてから答えた。

「キミがここで、私と都へ帰るか、彼の元へ行くかを決断することになる、ということぐらいまででしょうか」

  そう言ってまた粥を口に進める。クラムもその言葉を頭に置いたまま食べ進める。

 風で、閉められている窓の木戸がガタガタと鳴る。そういえば嵐が来そうだったのを思い出す。きっちりと閉められた木戸とカーテンで、外の様子はわからない。

「嵐、酷くならないといいですね」

「……そうですね」

  答えながら、先生も窓の方を見るそぶりをした。横顔に映る目は、私の夢の話のために、この世界を見ることに酷く不確かな揺らぎを持ったように見えた。

 食べ終えた皿を流しに持って行き洗っていると、ぼうっとしていて、先生がキッチンの入り口に立ってこちらを見ているのに気づかなかった。気配を消すのは一等うまい人だから、尚更。タオルで手を拭きながら気づいてビクッとしてしまうと、先生は微かに笑った。そうしてさらりと言う。

「この食事にこそ、眠剤を入れるか迷いましたよ」

  先生の言葉に驚いていると。目を閉じた先生からやわらかな笑顔は消えて、金の目がクラムを見た。

「大事な話をしましょう、おいで」

  そうして先生が背を向けたそのときだった。

 恐ろしいほどの寒気がクラムを襲った、瞬間、遠くから、尋常ではないほどのアーバンリキュガルたちの鳴き声が轟く。

 一瞬体がすくみ、けれど協会の子としての本能から、走り出そうとした。しかし、先生が狭い入り口の柱に手をかけて塞ぐ。見かけより筋肉があり力強い腕に外せないとわかる。クラムは意味がわからない。

「先生、アーバンリキュガルです」

  思わず訴えるように口にした。まだ遠いが、この量では村にも入り込んでしまうかもしれない。けれど先生はクラムを真っ直ぐに見つめたままだ。その様子で、だんだん頭が冷静になる。

  先生はわかっているのだ。わかっていてここにいる。先生はまるで戦闘の指導をしているときのような、ハッキリとした声で言った。

「クラム。今キミが選べるのは二つです。私の話を聞くか、今ここで気絶させられるか」

  選んでください、と。クラムが選ぶのなんて一つに決まっているのに。もしくは、その選択をさせるためにこんな状況に持ち込んだのではないか、とすら思えるものだった。

 異様な気配を感じたまま、テーブルの席に着くのは難しいことだった。神妙な表情のまま、クラムはさきほどまで座っていた席に着いた。先生も同じだ。

 じっとしているのも難しいほど、アーバンリキュガルたちの気配は濃い。クラムは正した姿勢で、膝の上でギュッと両手を握り込んだまま、先生へ視線を向けた。先生は手を組んでテーブルに置いた。たまらずクラムは言う。

「先生、行かせてください。私の役目はあの人を守ることです。それに先生も賢人なのだから、ここにもアーバンリキュガルが来ます」

 訴えるように言ったが、ザラスの反応は冷静だった。

「今宵のアーバンリキュガルは、すべてグラスバードが焼き払います。キミの生み出したものも含めて」

  クラムは顔を歪めた。それができる力があるのは、もちろんわかる。けれど……協会の人間として育ったクラムに、そんなことは許容できない。

「私は先生を守ります。それが役目です」

  聞き分けのない子供のようだと、自分でもわかってはいた。それでも、抑えきれないほど、何かを恐れている自分がいる。しかし、ザラスの言葉は残酷なものだった。

「いや、もうそれはキミの役目ではありません」

  クラムは息を止める。ザラスは目を閉じて、ゆっくりと開いた。

「命令する。クラミスト・ダウンターナー。灯台守、グラスバード守護の命を解く。私と都に帰還せよ。これは、協会直下の命令となる」

 クラムの瞳が、今までになく大きく揺れた。

 協会直下の命令の強さは知っている。通常、協会は子供たちを最低限の規則以外では縛らない。より良い成長のために尽くす誓いを立てているからだ。それでも許容できない物事において、これは発動される。例えば今回なら……

「私の身が、危険だからですか」

  ザラスは目を細める。その通りなのだろう。

「キミには、未来があります。それも、人々に光を与えられるような未来です。キミはさっき、私がキミの話を聞きながら、信じてはいないだろうと思っていたかもしれないですが。信じていますよ。あの夢に、私がどれだけもう一度入りたかったか知れない。

 キミには未来があります。私のもとでなら、その研究は続けていける。私のもとに戻ってきて欲しい。協会の命令でもなく、私の本心として」

  先生の目はずっと、真剣にクラムを捉えていた。ずっと焦がれていた金の瞳のはずだった。けれど……クラムは目を閉じる。

「……私は、一年前、貴方に失恋した時に、心が決めてしまったことがあります。これから生きていく中で、誰のことも心の糧にしないことです」

 手を強く握りしめる。誰かの手を握っているように。

「誰かのために生きることは、その人を糧にしてしまう。それでは、その人を失ったときに、本当に、身動きがとれなくなってしまうから。だから、心がそれをやめてしまいました」

  でも、と続ける。外からの気配による震えも相まる。それでも力強く。

「でもやっぱり無理でした。それが私の気質なので。やっぱり私は誰かを大事にしてしまうし、そしてそれでいいんです。私もそれがいい」

 子供のわがままのように言い切って、それがいちばんの自然体で、自然体こそが、一番、誰のせいにもしない生き方なんだとわかったから。

「そうなったとき、例えば誰かのそばを選ぶことになるのなら、私……、私じゃないとダメな人がいいです。じゃないと、きっと安心できないから」

 クラムは困ったように笑った。

「安心できるっていうのはすごいことなんですね。あの人と過ごしていて、それがわかりました」

 グラスバードとの日々を思い出す。海と緑と、暮らしの日々。私はそれが好きで、心が自由で、幸福だった。あの人は、知らないだろうけれど。

「先生にまた会えてよかった。はっきりわかりました。私はあなたを過ぎて、あの人のところに行きます」

 クラムの目は、まっすぐに一人で輝いていて、ザラスはまぶしいかのように目を閉じる。

「……恋とは、憧れです」

  ザラスが呟いて目を開ける。微笑みを湛えて。

「私は少なくとも、そう思っています。キミはずっと恋をしてくれていましたが、その想いで一緒に生きていくことは難しいのも、わかっていました」

  先生は机に手をついて立ち上がると、部屋の棚を開け何かを取り出す。手にされた見覚えのある色の布に思わず立ち上がる。

「夕方ごろ、魔女の末裔の女性が届けにきましたよ。クラムに渡してくれ、渡さなかったら一生この村には来れない呪いをかけるとね」

  恐ろしいものです、と言いながら、先生は手を伸ばし、クラムはそれを受け取る。裂かれていた腕の部分はしっかりと閉じ、美しい刺繍が施されている。

「かなりの腕をしていますね、彼女は。魔法のことはよく知るわけではなくても、悪魔と戦う者としてこれのことは知っていますよ」

  先生は本当には触れることなく、布地をなぞるように手を動かす。

「古い時代の、とても強いまじないだと伝承に残っています。協会がアーバンリキュガルと戦う方法を確立したとき、参考にした文献に、戦う者たちがこれと同じものを着ているのが描かれています」

  現物を見れるとは思っていませんでしたと穏やかな声で。

「行くのなら、条件が二つあります。一つ目は、件のアーバンリキュガルと出会っても、今日は絶対に戦わないこと。グラスバードが焼くのを待つのです」

 クラムはゆっくりだが頷いた。それを見てザラスは続ける。

「それから、これを着て行くことです。それが条件の二つ目です。きっと貴女を灯台まで守ってくれる」

  クラムは先生を見た。先のクラムの告げた望みは、協会直下の命令を聞かないということだ。それが何を意味するかはわかっている。ザラスも頷いた。

「キミは今日で、協会の子ではなくなります」

 クラムの目は揺れる。それでも、とザラスは続ける。

「私はキミの幸せを願っていますよ」

 それがザラスの全てだ。

 クラムは思わず、服を手にしたまま抱きついた。ザラスは驚きながらも背に手を添えて返してくれる。

(こんなにもキミの心は自由になったのですね)

 かつて交差点で出会った、動けなくなっていた少女の姿がザラスの目の裏に浮かぶ。

 誰が、何が、彼女をここまで自由にしたか。きっと理由は一つではない。たくさんの瞬間が、彼女の心に溜まっていった。

 クラムは抱きしめながら思う。

 ありがとう、私を救ってくれた人。一生忘れることのない、大好きな人だ。

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