静かな夜
日は海に落ちてしばらく経つ。時計の針は八時を指していて窓の外は暗い。外では雨が静かに降っている。クラムは自室の窓際で、移動させてきた椅子に座っていた。窓辺の台に肘をつき、ぼうっと夜の外の様子を眺める。
珍しく、灯台が点いている。先生が灯台の方へ行く足音は聞こえていた。
ゆっくりと一定のスピードを保ち回る光が、順に海と陸とを照らしていく。今日という一日に疲れたように、自分でも気づかないうちに息をついていた。
先生たちと灯台から出た時には、木戸は完成していて、三人が地の上に座りクラムたちのことを待っていた。
しかし、ただならぬ様子を感じ取ったのかシーバリや若者は何も言わず、ダスキートについてはまずいことが起きたかのように表情を歪めていた。
最初に話を切り出したのは先生だった。
「修理ありがとう、助かったよ。少し立て込んでいてね、きちんとした礼はまた今度してもいいかい」
「ああ、もちろんかまわんですよ」
シーバリは慌てたように返事をする。作ってあるパウンドケーキのことは、すっかりクラムの頭の中からは抜けていた。それが入り込むスペースが、そのときのクラムにはなかった。
そこで『先生』が言葉を発する。
「私も、本日はお暇します」
クラムが思わず顔を上げてそちらを見る。陽の元で見る、久しぶりの変わりない姿だった。ザラスは慈悲深い表情でクラムを見る。穏やかな風に髪が揺れる。
「村に滞在することになっています。また明日、会いに来ますよ。久しぶりに、会えてよかった」
そう言って、本当に嬉しいように笑い、三人と共に村へと帰って行った。どうすればいいかは考えられず、クラムはその場に立ち尽くしていた。
先生と家に戻ると、まずクラムはパシュカを、毛布を丸めて作った寝床に戻してあげた。明るい場所でスヤスヤと眠っている姿を改めて見てほっとする。
そうするとジンジンと二の腕が痛んできて、目をやると服が少し裂けていた。パシュカに引っ掻かれた部分だ。自室に戻り服を着替えている間も、怪我を自覚してしまってからは痛みが続いた。
袖のない服に着替えてリビングに戻ると、考えをよんでいたかのように、グラスバードがソファに座り、薄い色の木の箱を目の前の低いテーブルに開け待っていた。
「おいで、手当てをするから」
言われるまま、怪我をした方の腕が先生の側になるように隣に座る。自分でできなくない部位でも、クラムはそうして先生に傷の手当てをしてもらうことが多かった。そうするように、と先生本人に言われているのもある。手当ての時に特別なまじないをしてくれて、傷跡がほとんど残らないのだ。
腕に触れる先生の所作は丁寧で、されるがままになりながら、表情の見えない、そばにいる人の体温を感じる。その手は私の肌より冷たい。炎を操る手なのにな、とふと思う。
「いつから、あそこにいたんだい」
静かに先生が切り出した。クラムは言葉に迷う。声の調子から、怒っていないことはわかる。
「わかりません……パシュカを探していて灯台に入ったら、偶然入り口を見つけて。……下まで降りたら声がしてきて……あんな部屋があるのも、初めて知りました」
「……だろうね、教えたことがないから。驚いたよ」
続けて、話はどこから聞いていたのか、と問われ、クラムは沈黙する。思い出してみる会話の記憶は断片的だ。
「……正直、先生がここにいるという衝撃が大きくて、あまり話の内容自体はわからないところが多いです。ただ、聞き始めたときは、私がうなされた夢の話をしていた……気がします」
「……そうか。……賢人に至る者、という言葉は聞いたかい」
クラムが記憶を辿り頷くと、グラスバードは少し手を止め、また塗り薬と指の動きによるまじないをかけ始める。
「……先生が来るから、私を外へ出さなかったんですか?」
村からシーバリたちが来たときのことだ。あのときの先生の様子のことを問いかける。先生はああ、と躊躇いがちに答えた。
「すまなかったね。あんなことになるつもりはなかったんだが。話に聞いていなかったから、突然そうなったのはわかってね……どうしても先に、彼とは話しておきたかったから」
まじないが終わったように、次は白く柔らかい包帯を取り出し、腕に巻いていく。
クラムは首を横に振る。自分のことを考えてしてくれたことだというのは予想ができる。
「森で、私があの話をしたからですよね」
先生は苦い笑いをしたが、否定しなかった。
先生は気まずく思っているかもしれないが、クラムの心にはいくつか、今回こうして話を聞けたために灯った光があった。先生があんなに詳細に、自分と出会ったときのことを覚えてくれていたとは、今まで思っていなかった。それに、クラムにとって一番傷になっているあのできごとの、先生にとっての真実が聞けたことも。
それだけでも、今のクラムの心を穏やかに保たせていた。
「……何から話せばいいだろうね」
きっとたぶん、先生の方がどうすればいいかわからないでいるだろうなと感じた。包帯を巻いてくれている方に顔を向ける。真っ直ぐに見つめると、紺の目が困ったようにそらされた。手当ての動きを止めることはない。
「何か、聞きたいことはあるかい」
クラムは考えたが、まだ少し、混乱しているところがあって、二人がしていた会話の内容についての具体的な問いを、言葉で形にすることができなかった。
グラスバードもクラムの様子を見てそのことはわかり、ゆっくりと口を開く。
「順を追うとして……まず、そうだね。協会について、先に話しておこうか」
どのみち知らねばならず、話そうと思ってきたことだ。クラムがどう思っても、グラスバードは運命に任せることにした。
協会というのは、社会でうまく生きれなくなった人の唯一の救済場である。そのことは、公言はされていなくても周知の事実だ。
社会により、義務教育により、生きる気力を失った人が、自分たちにだけは、世界の唯一の悪であるアーバンリキュガルを倒すことができるという自信と、賢人という素晴らしい人たちを守る役目を与えられる。
生きる気力を取り戻し、社会の中で役目と権利を持ち、自分の人権を自覚し、自発的に生活していけるようにするための場所。
常軌を逸した善性で、社会に存在を認知されている。特に彼らの街清掃の活動やボランティアは、都に生きる人々の目に毎日のように映っている。
ゴミを拾う人間に、ゴミ一つ拾わない人間が言えることはない。協会は社会の清掃をしている。社会が捨てたものを、蘇らせ、共存をはかる。そしてそれを成し遂げている。そういう機関だ。
協会は社会に必要だ。一定以上の教育レベルを持つ者なら、誰もがそう認知している。
社会に居場所ができるなら、その方法でよいのだ。どんなに危険で過酷でも、協会の子どもたちは幸せだと笑う。そして、それ以外の、それ以上の手立てを、誰も人間の社会に生みだすことのない現状の限り。
包帯はいつの間にか巻き終わっていた。手当に使用した道具が、木の箱に仕舞われていく。その様子を見つめるクラムに、グラスバードは続ける。
「そんな中でも、協会が一番変えたいと思っているものは、義務教育だ。それに最も潰される子供は、決まって人間的に賢く優しいからね。それが協会には許せないのさ。そしてそれは、賢人ならば誰でも理解している事実なんだよ」
そうしてグラスバードが続けて話し始めたのは、協会の成り立ちと、何故アーバンリキュガルと戦うのか。そして、この灯台の意味であった。
かつてこの地にいた魔法使い、オーギュスタン・J・フレネルは現世では物理学者でもあり、光学研究をしていた。その研究に興味を持った人が、ドミニク・FJ・アラゴという人だった。彼はフレネルと同じ研究者でありながら、政治家でもあった。かつて、当時の海には光がなく、暗闇に満ち、それこそ夜になれば悪魔との世界の境界が、ほとんどなくなってしまうような世界で、人々は怯えながら暮らしていた。
それを危惧していたアラゴは、海を果てまで照らし、人を導く光を求めていて、フレネルに出会った。彼と共同で研究を行い、ついに強力な光を完成させた。夜の闇でも果てまで照らせるような光だ。そこから灯台が作り出された。その成果が功を奏し、アラゴは強い権力を持てるようになった。そして彼は別の成果として、かつてこの地を覆っていた奴隷制の全廃を成し遂げた。
その奴隷・孤児たちの救済所として出来たのが、協会だ。今とは少し形態が違うから、元になった、とでも言うべきか。だからこそ今でも協会は、政治や公の機関に対し、多少なりとも影響力を持っている部分がある。
グラスバードが師匠に会ったのはその頃だった。フレネルはこの灯台の灯台守をするようになっていたが、グラスバードは奴隷民の息子だった親を亡くし、ただ勉強がよくできたのでアラゴに目をかけられ、ここへと連れられてきた。
「そこで初めて魔法を見た日から、ずっと私はここにいる。弟子になれとはっきり言われたことは、そういえばないね」
魔法を見せたのは、師匠も本位だったわけではない。灯台ができて以降、夜の海の闇を棲家にしていたある一種の悪魔が、襲い来るようになる事例が出てきていた。それがアーバンリキュガルだ。
彼らは棲家となる海の闇を奪われたことで、人を襲うようになったのだと、一部では言われている。
それでも相対的に言えば、海を照らせなかった頃よりも人々には恩恵があった。だから灯台を止めることはできない。その現状は、あるただの、一種の進歩による環境の変化として受け止めるしかないと思っていた。
しかし、アーバンリキュガルの被害はほとんど起きなかった。不思議に思っていたアラゴは知らなかったのだ。師匠がそもそもアーバンリキュガルの存在を知っていて、灯台なんてものを生み出せば、そうなるのを見越していたことを。
その日、アラゴは師匠に知らせずに私をここに連れてきた。驚かせようと思っていたらしい。師匠は灯台に自分の火を用いることで、アーバンリキュガルを誘き寄せ、その全てを焼き払っていた。その日初めて、アラゴは師匠が魔法使いだと知ることになった。
師匠はこのままであることを望み、そのことをアラゴは承諾し、秘匿した。
そして国としての制度が整い、しばらくした頃のことだ。一五〇年ほど前だったか。アラゴにより親交の続いていた一派の政治家が訪ねてきた。
今でも彼は頭の回る人間だったと思う。彼はアーバンリキュガルという悪魔を、かつて人が倒していたという事実を知っていた。そうしてアーバンリキュガルを利用して、ある一種の循環を社会に作りたいと話した。そうして出来たのが、今の協会の状態だ。
先生は息をつく。諦めたように。
「つまり、この灯台と私は、大規模なアーバンリキュガルを誘き寄せ、一掃できる力を持ちながら、見逃し、各地に流し、協会の子どもたちに戦わせているのだよ」
師匠の代から。そして、それを自分も継いでいるのだと。
クラムは目を閉じた。初めて、先生が協会を嫌いな理由が腑に落ちた気がした。
「呆れているかい」
グラスバードはクラムの様子を見て尋ねる。クラムは小さく首を横に振る。呆れているとしたら、自分にだろう。本当に何も知らずに生きているのだな、と。
「……先生が、本意でないのはわかります。本意でなくても、しなければならないから、そうわかるからする。それが大人ですよね。今までの人生でも、そんな人は周りにたくさんいて、たくさん目に映っていたはずなのに……今、一番それを実感しています」
先生が、そんなの嫌に決まっている人だとわかるほどに。
協会でしか救われることのできない子供がいるのを、嫌というほどわかるほどに。
窓の外を見る。空は夕日でオレンジに染まっている。鮮やかな陽の光が、部屋の中にも入ってきている。
「これからも、続けていくんですよね」
グラスバードも、クラムと同じ方を見る。
「色々と動いてはいるみたいだが、時間はかかりそうだね。だから、ほかの方法が、社会に確立されるまでは、私は灯台を灯し続けるよ」
グラスバードは考えるように口を閉じた後、クラムに問いた。
「協会が一番恐れていることが何か、わかるかい」
クラムは視線を戻す。考えてみるが、答えは出ない。クラムの視線が床の端から戻らないのを見て、グラスバードは答える。
「アーバンリキュガルに、知性が宿ることだ」
クラムの瞳が揺れた。グラスバードは考えこむように手のひらで口元を押さえ、目を細める。
「生き物は進化する。悪魔だが、保証はできない。身体は人間に近い部分を持つ者たちだ。言葉を持ち始めたら、文字を使い始めたら。
攻撃に怯え始めたら。
協会の優しい人間は、手を出せるだろうか。出させる選択をする協会を、子らは信頼するだろうか、心から。心から信頼した人の言葉だから、自信になるのに」
クラムは言葉が出なかった。口を開いても。頭によぎるのは、一匹の、炎に燃えるアーバンリキュガルだ。
「賢人たちは皆思っている。願わくば、その時が来るのが、人類が滅んだあとであることを」
あの炎の中で、口が動いたと。今ならはっきり言ってしまえる。気のせいだったと思いたい心と、喋るわけがないという固定観念を捨てて。
途端に寒気がして、両手で自分を抱きしめるように二の腕を握る。痛みは関係なかった。グラスバードはクラムの様子を見て、ソファに置かれていたブランケットを掴み取り、そのまま広げてクラムの肩に掛ける。
本当に気温や体温が低いわけではなかったが、温かく感じて、ブランケットの端を掴んだ。クラムの様子が落ち着いたのみると、グラスバードは何ごともないように眠るパシュカを見る。
「……明日、彼はキミに、アーバンリキュガルに何と言われたか聞きたいそうだ。口読で、口の動きを読むと」
それはつまり、あのアーバンリキュガルの姿をよく長く思い出すということだ。できるかい?と問われて、クラムは小さくだがしっかりと頷いた。でも、と先生を見る。
「そのとき、一緒に居てくれませんか」
ブランケットの端を握る手に力を込める。グラスバードは目を細めた。
「キミが望むなら」
話をされている間、本当は緊張していて呼吸が深くできていなかったからか、胸に溜まっていた息は長く吐かれた。その様子を見てさてと、と先生は膝に手を伸ばし立ち上がる。
「長く眠らせてしまったが、そろそろ起こしてあげないとね。何も食べていないのだろう」
そう言ってパシュカの方に行こうとする先生を追うようにクラムも立ち上がる。
「先生」
立ち止まり振り返る先生に問う。
「他に話していないこと、ありませんか」
わかっていて尋ねたことは、グラスバードにもわかる。
「……それが、彼と話したことで、という意味なら、あと一つだけある」
グラスバードの頭にあるのは、クラムを連れ帰るという、ザラスの言葉。
「だが、それは私ではなく、彼から聞いた方がいいと思っている。それに、私はその上で、キミに聞きたいことがある」
クラムが何とも言えない不安そうな表情になるが、グラスバードはこれを助けることはしなかった。遠回しな言葉の表現になってしまったのは申し訳なかったが、自分の心にとって、重要な決断がこの先に待っている。
クラムが協会から、戻るよう命令されるということは、グラスバードを守るという使命がなくなるということだ。
グラスバードは知りたかった。使命を持たない自然な心のクラムが、それでも自分のそばに居てくれるのかを。
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