ピクニック
一つの蝋燭の火は小さい。自分の火の揺れる灯りがほのかに照らす自室の中で、グラスバードは自分の机から、隣のベッドで眠るクラムの顔を見ていた。昨日までのことがなかったようにぐっすりと眠っている。
帰ってきてから、鳥を呼び報告書を飛ばした後、一緒に寝たいですと言うので了承した。グラスバードのベッドは大きい。一人で寝るには寂しくなるほどに、なぜそんなに大きなベッドなのか、詮索してくる人間はいない。
机に肘をついて、指先でペンを持ったまま顔を掻く。自分の想像した以上の状況になってしまったな、と、まだ少し飲み込めないでいる。
外を散歩していたときもそうだ。正直、あれには参った。不覚にもときめいてしまった。
どうしたものか、と思う自分の心の高揚はありながらも、クラムの話した「襲って来なかった」というアーバンリキュガルのことが頭の中に引っ掛かり続けていた。
クラムにはしていない話しがさまざま巡る。少しずつ、話さなくてはいけないな、と考える。このさきを自分が望むのなら。
グラスバードはペンを置き場に戻し、蝋燭の火を息を吹きかけて消す。一瞬暗くなるが、すぐに目が慣れて、外からの溢れた光で床を歩く。
ベッドに乗ると軋みがあったが、クラムは小さく眉を寄せただけで起きない。その不機嫌そうな顔に笑い、頭を枕に下ろす。目を閉じると、乾いた麦穂のような香りがした。
感覚の遠くで電話の鳴る音がして、意識が上がっていく。
目を覚ますと、見慣れない景色だった。先生の部屋で寝たのを思い出すのには少し時間がかった。隣を見ると、先生はいない。目を擦ると、もう電話の音は止んでいる。
ベッドを降りて、朝の冷たい廊下を歩く。先生の話す声が微かに聞こえる。近づいていくと、声がはっきりと聞き取れた。
「それは大事なことだね。こちらは構わないよ。それでは」
黒い電話が本機に掛けられるのと、クラムが廊下の角を折れてその姿を覗いたのはほぼ同時だった。
先生はそのまま幅の広い衣の袖にもう片方の手を差し込むと、クラムを見て「おはよう」とモノクルの奥で笑う。
「おはようございます」
まだ寝足りないようにぼやっとしている頭で答えると苦笑いされる。
「起こしてしまったようだね、まだ寝ていてもいいんだよ」
件のアーバンリキュガルと戦った昨日の夜は、ほとんど眠れていなかったのをグラスバードは知っている。クラムは時計を見て八時なのを確認すると、首を横へ振った。
「もう起きます……」
それでもふにゃふにゃした声音だったため、呆れたように笑いながら、「コーヒでも淹れようか」と先生はキッチンに向かう。クラムもそれについていく。
上棚についているくすんだ金の取っ手を引き、戸を開ける。長い腕でコーヒー豆を取り出すのを見て、クラムも棚の別の場所で、布をかけて保管してあるコーヒーミルをテーブルに出す。
上は青錆色をしていて、回す取っ手の先には濃い色の艶やかな木がついている。同じ色の木の箱が下についていて、そこに轢いたコーヒー豆が落ちるのだ。
蓋を開けると、先生がコーヒー豆の袋を持ってきてクラムのそばに置いた。麻色の袋をカサリと開け、匙で計りながらすくいミルの中に入れる。
二人分の量を入れ、蓋を閉めると、ぐるぐると回す。最初は力が必要だが、力には自信のあるクラムにはなんてことはない。ガリガリと豆の砕かれていく音が、段々と軽いものになり、最後にはクルクルと勝手に回り、音もほとんどなくなる。
手を止め、下の木の箱についた引き出しの部分を開け、轢かれた豆を取り出す。轢きたてのよい香りが広がる。
「さっきの電話、誰からだったんですか?ずいぶん朝早いですね」
力を使う行為をして少し頭が冴えたクラムは、コーヒーを淹れ始めた先生に尋ねる。先生はあまりコーヒーは飲まない方だが、淹れるのはクラムより上手だ。クラムが好きなので、よく淹れてくれる。先生はクラムの問いに、「シーバリだよ」と答えた。
「たまたま今日、珍しい仕入れ屋が村に来ているのだそうだ。商材や自分の商品について話したいから、今日は休みにさせてほしいとのことだよ」
透明なガラスの中にコーヒーが出来上がっていく。ポトポトと、豆が含んでいた水分が下に落ちていく。
そうなのか、とクラムは外を見る。太陽がよく出ている、いい天気だ。
「じゃあ、明日が最後になるんですね」
先生はそうだね、と答え、出来上がったコーヒーを二つのカップに入れた。先生も飲むみたいだ。いつも二杯分作って、先生が気分でなければ全てクラムが飲み、飲むときは二つのカップが出てくる。
クラムは白色の、先生は紺のカップを持ってテーブルにつく。陶器のつるりとした感触に心地よさを感じる。一口含み、この豆独特の甘い香りが苦味と共に広がり、少し笑顔になる。やっぱり先生は淹れるのが上手だ。
また窓の方を見て、せっかくだからと湯気の立つカップを置き立ち上がる。日課でもあるが、リビングの大窓を開けた。
外の緑と潮の香りがふわりとする。テーブルに戻り、レースのカーテンの動きを観察していると、風は最初窓が開いたことに気づいてないように凪だったが、段々とゆったり白く薄いカーテンを揺らし始める。それを見て、またカップに口をつける。
「今日どうしましょうね」
思いがけず暇になってしまった。木戸の作業の手伝いをしたり、ダスキートさんに稽古をつけてもらったり、色々計画を考えてたのだけど。
グラスバードはクラムのその様子を見て、頭を働かせているのを感じ取り、微かに笑うだけで自身のカップに口をつける。クラムは自分で新しい今日の計画を思いつくのをわかっているので、惑わせたりする言葉は言わないでおくのだ。実際、すぐにクラムにはやりたいことができた。
「明日が最後になるなら、シーバリさんたちにパウンドケーキを焼こうかな」
独り言のように口にする。いいんじゃないかい、と先生の相槌。
「材料って揃ってましたっけ」
「あるよ、まだね。ちょうど一回分くらいじゃなかったかい」
新しい今日の計画に胸をときめかす。焼きたてを明日あげた方がよいかとも思ったが、確かあの気のいい笑顔のお兄さんには娘さんがいたはずだ、と思い出す。持って帰れるように、全員分きれいな包みにして渡そうと決めた。
コーヒーを飲み、そのまま二人は簡単な朝食を取ることにした。パンとソーセージと卵を焼き、庭で取れる野菜のサラダを添えたものだ。
朝食を終え、爽やかな風が部屋に入り込む中、カチャリと小さな音を立て、クラムは食器を洗い終えた。手を拭き、灯台に干していたワンピースを取りに行くため、電気のついていない廊下を歩く。
灯台の上まで上がると、潮風はやはり下よりは強く吹いてきていた。天井を支える柱にハンガーで干されているワンピースが揺れている。
手を伸ばして取り込み抱えると、全体を触る。しっかりと乾いている。思わず顔を埋め込んだ。干す時に先生が掛けてくれたハーブの芳香の香りがする。
一人でここに上がるのは珍しいことだった。思わず周りを見る。風以外は静かなことだ。中央の、光になる台に寄った。
機械好きが見ると喜びそうな、カラクリの入り組んだような作りが外側にある。仕組みをきちんと聞いたことはない。普通は電気だが、この灯台の光には先生の火が使われているのだそうだ。
ただ、いつ光らせているのかはクラムはよく知らなかった。先生の仕事だそうだが、どのタイミングで光をやっているのかも、よく知らない。首を軽く傾げた。
これは、何のための光なのだろう。
一年もここで暮らしてきて言うことではないが、「灯台」というものが一体何かクラムはよくわかっていない。たぶん船の道標になるためのもの、だった気はするが、曖昧な知識すぎる。
自身の仕事とは関係のないものに対する関心が薄いのかもしれない。クラムは少し笑ってしまった。帰ったら先生に聞いてみよう。知ってみたい、と思っていた。だって、先生の仕事のことなのだから。
しかし、先生の反応はクラムの想像していたものではなかった。灯台を降りてきて「この灯台は『何』で、一体いつ光っているのか」と尋ねたクラムに、先生は表情なく無言になってしまった。つまり、あまり嬉しそうではなかったのだ。
「どうしたんだい、珍しいね。そんなことを聞くなんて」
そんな風だった。クラムは少ししょげてしまい、視線を下げた。いつもの先生なら自分の仕事について聞かれたりなんかしたら、得意に自慢してきそうなものなのに。そこで思い至る。
そうだ、そういう人なのだから、今までの間に自分から話を振り出していても、おかしくはないのに。
ゆっくりと視線を上げる。先生の口元はさっきと違い少し笑っている。
「灯台は船の案内をするために海から見える光をやる場所だよ。光をやるのは暗い時だね」
淡々と当然であることを答えていく。そっか、と思いながら、そうではないという気持ちもする。何かはぐらかされてるような感じもする。
そんな思いがあったからか、無意識にも、答えをもらってからもじっと見つめてしまう。
先生は視線に耐えきれないように顔を逸らした。少しの間が空いた。風にリビングの窓の白いカーテンが揺れる。
静かな目でそれを見ていた。いや、カーテンではない、もっと自分の情景の中の、どこか遠い場所を。
「……そうだね」
何かを決意するように、諦めたようにも思えるが、呟くとクラムを見る。
「これ以上を望むなら、私も話さねばならないね」
その言葉が何のことかわからず、先生の顔を見たまま少しだけ首を傾げる。
先生は困ったように笑うと、顔を背け、何かを話し出そうと口を開き、だがそれだけで、何も発することなく閉じてしまう。先生の目は、迷いに揺れているようだった。
クラムは笑顔を作った。言いたくないことを言わせるつもりはない。
「先生、大丈夫です。灯台のこと、またいつか、先生のいいときに教えてください」
ほら、パウンドケーキ作らないと、と手に抱えたワンピースに着替えるために、振り返り自室に向かう。
クラムの姿が見えなくなった後、グラスバードはその場で疲れたように頭に指を添えた。実際参った気持ちになっていた。
自分でもおかしいなと思う。今までなら嘘でいくらでもはぐらかせた。誰にでも。でも、クラムにはできないと思った。こんなのは初めてで、自分でも驚いているのだ。さっきもあのまま、ただ淡々と何でもないことを答えてやりきることもできた。でも、するわけにはいかないと、思ったのだ。
今グラスバードの頭には一人の少女の姿が浮かんでいた。忘れることのない、忘れることのできない、一人の姿。自分にとって、深い古傷のように残っている一人。
指の間から廊下の奥が見える。古い木に小さい窓から差し込んだ日の光が真っ直ぐに落ち、電気のついていない、全てが影になっている廊下の空間の中で、その場所だけが、四角くくり抜かれたように照らされている。
自分の中で起きていることが何なのか、長年の時を生きていてもグラスバードにはわからなかった。
壁に掛けられている時計から十時の鐘の音がして少しした頃、リビングのテーブルの上にはパウンドケーキの材料が広げられていた。白い粉の山と、ミルク、砂糖、ケーキの型、卵二つにバター。
ワンピースの上からエプロンをつけたクラムは説明の紙を見ながら材料を確認している。その様子を面白そうに眺めているのは壁際に立っている先生だ。
視線を感じてクラムはムッと顔をそちらに向けた。
「何ですか?」
「いや、何も。今回は一人でやるんだろう?」
言いながらも楽しそうに笑っているのでクラムも視線を戻す。そう、いつもお菓子を作る時は先生と一緒にやっているのだ。というより、クラムは助手のように動いて見ている段階の方が多い。だが、今回はクラムの思いつきだったので、一人で作ってみることにしたのだ。
レシピは先生のもの。貰った紙はずいぶん古く、字の書き方も流れるような昔の達筆だった。
「これ先生の字じゃないですよね、誰のものですか?」
「私の師匠だよ。私が作ってるのは師匠の受け売りだからね、レシピは書き残したりしてないのさ。だから悪いが見せれるものがそれしかない。私が横からつきっきりで教える以外はね」
またムッとした顔をすると先生は笑う。読めなくはないだろう?と問われ、紙に目を戻す。それはそうだけれど。
これ以上先生に構っていると事が進まないので、作業を始めることにした。
今回作るのは紅茶のパウンドケーキなので、まず少量のミルクを鍋で温める。その間に紅茶の茶葉を細かく刻み、熱されたミルクでふやかし、そのまま置いておく。
次に湯煎でバターを温め、塊がなくなるように溶かす。卵を二個ボウルに割り、よく混ぜる。砂糖を入れ素早くしっかりと混ぜ、そこに溶かしたバターを入れる。また混ぜ、ふやかした紅茶をミルクごと投入する。
さらに混ぜたら、バターを満遍なく銀色の型に塗り液を流し込む。テーブルには厚めの布を敷き、そこに少し高めの位置から型を三回落とす。大きな気泡を出すためだ。
それが終わったら、温めたオーブンに入れ十分まず焼く。オーブンの戸を閉めひとまず作業が終わりふうっと息をつくと先生が感心したように言葉を掛ける。
「なかなか手際がいいね」
先生を見て笑顔になる。あとは中央に包丁で切り込みを入れて、さらに四十分焼くだけだ。
「先生の師匠は甘いものが好きだったんですか?」
先生が片眉を上げる。先生の師匠のことについて尋ねるのは初めてだ。「そうだね…」と窓の方を見る。昔を思い出しているらしい。
「甘いものは好きだったよ。よくチョコレートを食べていたね」
グラスバードの脳裏には記憶に遠い、朧げなような、黒くつややかな一粒のチョコレートを指につまみ満足そうに口に入れる後ろ姿が見えている。
先生の思い出が聞けたことに満足すると、クラムはパウンドケーキを飾り包む材料を探しにキッチンの棚に向かう。グラスバードは棚を開けるその姿を見て目を閉じると、自室に向かった。
狐色にこんがりと焼き上がり、紅茶と焼き菓子の良い香りがリビングに充満する頃には、昼食に近い時間になっていた。
パウンドケーキは冷めるまで包んで待っておくとしっとりする。のだが、焼きたても少し食べようと思っていたクラムは、自分が全く時間帯について計算に入れていなかったのを思い出し、テーブルで軽く頭を悩ませていた。静かになったリビングでは、時計の秒針の音がしている。
そこへ、焼き上がりの時間だろうとキッチンの様子を見に、先生が自室から戻ってきた。頭を悩ませている様子のクラムを見る。
「失敗したのかい?」
クラムは頭をくたりと倒した。そのまま後ろを向く。
「綺麗にできましたよ」
「ならよかったじゃないか」
言いながら近くへ来る。型から取り出し網の上で冷ましている状態のパウンドケーキを見て。うん、いいね。と呟く。
「何に頭を抱えてるんだい」
「時間です。焼きたてを食べようと思ってたんですけど、もうお昼じゃないですか」
「別にいいんじゃないかい、お昼として食べることにすれば」
うーんと頭を傾げる。どうにもクラムの中で甘いものを食事として食べるのがピンとこない。それが様子からわかって先生は呆れたように笑う。
「全く、仕方ないね」
クラムは窓の方を見る。揺れるレースのカーテンは、たまに窓との隔たりの役目が途切れて、外まではっきり見える瞬間がある。青く澄み渡る空、ちぎれて浮かぶ白い雲、風に揺れる草木…
クラムは閃く。カタリと椅子から立ち上がり、先生を振り向く。
「ピクニックに行きましょう、森に」
急なことに先生は目をパチパチとする。
「ピクニック?」
「はい、ピクニックだとすれば、甘いものを昼に食べてもいい心情になれる気がします」
いつもと違う状態でなら、いつもと違うことをしてもいい気がする。そんな心の由縁。
先生はまた笑う。おかしいからではなく、クラムが心のままに思いつき、そのままに動いていることが嬉しいから、というのは、クラムにはわからない。
「そうだね、そうしようか」
答えて、出掛けるために取っ手のついた網籠を持ってくるかと、グラスバードはリビングを後にした。
クラムはそれに気づいてにこりと笑う。包丁を取り出してきて、明日シーバリたちに渡すことになる分だけを蓋付きの容器に仕舞い、残りを食べやすいように切り分けていく。
少し考え、冷蔵庫から野菜を取り出し、大きめの蓋つきのビンにサラダを作り持っていくことにした。先生が持ってきてくれた大きな籠に、料理と紅茶とサラダ、お皿とコップを詰める。
エプロンを脱ぎ、棚に仕舞う。荷物を持って外へ出ると、家の中で思っていたよりも風は冷たく、肌心地が良かった。籠を一度置いて両手を伸ばし背伸びをする。草と潮風の香りが肺に行き渡る。
後から出てきた先生がドアの鍵を閉める。淡い深緑の羽織を着て、杖を持っている。いつもの外出するときの格好だ。
「では、行こうか」
磨かれたモノクルは自然の光を吸って透き通る。クラムは頷くと、風のそよぐ草原の上、森へと向かう方向に靴の先を向けた。
*
森の中は木々の間から光が差し込み、枝と葉を所々照らし、影と光による色のコントラストが生まれていた。クラムたちの住むところとは違い、瑞々しい木々の香りが広がっている。
森の小道を入っていけば、背の高いまっすぐな木や、複雑な形の木がさまざま不規則に生えている。これらの形や質の違う木々の根が絡まって、森の地盤は守られているのだと、どこかの本で読んだ記憶が蘇る。
籠を両手で体の前に持ちながら上を見上げた。芸術作品のように細く幾つも伸びる枝が空に線を引くように走っている。見える空は青く、森の風景の中の差し色になる。
「やっぱり土の匂いが違いますね」
先生は口角を上げる。
「キミは鼻でよくものごとを感じ取るね、感覚が鋭い」
「季節も雨風も匂いが一番感じやすいかもしれないです、視覚の次にですけど」
笑うと、小さな鳥たちの鳴き声がする。鳥にとってはここは楽園だろう。海を飛ぶ海鳥の姿が思い浮かぶ。
「前に、ポストにグラスバードという宛名で手紙が届いてましたよね」
道幅が少し広くなって隣に並んだ先生の横顔を見上げる。
「あれは先生の名前ですか?」
ふっと先生は笑う。小道の先に、目的の場所である小さな湖が見える。
「そうだよ。でも仮名だね」
杖の先が、森の柔らかい土では少し食い込むので、先生の歩いてきた道には点々と跡がついている。
「グラスバードって、カモメのことだったんですね」
先生は目を細める。
「どこかで知ったのかい」
「この前訳してた本に出てきました」
なるほど、と、グラスバードは遠くの空を飛ぶ鳥を見た。
湖にたどり着くと、開けたその場所には太陽の光が注ぎ、水面がキラキラとしている。近づいてみれば光の反射はなくなり、水の中が見えた。透明な水は青色をしていて、底まで見える。
「本当に綺麗な水ですね、あんまり人が来ないから」
森の生き物たちにとっては命を繋ぐ飲み水だ。現に今も、湖の反対側の水際には鹿の親子が水面に首を下げ、波紋が広がっていた。クラムはそれを眺め微笑む。
湖のそばにある枯れて倒れた大木に、二人は腰掛けた。この場所に来た時の定位置だ。大木は水分がなく、土に還ることもなく、木片としてこの場所で化石のようになっている。
ここには、晴れた日には稀に先生と来ることがある。森にしか生息しない植物や食材を摂るためだ。森には子どもや一般の人は入れないように村では管理されている。村の数少ない子どもたちは、怖いお話を夜に聞かされて、森への畏怖を心に刻み込みながら育つことになる。
木と関わるような、特別な職を持つ人などは、お祈りを受けて入ることができるのだと。実際に、祈りは礼儀として捧げられている。
持ってきた籠を下に置き、汚れよけのために被せていた布を広げる。
二人でそれぞれにサラダと、パウンドケーキを自分の皿に分けた。パウンドケーキは、紅茶の香りがふんわりと鼻に抜け、美味しさを噛み締めた。先生の方も同じかとおそるおそる顔を向けると、気づいて先生が口角を上げる。
「ちゃんとおいしいよ。心配しなくてもいい」
言葉にホッとして笑顔を見せると、クラムはまた湖の方を見ながらケーキを一口大に切り分ける。先生は隣でカチャリとフォークを置いた。皿はすでに空になっている。その目は湖の端を見ている。視線の先を追うと、水鳥が二羽、泳いでいるのが見えた。
「あれは、なんて言う鳥でしょうか」
「コハクチョウだね、この季節にはよくいるよ」
「渡り鳥ですか?」
「ああ、そうだね。遠い空を渡る」
クラムは空を見上げ、渡る白い鳥の姿を思い描いた。先生がふと、呟いた。
「……キミに名前を教えないのは、賢人だからだよ。他の理由はない」
先ほどの続きのようだった。クラムはフォークを見る。本当の名前というのは力を強く持つ。そのため、人に簡単に教えることはできない。それは強い権力を持ったり、賢人であるほど守らなければいけないしきたりだと言われている。ただ、クラムも、周りの人も、呼び名は略式が多く、真名を使っているのは『先生』以外聞いたことがない。だからか、クラムはあまり『真名を使わないことの重要性』を実感したことがなかった。しかし今、自分が共に暮らしている人がそうであることを、先生の存在の重要性を、クラムはあらためて思い知る。
「先生と呼ばせているのは、それが理由でもある」
も、と言ったのは、グラスバードとしては口をついてしまったものだった。嘘がつけなくなってきている自分を後から思い出す。クラムも反応する。
「他の理由は、何ですか?」
グラスバードの目は、目前に広がるのと同じ、静かな湖の色を湛えていた。暮らしや生活とも違う二人しかいないこの場所は、心をいつもよりも穏やかにしていた。だからか、言葉は素直にグラスバードの口から出ていた。
「来たばかりの夜、キミは眠るとうなされていた。『先生』と呼んで」
クラムの瞳が揺らぐ。手から力を抜き、フォークが皿につく。
「悲しそうに、夜通しね。暮らすことになった翌日だったろう、キミが私に『名前を何と呼べばいいか』と聞いてきたのは。だから私は、上書きのため先生と呼ばせた」
そう伝えたときの、クラムの戸惑った表情をグラスバードは今も鮮明に覚えている。彼女の心からすれば酷なことだっただろう。特に当時のあの頃などは。
「最初は、あんな夜が続いてはたまらないと思ったからだった。それだけでもある。ただ、この方法は効果が二つに分かれる危険な橋だ。自然に忘れることができるなら、やらない方がいい。思い出してしまうからね。だが、キミが何に所属し、その言葉がキミにとって誰のことかわかる以上、キミはその人を忘れることがないだろう確信があった。だから上書きを選択した」
クラムは皿の上に乗った、食べかけのケーキを見つめる。クラムの表情は見なくても、グラスバードはそれを感じ取っている。
「『先生』というその存在が、キミにとって、私になるように」
遠くで鳥の鳴き声がする。よく響く声は湖を渡り森を通り抜けていく、風のように。風と音、速いのはどちらだっただろうか。生まれる場所によるだろうか。
「……狙い通り、キミは段々と落ち着き、静かに眠るようになった」
そのことに、当時のグラスバードはホッとした。なぜ安心したのか、最初はわからなかった。それを思い出し、目を細める。今ならクラムを大事に思い始めていたのだというのがわかる。
こんな風に、来たばかりの頃のことを長く話すことも普段あまりない。グラスバードはポットを手に取り紅茶を注いだ。一口飲めば、乾いた口は潤い、爽やかな花の香りが体に流れる。
クラムは先生が話す間ずっと手元を見て黙っていたが、ふいに手が動き、ケーキをパクりと食べた。そして同じようにコップに紅茶をくみ、飲み込む。味は感じている。だが目は思考に真剣だった。
クラムも、協会の話を自分からしたことはほとんどない。必要がなかったのと、自分にとっては、大事なことだったから。
「協会に入る前、私に、手を差し伸べてくれたのは……世界に『先生』だけでした」
視線を上げる。雄大な自然が広がっている。人は恐ろしく小さいものだ。協会に入る前の、自分の人生で陰った時間が、ジジジ……と悪い電波のように脳裏に映像を映しかけ、眉を寄せる。
「私はきっと、一生、裏切ることも、忘れることもできないです。あの恩だけは」
裏切り、という言葉が、『先生』を先生でなくすることを意味すると、グラスバードにはすぐに理解できた。自分の思惑を、クラムは否定しようとしている。
クラムにとっては、『先生』と、協会での日々が、今の自分を作ってくれた。自分を守ってくれた。今のクラムは「協会で過ごした時間」で出来ている。
そう思い言い聞かせながらも、自分の心の揺らぎをクラムは最近感じていた。先生のことを大事に思い始めているのはわかっていた。命令だからでも、守る対象だからでもなく。
だから胸の痛むことがある。
まだ若く、深く鈍い痛みを持つ傷。
悩み始めれば、長い時間はすぐに経つ。想像の中で、頭を横に振る。守り、戦う。それだけでいいなら、どんなにシンプルで楽だろう。
クラムは湖を見た。風はいつの間にか止み、水面は凪いで鏡のようになっていた。逆さまになった色のない世界が、そこには写っている。
クラムは、自分の心に降参したように呟いた。
「先生、ごめんなさい。私、今、わからないです」
グラスバードには聞こえた声が、今の彼女の本当の心であるのがわかる。彼の心は穏やかだった。
秘密にしていたわけではなかったが、話そうと思ってきたことではあった。打ち明ければクラムに迷いを生むだろうことはわかってはいたが、それを乗り切るまでの時間を過ごすことは決めている。
「ひとつだけ話しておきたいのは、こうしてこの話をするのは、本当はあの食事の夜にするつもりだったということだ」
クラムは先生を見た。疲れたような瞳だが、グラスバードは癒すように口角を上げる。
「けれど、タイミングを失ってね。今になってしまった。今はなぜか、話せてしまって。悪かったね、せっかくここまでピクニックだったのに」
クラムは口をギュッと結ぶと、顔を左右に振った。
「話してくれて、ありがとうございます」
そうしてクラムは笑顔を見せる。そういうところが、たぶんグラスバードにはたまらない。
「これを話せた今だから、キミに生まれる選択権がある」
クラムはキョトンとした表情になる。その心の隙に打ち込むように言葉を紡ぐ。
「私を先生と呼ばない選択だ」
クラムの瞳はまた強く揺れた。それをグラスバードは見逃さない。
「時間は問わないし、このまま、この話も無かったことにして、今まで通りの状態を過ごすことにしてもいい。そうでなければ、私を先生と呼ばず、グラスバードの仮名で呼ぶこともできる、もうキミには、その選択肢を渡した」
グラスバードは目を細める。
「私の望みは、『キミに考えてみてもらうこと』だ。それだけを、今は伝えておきたい」
クラムにはわかった。先生を先生と呼ばなくなるということは、『先生』を自分の中から目の前の人に上書きしない、ということだ。忘れない、消さないで残す、そういう選択をすることだと。その意思表示を、先生に対して示すことなのだと。
今までなら、すぐに答えの出ることのはずだった。心が戸惑うことはあったのだから。目の前の人のことは、グラスバードさんと、そう呼べばいいだけ。なのに、迷ってしまう自分がいる。何故か、クラムにはわからない。
(そうか、これを先生は、考えて欲しいのか)
自分の胸元をギュッと掴んだ。心が苦しくなった。その感覚は人生の中で久しぶりで、懐かしい。寂しい気持ちになった。記憶にあるその思い出は、儚いものだったから。
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