新たな地平へ
少し冷たい夜の嵐の潮風が髪を靡かせる。雨水は彼には当たらない。
グラスバードは灯台の上にいた。杖を持ち、迫ってくるたくさんのアーバンリキュガルを眺めていた。
こんな光景を見たことがある。そう、黒い海を前に思っていた。二回目の、師匠がいなくなったときではない。ならば、ここへ初めてきたあの夜の記憶か。まだ少年だったあの夜、大奇襲の時の記憶は曖昧だ。
グラスバードは歩み、灯台の中心へ行く。台を開け、火を汲み、一等強い火を灯した。台を閉じ、回し始める。光はどんどん強くなり、遠くまで届いていく。
グラスバードの記憶の中で、何かが揺らいだ。何故やり方を知っているんだろう、あの日何を見たんだろう。朧げないくつもの赤い光。美しいと感じたかつての心。あの日、何があったんだろう。
思いながら、杖を持っている手を海に向かって振りかざす。遠隔の魔法は魔力も体力も削る。正直なところ、自分がどれ程もつかはわからないところだった。老体には大きい負荷だっただろうなと、最後に会った師匠の姿を思い出した。
アーバンリキュガルの大群が、音もなく燃えていく。まるで美しい蝋燭のように。その瞬間、グラスバードの記憶の鍵は開いた。
クラムが外に出ると、世界は嵐に覆われていた。雨風が吹き荒れ、木々は大きく揺れる。さらに光景は、想像を絶するものだった。
アーバンリキュガルは村にも来ていた、村の至る所に。ただこの嵐の中で、煌々とその体だけが燃えているのだ。先生の火は、アーバンリキュガルだけを焼く。それがいくつもあり、村を照らしている。
止まっているものもあれば、動いているものもあるが、ゆっくりとして、何かを壊せるような勢いは持っていなかった。クラムは道を駆け抜けた。村を出て、草原まできて、さらにその数の多さに慄く。幾千の炎に覆い尽くされる草原。クラムはその中も駆けていく。速さに追いつくものはいない。
先生の偉大さを感じながら、片隅に少年の顔が浮かんだ。そうして足を一歩踏み出したとき、横からいくつもの火を潜りこちらへ飛ぶように来る影が目の端に映った。灯台へ向かっていた勢いを翻し跳び退く。着地して顔を上げると、炎の灯りの中に、一体だけ、炎を纏ったままでもクラムを向いているアーバンリキュガルがいる。クラムにはわかった、あの時と違い、クラムを襲ってはきても。彼らにも面影があるのだとわかった。それとも、私が生み出したからか。
『件のアーバンリキュガルと出会っても、今日は絶対に戦わないこと』
先生の言葉が蘇る。何故だろう、クラムには、相手は炎では燃え尽きない気がした。
クラムは灯台を見た。無意識だったが、その瞬間に飛びかかってきた敵には対応できた。今宵のクラムの神経は、尋常ではなく研ぎ澄まされている。この先が大事な時間になることを本能がわかっているのだ。そしてその一瞬で、クラムにはわかってしまった。相手は私に暗示を掛けていない。私は戦うことができ、相手は私と戦うことを望んでいると。そしてこれは、私にしかわからないことなのだと。
(先生、すみません。条件、破ります)
心の中でザラスへ謝罪し、クラムは灯台の方へ足を向けた。対象が自分しか襲わないのなら、向かっても先に行くことはないと考えたからだ。思った通り敵はクラムにしかかかってこない、恐ろしい闇夜の鉤爪も、かわして折りにかかる、しかし、寸前のところで躱され、くらわすことができない。炎のためにいつもよりも相手の速度は落ちているはずなのに。革の手袋をギュッと握り込む。
クラムは考えを変え、足を急に止めそのまま向かってくる敵に正面を向く。そばまで来た敵は、けれどあと一歩のところで動きを止めた。叩き込むために拳に入れた力が行き場を失う。以前よりも近い距離での邂逅だった。炎の中のその瞳を見た瞬間、クラムの頭の中で、巣食う過去の記憶が一気に蘇り映り出て眩暈がした。思わずふらつき倒れ込みそうになったところを、アーバンリキュガルが喰らわんと一気に距離を詰める。鉤爪がクラムの身体に掛かる、その瞬間だった。
バキンとどこかで何かがくだけるような音がした。最初は自分の中から鳴ったのかと思ったが、動き意識もはっきりする体ですぐに違うと気づく。目線を上げて感じたのは木の香りだった。
ああ、とクラムは気づく。あの杖が折れたのだ。先生がいつも、クラムと出かける時に持ち歩いていた杖。森にも村にも、浜辺に降りたこともある。共に歩いた時間。
(このためのお守りだったのですか、先生)
クラムの目から涙が一筋流れた。再びアーバンリキュガルを見る真剣な瞳から流れたそれは、悲しみや苦しみではない。
アーバンリキュガルは何が起きたかわからないように後ろに慄き、そして炎が身の芯に到達してきたのか、動きが鈍くなっている。
クラムは目を閉じて深呼吸する。瞼の裏に浮かぶのは、あの日の、交差点に立つ自分。
自分を殺したい自分。自分の殺した自分。それが私のアーバンリキュガルだ。
クラムは目を開ける。足りなかったのは覚悟だ。自分の道を選び取る、何としても掴み取るという、何よりも強い覚悟。
さよなら、私の殺した自分。私は、今と未来を生きていく。
クラムは紅く燃える炎に飛び込み、強く握った拳の一発を、動きの鈍ったその顔面にこれでもかと叩き込んだ。その瞬間の獣の顔は、過去に自分をからかい、馬鹿にし、否定した、人間たちの全てであった。骨は砕け、血が飛び、その感触も感じ取る。
なかったことになんかしない。誰にも守れない。他の誰にも私を守れない。私が守る。私だけが守る。私の心と体、私の大事な人を、何としてでも守る。
その心だけが、熱くクラムの中にあった。
草原に崩れ倒れたアーバンリキュガルを、クラムは見ていた。美しい炎に焼かれていく。もう動くことはない。ああ、と思った。きっとあの夢の世界は、当時の私は行きたがった場所なのだろうと。闇を見ていた私にとって、幸福になれる場所なのだろうと。
歪んだ教育の無い、のびのびと成長できる、誰にも縛られず、世界に歪められ無い世界。賢人だけが、見ることのできる、他人に操られない世界。でもその世界は、自分で掴み取るものだと、今は知っている。あの頃、他人に自分の正解を委ねていたのは、自分自身だ。それでも。それは今、ここまで来たから思えることで。
「どうにもできなかったんだよね」
囁くように炎に声をかけた。
「あなた、頑張ったよ」
クラムは嵐の空を見上げて、海から生まれた雨を浴びた。生きている、という感覚がした。
過去の自分が、先生の美しい炎に焼き尽くされるのを見終えた後、クラムは走り出した。今度こそ灯台へ、先生のいるあの場所へ。
炎の灯る草原を駆け抜け、自分の家が見えたとき、同時に海原も目に映る。果てしなく、水面上に無数に灯る炎たちは、事象に依らず幻想的な美しさをしていた。
嵐の中で、灯台のドアを開け中に入る。水の滴る髪を振り払い、階段を上る。上まで来て外に出ればまた風は来るけれど、先ほどまでよりは柔らかくて、先生の魔法が守っているのだと感じる。潮の匂いを含んだそれに、懐かしさを感じた。
先生は気づいていたのだろう。振り返った。クラムは水滴の足跡を引きながら近づいていく。近くまで行けば、先生の手に握られている二つに折れた杖に、今度はクラムが気づく。先生が美しい銀糸の髪を風に揺らされるまま、そっと微笑んだ。
「おかしいね。キミは眠っているはずなのだけど」
声には驚いた様子はなく、穏やかな響きだった。
「では、これは夢かもしれませんね」
イタズラのように返して、先生の隣に立つ。灯台から見える海原を見る。無数の光は、まるで世界のすべての魂かのように燃えている。
グラスバードも同じ方を見つめた。
「師匠の弟子になったときのことを、思い出したよ。初めてここに来た日、何があったのかを」
グラスバードは賢人に至る者だった。アラゴはそれを知らず、彼をこの灯台へと連れてきた。アラゴには元々フレネルのつけた守りがあったが、身一つで守りのなかったか弱い少年はアーバンリキュガルの大奇襲の中、重篤な怪我を負った。おそらく、グラスバードにこのときの記憶がほとんど無いのはこのせいだ。
グラスバードはすぐフレネルとアラゴに救われた。出血のひどかったグラスバードが助かる方法は、フレネルにとって自分と同じ「自然界との契約」を結んだ身体になることだけだった。そうして、ある種の、魔法使いの弟子になるその契約は行われる。
グラスバードはクラムに目を向けた。ここへ来たということが、二人にとってはもう答えになっている。
「思い出せたんですね、弟子にする方法」
「ああ、だが、血を使うから、少し痛むよ」
クラムは構わないと頷いた。グラスバードはクラムに向き直る。「手袋を外して、腕を出して」との言葉に従い、手袋を外し、そのまま手を差し出す。グラスバードはその手を取り、自分の手のひらと、クラムの手のひらに指で方位の傷を入れた。痛みは感じなかった。それをしっかりと重ね合わせる。クラムが顔を上げると、グラスバードの紺の目と交わる。
「私たちは、共通の真名を持つ者になる。それが契約を結ぶ方法だ。これをすると、本当にもう、元には戻れない。いいのかい?」
重なった手のひらから一筋の赤い線が流れる。クラムは頷いて問う。
「これをすれば、あなたと同じだけの時間を生きれますか」
グラスバードの瞳が揺れた。ああ、と頷くと、クラムは今度は嬉しそうに頷いた。
「私の真名は火の契約者の名だ。エルデメール・フラムバード」
続けて、と促す。クラムがその言葉をなぞるように口にすると、体が内側から作り変えられていくような、細胞の一つ一つがぞわぞわとする感覚がした。細胞が生まれ変わり、血と同じように空気が体を回るのを感じる。そして夜の世界が、これまでより明るく、はっきりと見える。
契約が終わったのがわかり手を離すと、平の傷は塞がっていた、先生の方も同じだ。そのあとは二人で、その夜、次の太陽が昇るまで、燃える海原を眺めていた。
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