しばらく黙ったままだったクラムは、けれど荷物をまとめる頃には、ポツリポツリとまたグラスバードと会話をするようになっていた。呼称は先生のまま変わらない。それが何かを決めたからかは、まだわからない。

 森のきた道を帰ろうと振り返った時だった。ノコギリの歯を金属にずったような、変な鳴き声が森の中から響いてきた。烏が数羽木から空へ飛び立っていく。

 何の生き物かはわかったが、聞いたことのない鳴き方だった。クラムは辺りを見回す。二度目の鳴き声がしたときには方角が定まり、駆け出していた。けっこう近い。

 湖の東の木々をいくらか潜った先でそれは見つかった。思っていた通り、その生き物は鼬だった。森の道でない土の上は、落ちて溜まる落ち葉が土に変わっていくため、人が踏み鳴らしてきた小道よりふかふかとした感触が、硬い靴の上からでも足に伝わった。

 土とは違う麦穂にも似た柔らかな茶色の毛並みに、くるりとした小さい目。罠にかかったようで、足の先から太ももの部分までをギザギザの金属の歯に挟まれてのたうち回っている。

 鳴き声は再び上がる。近づいていくと、クラムに気づき威嚇の体制に入る。目で敵として認識されているのがわかる。それはそうだ。あの罠は人間の仕掛けたものなのだから。クラムの頭は冷静だった。いつも戦っているものに比べれば、目の前の怪我を負った生き物を捕獲することは容易い。だが、先生を待つことにした。

 捕獲したとして、暴れるのを押さえつけても興奮は収まらないだろう。筋肉の伸縮を止めるのは無理なので、罠が今より食い込む可能性も否めない。

 クラムは距離を取り、目線を低くするのと、大きい敵だと認識させ続けないためにしゃがんだ。離れて見守りながら、後ろから歩いてくる先生を待つ。

 先生の到着は思ったより速かった。駆けていくクラムを追いかけてきてくれるかは賭けに近いところだったが、何の鳴き声かは先生にもわかっただろうことから、来てくれるのを予測した。動物に関しては、魔法使いであり長年の時を生きてきた先生に格段の技術の利がある。

「やはり鼬だったかい」

  先生はクラムの視線を追ってそれを見る。ふうっと息をつくと、クラムを見る。

「あれは害獣駆除用の罠だ、わかっているね」

  頷く。村の人の作物を取ろうとしたか、取ってきたから罠に掛かった。

「森の奥に放ちます。だから、お願いします」

  人の世界と動物の世界の境の話だ。あまり介入してはならないのはわかっている。でも、森の奥に、二度と関わることのない場所でこの後の一生を過ごすのなら構わないだろう。

 クラムは真っ直ぐに鼬を見つめたまま言葉を返した。先生はそれを聞きクラムの様子を見て、対象に向かい歩き始める。

 先生が魔法使いとしての力を人前で見せることはほとんどない。それは、存在そのものが魔法のようだから、わからないというのもある。

 鼬はずっと、クラムのことしか見ていない。先生が歩いて近づいていっても、まるで気づいていない。だがクラムには見えている。先生の歩みは静かで、土も葉もカサリとも言わない。歩くその足元は、まるで水面の上を波紋だけが立っているように、クラムの目には見えた。

 そのまま鼬のそばに片膝をついてしゃがむ。手のひらをすっと鼬の顔の前に差し出してゆっくりと下ろす。その手に操られるように、鼬はくたりと土の上に倒れた。その様子を見てクラムは立ち上がりそばに行く。

 先生は軽く手を握り、それを罠の金属の上で動かしながら、何かを探しているようだった。途中金具の一箇所の上で手を止めると、人差し指の関節でカンとそこを叩く。途端に罠のバネになっていたその金具がバラリと外れ、食い込んでいた歯のような部分はパックリと開いた。

 先生も見つめるそれは眠るように目を閉じている。呼吸に合わせ、穏やかに肢体は上下している。だが、血は止まっていない。

「かなり歯が食い込んでいたようだね。ここまで歩いて来た後で、急所に歯が入って鳴き声を上げたのかもね」

「……動かしても大丈夫でしょうか」

 治療のためには家に連れかえなければならない。深めの傷だから完治するまで少し時間がいるだろう。

 クラムを横目で見てからグラスバードは目を閉じる。

「私が抱えよう。荷物を頼むよ」

 え、と思っていると、先生は杖を差し出してきたので思わず受け取る。そのまま服が汚れるのも厭わず、先生は鼬を大きな腕と手のひらでそっと抱えて立ち上がり、歩き出す。クラムはその後ろをついて歩く。

 荷物の籠を取り、森に来たときの小道に戻りはじめると、すぐに不思議なことに気づいた。道の脇に、新しい別の細道がいくつもできていて、不思議なことに、歩いているとどの道かわからない気がしてくるのだ。ゆっくりと速度が落ち、ついにか道の中腹で立ち止まる。冷や汗が出てきて、後ろを振り返った。先生は、こんなときなのに口角を上げている。

「道がわからないんだろう」

「……はい」

  先生は木々を見上げた。肩にかかっていた長い髪がするりと後ろに落ちる。開けた体の正面では、鼬の血が先生の衣を鮮やかに染めている。

「ときたまあるんだよ、こういうことが。この森は惑わすのが好きだからね」

 先生は再び視線を前に戻しクラムを見る。意地悪な笑みではなく、見守るように。

「慌てず、道をよく見てごらん、土の方を」

  言われた通り足元の土を見る。それぞれの道をじっと見て、あっと気づく。

 一つの道にだけ、点々と跡が続いている。道の先まで。それが何の跡かはすぐにわかり、先生が腕にかけている杖を見た。クラムが気づいたのをわかって先生は言葉を続ける。

「それを辿っていけば、戻れるよ。一番確実なのは、一つずつの点の上に杖をついて戻ることだね」

  二人とも持っているものがあるので後者は叶わなかったが、点を辿りながら、今度は歩調よくクラムは歩いていく。

「その杖は、このためにいつも持ってるんですか?」

「いや、今回はたまたまこの地点で役に立ったというだけだね。これは別の用途のために持ち歩いている」

 話しながら森を抜けると、景色が開けた。見慣れた丘と草原が続いている。

「では、少し急いで戻ろうか」

 先生の言葉にクラムは頷いて、二人は住処への帰路を歩いた。


 薄い毛布を巣のように丸めた真ん中で、鼬は心地良さそうに眠っている。

 怪我の治療は、グラスバードが持っている薬草を使い行った。クラムもできることは少なかったが手伝い、包帯は教えてもらいながら巻いた。

 気づくともう夜になっていた。眠るその小さな生き物のそばで、クラムは伏せって組んだ腕の上に頭を乗せ、同じ高さになってじっと観察していた。小さく上下する目の前の包帯に手を伸ばし、触れる寸前で止まり、撫でるようなふりの仕草をする。

 手を洗いリビングに戻ってきたグラスバードはその光景に目を細める。クラムが動物を好きなのは知っていた。今までも森へ行くときに連れていっていたのは、そのことが大きい。彼女が初めて鹿を見たときの、感動したような表情は今でも鮮明に思い出せる。クラムは立ち上がるとグラスバードの方へ来た。

「せっかく眠ってくれましたし、電気早めに消したほうがいいですよね」

  眠りから覚めちゃいますし、と鼬の方を振り返る。グラスバードは微かに笑う。

「キッチン側の灯りだけつけておけばいいんじゃないかい。それならあちらまではそう大して届かないだろう」

  クラムはグラスバードの案に頷き、リビングの電気が消された。キッチンの電気のみで照らされたリビングテーブルのイスに座る。クラムはそれでも、まるで素敵なものを見るような目で鼬を眺めている。湯気の立つミルクティーが二人の前に置かれていた。グラスバードは取っ手に指をかける。

「キミがそこまで動物が好きだったとは思わなかったよ」

  先生の言葉にクラムは前に座る人を見て笑い、すぐにまた視線を戻してじっと見つめた。その横顔はグラスバードが今まで見たことがないもので、つい見つめてしまう。

「……昔、獣医になりたかったんです。ほんとうにすごく、昔ですけど」

 クラムにとって届かせるつもりのない呟きだったから、もう少しでグラスバードは聞き逃すところだった。

 グラスバードが口を開きかけたとき、電話が鳴った。クラムは現実に気づいたように立ち上がり電話の元へ行く。受話器を取ると、話し始める。一連の後ろ姿を見ていたグラスバードは、スッと息をつき、冷静になる。話し声からして、相手はシーバリだろう。明日の予定でも伝えているようだ。

 視線を小さな生き物の方へ向けた。彼は何も知らず、温い毛布の上でスヤスヤと寝ている。


 簡素だが重厚な質感の木の机を指先でなぞるようにさすると、備え付けの椅子に座り、卓上のランプをつけた。

 クラムは眠る前、本を読むのが日課になっている。今日もまた、一冊の厚い本を手に取りはらりとめくる。暖かく少し揺らぐような、小さな灯りの中で文字を追う。

 ある一節での言葉が、この日はクラムの心に留まり、眠りをむかえることになる。


【透明な音の、聞こえることよ。

 君の感性は優れていた。特に芸術において。豊かな感性は、たくさんの陽だまりの中ですくすくと育ち、そして、白く四角い箱の中で崩壊した】

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