寒いから
ダスキートがシーバリたちと一緒にグラスバードの家にやって来たのは、翌日のことだった。
玄関を開けると、二人に混ざって立っていた。
「俺の仲間だが、体調が悪くてこれないそうだ、悪いな」
代わりに手伝いに来た、そう言った。昨日の様子からわかっていたクラムは何も思わなかった。ダスキートはクラムの様子を見ていたが、先生を連れて外へ出て行ってしまった。他の二人は昨日の事情は知らない、何か察する部分はあるかもしれないが、少なくともクラムは姿を見せないように戻った。あの青年は何も話していないらしい。
部屋に戻ったクラムはブランケットを羽織ったまま、カーテンを閉めた部屋の中、電気をつけることもなく、ソファの隅でじっと座る。
今日は以前までと同じ黒のズボンとシャツを着ている。ワンピースは昨日帰った後、懸命に洗った。それだけに集中して、手を動かした。けれど、力を入れなくても血や汚れはすぐに落ちていった。洗っている間、あのアーバンリキュガルの姿が頭に浮かんでは、それを自力で打ち消していた。汚れは全く無くなり、元の姿に戻った。魔法に守られているように。
今は灯台の光台のある場所に干されて、全身に風を浴びているだろう。
外では作業の音がしている。クラムの視線は床の木に向けられたままだ。
昨日からずっと寒かった。暖炉を入れて欲しいくらいだ、と思う。さすがにそれは言っていないけれど、無意識のうちに先生のそばに行ってしまっていた。
先生のそばにいると温かい感じがした。
そうか、これが安心というのか、と思った。先生のそばにいて、クラムは安心していた。何も言わずにそうしていても、先生も何も言わないでいてくれる。
湯を沸かしにキッチンに立つとき、ヒヨコのように後ろをくっついていても、何も言わないでそうさせてくれる。先生は普通に過ごしていて、もしかしたら気を遣ってくれていたのかもしれないけど、それでも普通に過ごす中に何も言わずに置いてくれて、そばにいれて、クラムは安心していた。
先生のいない部屋は寒い。前で合わせたブランケットを握り込み、包み込まれるために膝を抱え小さくなる。
クラムはこの寒さに覚えがあった。少し昔のことだ。協会に入る前のこと。
そうだ、少し前まで、私はずっとこうして寒かった。
(思い出すものじゃない。早く戻ってくるといい)
クラムは目を閉じる。
(そうしたら、温かいのに)
潮の風が髪を揺らす。いつも嗅いではいるが、海に近づくだけで一段と濃い感じがする。
ダスキートとグラスバードは海岸側の岩場に来ていた。黒々とした岩はゴツゴツとして、平野の滑らかな質感の岩とはやはり違った。所々には藻がついている。グラスバードとダスキートは海の方を向いて立っていた。
ダスキートに連れられて来たが、クラムには聞かれたくない話なのだろうな、と。家から隠れるようなこの場所のことを考え思う。
「話があるなら、早めに済ませてくれるかい」
今は少しでもクラムのそばにいたいのだ。
「一つ先に確認しときたいんだが」
ダスキートはわかりやすく頭を掻く。
「アンタは協会側の人間じゃないよな?」
質問の意図が分からずグラスバードは答えなかった。冴えている男だ、事情はある程度把握しているだろうし、察しもいい。だから「協会に支える身である魔法使い」にそんなことを聞く意図が分からなかった。意図を考えなくていいのなら、答えは一つだ。
「協会は嫌いだよ」
ダスキートはわかりきっていたように「そうかい」と笑った。笑ったが、いつもと違い表情には苦いものが混じっている。離れた場所で波が岩に打ち付けられる。今日は少し波が高いようだ。
「あの子、昨日戦わせたのわざとか?」
グラスバードは黙ったままだ。ダスキートは続ける。
「憶測で悪いが、アンタはあの悪魔を自分で追い払えると思ってる。あの子を戦わせたのが任意だともな」
察しのいい男だ。グラスバードは何に動じることもなく淡々としていた。
「私たちにはキミには知り得ることのない事情がある。そこにどんな意図があったとして、答えたところで意味はない」
ダスキートは事情を話す気がグラスバードにないのを見ると、そりゃそうだな、と海を見た。潮風を眺める。彼らはどこから来ているのか。
「昨日の夜によ、あいつがウチに来たんだよ。俺についてくるウチの一人。わかるだろ?」
そう聞いてくるのは、村を尋ねたときの広場でのことを言っているのだ。物覚えについて信用されているようだった。
「すげぇ血の気の引いた顔をしててよ、とにかくウチに入れて話を聞いたのよ。そしたら、クラムが戦ってるのを見たって言うからさ」
ダスキートは青年を案じたようだった。協会とアーバンリキュガルとの戦いは、一般人が見ることはほとんどない。賢人は俗世からは隔離された地に住んでいることがほとんどだからだ。あれは悪魔との戦いだ、とダスキートは呟く。
グラスバードは横目で見る。クラムの戦闘の腕が衰えないよう、協会の人間であることを知ってから稽古をつけてくれるようになったこの男は、それは自分のためにもなるだろうが、慈悲であるのを知っていた。
「あいつがよ、クラムに少し気を持ち始めてたの、知ってたろ」
ダスキートの声は乾いていた。何を言ってもグラスバードが動じないのをわかったからだ。
「私は見に来いとは言っていないけれどね」
「絶対に来るな、と言わなかったのは罪だと思うぜ」
あのとき、青年はクラムの去った草原の方をずっと見ていた。グラスバードが弓矢を持ち、そちらに歩いていく間もずっと。
ダスキートは灯台を見上げた。ここからでは、端が少し見えるだけだ。目を細めた。
「クラム、ショック受けてたろ。いつもと様子が違う。もちろんそれだけが理由じゃないと思うが、ありゃ酷だぜ」
協会の人間と接するとき、気をつけるべきことがある。彼らの信念、信じるものを揺らがせないことだ。
自分たちの信じるもの、やっていること、それらは間違いではない、正しいのだと「自分が思っていられる」こと。それが彼らにとって大事なのだ。だから、それは違うだなんて、これが悪いことかもしれないなんて、自分の行為を見て、誰かが嫌悪するなんてことは、あってはならないのだ。
その迷いと不安は、あの悪魔との戦いにおいて危険要素になりすぎる。
なのに、と、ダスキートは隣に立つ男を見る。何も感じていないように、真っ直ぐ海を見て、白い衣をはためかせている。
「どのみちそのときは来たことだ。関係が浅いうちにけりがついてしまったほうがいい。終わるなら、そこまでだっただけのことだ。若い芽のうちに摘まなければ」
終わらせにかかってただろうが、とはダスキートは口に出さなかったが、伝わってはいたかもしれない。
長いため息をついた。隠す気もなかった。
「同情するぜ、クラム」
天を仰ぎ見て口に出す。聞こえてしまえ。よくない男の巣にかかった。
「クラムに、家出したくなったらいつでもウチに来ていいぞって言っといてくれ」
「キミはあの青年を連れてるだろ、ダメだよ」
あー、はいはい。と背を向けて片手を上げる。もう何も言わないでおくよ、と言わんばかりに。
ダスキートはそのまま上に戻り、木材の切り分けをしている木戸の作業に加わった。
シーバリたちは夕方には一日分の仕事を終え帰っていく。明日で作業は終わる予定になっている。三分の一の窓についた木戸を、夜になってからランプを持って外に出たクラムは見つめていた。
近くに行って触れる。滑らかな質感は、棘一つ刺さる気配はない。丁寧な仕事と温もりが伝わってくる。日は落ちているが、以前よりも木の色が濃いのは、腐るのを防ぐ液剤を塗ってあるからだ。今度のは長く保つよ、とシーバリさんは笑っていた。帰り際にくれたリンゴがキッチンにあるのを思う。少し心配をかけたのかもしれない。
「クラム」
名前を呼ばれて振り返る。お風呂を終え、寝着のままの先生が、涼しげな姿でそばへ来る。クラムも同じで、あとは寝るだけの姿だ。
先生は隣まで来ると、空を見た。
「少し星を見て、散歩しようか」
クラムは頷いた。二人で夜の草原を歩き出す。どこまで行こうとは言わなかった。ただ広大な夜風の渡る草原を歩いていく。日の出ている時より、やはり夜は静かに感じる。草を踏むカサカサとした音が、耳に心地よかった。
「報告書、書き終わったので、帰ったら遣い鳥に出してもいいですか……?」
遣い鳥は協会との連絡をするために飛んでいる鳥だ。報告書を脚の包みに入れて飛ばす。
呼ぶときには笛を使い音を出すので、いつもは日中の昼下がりなどにやっている。夜になるのは初めてなので、聞いてみた。
「ああ、構わないよ」
先生のゆっくりとした、穏やかな低い声は、耳に心地いい。許可が下りてほっと息をつく。海と反対側を歩いていると、潮風よりも草と土の香りが強くなる。夜の空気は、やはり太陽の下にいるときとは違う。
深呼吸して上を見れば、満点の星空が広がっている。立ち止まり、真上を見る、そのままゆっくりぐるりと、三六〇度の星を見渡す。まるで宇宙の中に立っているようだと思った。実際、いつだってそうなのだけれど。
視線を下に下げると、先生も同じように立ち止まり空を見上げていた。気付いたようにクラムの方に目をやる。ひんやりとした風が通り抜けていく。
クラムは草原の方を見た。どこまでも続くような丘を。
「昨日、最後に戦ったアーバンリキュガル、いつもと違いました」
昨日の戦いについて話すのは初めてだった。クラムは何も言わなかったし、先生も何も聞いてはこなかった。異変には気付いていただろうが、クラムが話さないのを詮索はしなかった。
「私を襲って来なかったんです」
草が少しだけ、足首に当たる。
「何も、全く動かなくて。でも、距離を詰めも離れもしない、同じ距離を保ったまま、止まってしまいました」
昨日の状況の、あまりのなす術のなさを思い出して笑う。夜で姿の見えない草を見る。
そうか、星がよく見えるのは、月がほとんど出ていないからでもあるのか。空に浮かぶ月は、消えそうに細い三日月をしている。
「見ていることしかできなくて、あんなに長くアーバンリキュガルの姿を見るのは初めてでした」
私……と、続けて言おうとして言葉が止まる。後ろでに指を組んで、ぎゅっと締めた。
「私、はじめて怖いと思いました」
協会では褒めてくれた、仲間や先生がいた。倒すと褒めてくれて、それが勇気になった。
でも、今は一人だ。これからも。仕事はそういうものだ。これは仕事で、誰も褒めてはくれない。当たり前のことで、それをするだけになる。
「倒せない、と初めて思いました。なす術がなかった。帰るわけにもいかず、追いつけもしない。どうにもできないと思いました」
やわらかく、過去の回想をするクラムをこの土地の風は包み込む。体の緊張は解け、ほぐれていく。だから、ぽろりと自分の思いを口にしていた。
「こわくて、どうにもできなくて。そうなったとき……先生のことを思いました」
真っ直ぐに目の前の人を見る。
夜の闇の中で、その瞳がどんな色をしているか見ることはできない。
「協会の『先生』じゃなく、あなたのことを」
それがどんなことか、先生には伝わり切るだろうか。
クラムは視線を横へずらす。草原と空の境でも、星は無数に輝いている。これからさらに深くなる夜を待ち侘びるように。
無言の時間は長い時間だったはずだが、一瞬のように思えた。先生の声がゆっくりと、しかしはっきり届く。
「キミが今、一番したいように動いてみてくれるかい」
私はそれが知りたい、というように。
クラムは言葉を体に飲み込んで、一歩足が動き出す。怖くて寒いのだ、ずっと。
先生の前まで来ると、手を伸ばした。片手で白い衣を掴み、強く握る。そのまま体を近づける。ピッタリとくっつき、胸に頬を寄せた。
「私にしてほしいことは?」
尋ねられ、数拍の時が空く。
「抱きしめてください」
子供がわがままをするように、拗ねた声だった。先生は笑ってクラムの体を包むと、頭を強く撫でた。しっかりと感覚が残るように。
腕の中でクラムはふと、最後、燃えながら話すように口が動いた気がしたのを思い出した。けれど曖昧な情報だったこともある。やっと満足した今の心の中では、それは幻のように消えていった。
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