恋
クラムと森に行った日。湖を眺めながらの食事を終え、籠の中へと食器を片している時だった。
ぽつりぽつりと、クラムが話し始めた中で、珍しく自分の過去の話を始めたのだ。
「協会にいた頃、自分で言うのはおかしいことですが、私は優秀と呼ばれる類の人間でした。人より早く、色々なことがよく出来ました。それはずっと……協会に入る前もそうでしたが。協会が違ったのは、周りに合わせず、周りの子の面倒を見なくてよく、どんどんと自分の成長を推奨してくれたことでした。
私は人が喜んでくれるのが好きな子供でした。だから、それが嬉しくて、頑張りました。苦しいことはなかったです。
でも、二年前……戦闘において私より優秀な子が、協会に入りました。実際は僅差か、他の人から見たら同じくらい、変わらないといった具合だったかもしれません。そんな子は、世の中にたくさんいるのもわかっています。でも、何より、先生がその子に長く構うようになりました。
私は早い段階で実施の訓練が多くなって、協会に行ける日はほとんどなくなりました。それでも、先生のくれた思い出や言葉を胸に頑張りました。でも協会に帰っても、先生はその子といつもいました。話しかけるけど、先生も答えてくれるけど、あの頃より遠い感じがして寂しかった。いつしか気づきました。あの子は私なんだと。私もああだったんだと。
それでも、先生にとって自分は、少しは特別な存在だと思いたかった。傲慢ですが、一番大事だったら、とも。でも、ある時……二人がキスしているのを、見てしまったんです」
クラムは、その場から静かに逃げ出した。心が捩れるようだった。
その話を聞いて、今までは推測でしかなかったものが、グラスバードの中で確信になった。クラムは『先生』に恋情を抱いていたのだと。自分の胸の中で何かが痛むのを感じた。
クラムはグラスバードのその心中を知ることはなく、ただ、今まで話したことのなかった、自分の思想の欠片の一つを伝える。
「世の中は恋愛が全てなわけではありません。でも、『誰か』を、自分の心の糧にしては、いけないんです。どんなに近しくても。自分のために生きないと。じゃないと、その『誰か』にも自由がある限り、その人が自分ではないものを選択したとき、本当に、真っ暗になってしまうから。そう、思い知ったんです」
自分の経験であったクラムの話は、強い感情を載せていた。そして、グラスバードの胸の古傷にも強く響くものだった。
蝋燭だけに照らされた薄暗い部屋の中、一人の少女に思いをかける二人の大人が対峙している。だがグラスバードは、自分の意思として一歩も引くつもりがなかった。
「あの子から手を離していったのは、あなたも同じではないか。それに、その反応からして、あなたはクラムの気持ちを知っていたのではないのか」
でなければ、キスの場面を見て相手が何に傷ついたのかなんてわかるわけがない。
ザラスが細く伏せていた金の目の視線をグラスバードに向ける。
「知っていましたよ。私が気づかないわけがない」
ザラスは前に乗り出すようになっていた体を後ろの背もたれの方にやると、こめかみに手の指を当て何かを考えるように壁に飾られた絵画を見た。
「やはり難しいですね」
小さい、自分に向けた呆れを含んだ呟きだった。今までの交渉の体制とは違う、彼個人の様相に見えた。
「私は博愛主義者なのですよ。根っからのね。本当に、全ての人が幸福であることを願っている」
何のしがらみもない、ザラスはただの自分の本当を話している。
「でも、誰かのことを救うというのは難しいことです。それぞれの子に対し、それぞれその時に思い至る一番の最適解を選んではいても」
ザラスが見ているのは、少し前の過去だ。
「クラムの言ったその子は、かなり凶暴性を秘めた子でした。虐待を受けていたのです。まだ頭が幼い段階で止まっていたのもありますが、誰かが本当に付ききりにならなければならなかった。それも、彼女が選んだ者がです。
彼女は私を選びました。私の言うことだけは聞き、懐くようになりました。私の仕事は、彼女が精神的にも肉体的にも一人で生きられるようになるまでそばにいることでした。ただしこれは、協会の子供たち全員に言えることです。
ここからが難しいところですが、彼女は私のそれに対し、恋愛感情を抱いてしまったのです。私はその感情のことを『憧れ』だと思っています。少女は私に憧れてしまった。おそらく、クラムもそうだったのではないでしょうか。私はきっと、彼女たちが初めて出会った『きちんとした大人』だったのです。
ただクラムとその少女が違ったのは、少女は私を縛りたがったという点です。まだ頭の成熟していない段階でです。でも私の判断では、彼女にはまだ私が必要であったし、それが糧になるのであれば、私はそれをする人間ですから。
少女はね、キスをしてみたかったのです。少女にとってそれは最も憧れるもので、でも自分には一生手に出来ないものだという、絶望の感覚があった。でも、愛や幸福って、そういうものではないでしょう。人生に溢れていて、それに気づけるか、自分がそれを選び掴めるかが重要なんです。だから少女の求めたキスをしました。キミはそれを手にできると示すために。その瞬間を、クラムは見てしまったのです」
薄暗い部屋の角が小さな蝋燭で照らされている。揺らぐ小さな炎はそれでもこの広い部屋を明るみに導くように。
「教育的にはダメだと言う輩もいるでしょう。ですが、それが何です」
グラスバードの視線をザラスは金の目で射る。
「そいつらには絶対にその子を救えない。救えなかったことだけが事実なんです」
「……その子供は、今は」
「元々、特別なプログラムでの心身育成をしていましたが、功を奏して、半年ほど前に独り立ちしました。私はキミにとって、良い過去にするべき人間だという話は、ずっとしていましたから」
目を閉じながら、満足そうに話す男を、グラスバードは追従する気はなかった。彼に少女を救うことができたという事実だけが、ここにはあるからだ。
「ですから、当時は忙しく、クラムへの対応にきちんと時間が取れなくなっていってしまった事実はあります。世の中でもよくあることですが、陥りたくはなかったことでもあります。彼女の恋愛感情を知っているのを、私は知らないでいることにするべきだと考えました。どのみち当時の状態では応えることができなかったからです。でも……」
テーブルの面を見ていた金の目がグラスバードに向く。その金は、蝋燭の灯りで太陽のような色をしている。
「今は、過去におけるしがらみについては、もはやクラムと私の間には、私たち同士で解決する以上のものはないということです。あの子は私の弟子と呼んでも過言ではない育て方をしていた子です。協会からも許可が出た以上、私はクラムを自分の元に置きたいと思います。彼女の今後と運命に賭けて」
強い意志を湛えた目だった。
しかしグラスバードは思考を巡らせた末、口を開く。
「クラムへの感情は、博愛なのだろう」
ザラスは片眉を歪める。
「だとしたら何です。形はそうであっても、応えることができる。関係がありますか」
この男は根本の感覚からして違うのだ。そんなことはどんな人間に対してだってある。間違いではない、違うだけだ。グラスバードはじっくりと時間を使ったのち、言葉を放った。
「何だろうね。……話を聞いた末だが、やはり私は、貴方には絶対にクラムを渡したくない」
断言し、両者の視線が強く交わった時だった。
唐突に獣の鳴き声が壁の奥から響いた。聞き覚えのある鳴き声に、グラスバードはおもむろに立ち上がる。声の聞こえたそばの石壁へ手を当てると、元は木のドアであった部分が姿を現す。ドアを引いて開けると、そこにはいないはずの少女の姿があった。この部屋のことは教えたことがない。クラムは起きたパシュカを抱え込み、少し怯えたようにグラスバードを見上げる。
「どうしてここに」
そう声を出した瞬間、またパシュカが暴れ出し、爪でクラムの腕を引っ掻いた。
「…っ」
思わず手放したパシュカの一瞬の隙をついてグラスバードは手のひらを視界のパシュカに当て、下に動かすようにして眠らせた。くたりと肢体は床に倒れる。
「大丈夫かい」
グラスバードはしゃがみ込む。
「どこをやられた」
クラムを照らすのは、朧げな蝋燭の灯りだけだ。クラムは気が動転しているのか喋らず、しかし二の腕を押さえていることからそこだとは判断できた。
グラスバードの後ろ、部屋の奥から椅子を引く音がした。こちらへ来る革靴の足音も。クラムは足音に反応し、そちらを見上げる。
「大丈夫ですか?」
ああ、懐かしい響きなのだろう、と、クラムの目の揺らぎを見てグラスバードにはわかった。心が少し痛むのは、気のせいではない。
「ここを出よう。クラムの手当てが先だ」
クラムの背に手をやり、小声で「さあ」と声をかけ支えながら立ち上がらす。
そうでなくとも、長い話をする場所にここは適さない。クラムは口を開かなかったが、自分でまた眠るパシュカを抱えた。グラスバードもそれを止めなかった。地下からの階段を三人は上がっていく。
階段を上がり切り灯台に着いたとき、一番最後を歩いてきていたザラスが、その暗い階段を振り返りながら呟いた。
「聞いていたより、古くありませんでしたね」
その言葉に、グラスバードはピクリと反応した。
「聞いていた?」
グラスバードの眉を寄せての問いかけに、ザラスは軽く失態を犯したように笑う。
「……言っていませんでしたね。私の祖母は、ガザリス・シャン・マーバリーです」
それでわかるだろうと、ザラスは名前だけを告げる。やっと地下から出てきたところの、やりとりの最中であった。
クラムがふと振り返り見たグラスバードの表情は愕然としていた。
その、弟子をめぐる恋敵とも言うべきか男の口から出た名は、グラスバードのかつての守護者の名であった。そしてそれは、彼が初めて愛し、人間嫌いと呼ばれる由縁になった人であった。
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