戦闘
クラムは風のように駆けていた。草原はクラムを受け入れ、草や土は潰れることはない。狩りを始めた獣のように、静かで鮮烈な動作だった。もう家の彼らの声は届かず、姿が見えることはない。
行かせるわけにはいかない。ここより先には。
丘を二つ越えたところで、勢いに任せて片足をずりながら止まる。
地面につきそうになった顔を上げ、前を向く。見据える先には、クラムの方に、もとい先生の元へ向かってくる九体のアーバンリキュガルがいた。
クラムは今までに無く激った心理状態になっていた。今家のそばには一般人がいるためだ。アーバンリキュガルは賢人を喰うのみで、普通の人間を襲うことはない、だがそれは例外を除いてのことだ。その例外が、一般人が賢人のそばにいるときだった。
あの近さでは危険性が高い。クラムには経験と知識でそれがわかった。
考えながら、腰のグローブを手に取り素早く身につける。指先まで通し装着感を確かめるように拳を握り込む。なめされた革は長年使っているかのように手に馴染むのがわかった。アンジェリカのことを思い出した。
左手を脚に伸ばす。スカートの裾を少し上げると、下の革紐についた小さな箱から紐を取り出す。先には赤い石が括り付けられている。
アーバンリキュガルの気をこちらに向けるための初撃は小さいものでも構わない。石を垂らすように紐の先をもち、手の位置は固定したままゆっくり勢いをつけ回し始める。
すぐに速度を最大に上げ、狙いと体勢が定まったところで重心を変え向けて放った。うまくいけばと思ったが、一匹の眉間に当たり、対象は転がる。仲間はそれを避けるように広がったかと思うと、一瞬止まった後、クラム目掛けて向かってきた。進路の変更は成功だ。
クラムはゆっくりと息を吸い、空気を肺に溜めると体の内側の感覚を確認して、ゆっくりと息を吐き出す。
『溜まっているのは瘴気だから、それを自分の身体から搾り取るように吐くんだ』
教えてくれた『先生』の声を思い出す。戦うとき、クラムはいつも協会の仲間や『先生』との日々を思い出す。
クラムが協会に入ったのは、十三歳の時だった。
十三歳とは言っても、都に登録されている情報上で生まれた年がわかるだけのことで、生まれた日がいつなのかは、やはりわからない。
親は自分に興味がなかった。小さい頃は無条件に愛していた気がするけど、成長していくに連れ、世間と関わらなければならなくなるに連れて、クラムは「何も言わずにきちんとする」愛をやるのに疲れた子供になっていた。疲れが勝って、家族愛の感情は枯渇し、失われた。今でも、クラムは家族というものに何も思わない。他人の家庭は美しいし、守られるべきだと思うが、自分として家庭というものへの憧れは皆無だった。
それでも、人が嫌いなわけではない。協会での日々を思い出す。あれが青春だとするなら、そうなのだろう。まるで学校のようで、初めて心置きなく楽しい日々だった。
座学で手を挙げて答えを言い、それが合っている。実技で覚えが早く、褒めてもらえる。みんなも仲良くしてくれ、休みの時間にはおしゃべりをした。協会のみんなは優しい。みんなもいつも笑顔で、同じ目的を持ち、励み、成長する。
初めて自分が「人に成っていく」感覚が、実感をもってはっきりとしていた。
最後に先生のことを思い出した。胸が少しだけチクリと痛んで、寂しくなった。
身構え、彼らがクラムまで十mの線を切ったとき、戦闘は始まった。
先陣を切った一匹に同じ速度で飛び乗り、全力で人間の腕を捻り折る。叫びの鳴き声を上げる間にもう一本も体重をかけ捻り折ると勢いをつけ、踵で脚の関節を逆に蹴り折る。
倒れると同時に襲ってきた二体の攻撃を転がってかわす。そのまま一体の背に乗り顔面を横から叩き割る。そのまま首根を掴んで下に押さえ長い顔に下からも膝蹴りを入れ、気絶させる。仲間の上にいる間は攻撃をしてこない。さらに長い足が邪魔になってうまく近づけないのだ。
次々に仕掛けられる攻撃を避けながら流れるようにアーバンリキュガルに乗り倒していく姿は無駄がなく洗練されていながら獣的だった。
クラムは最短で協会から社会で働くことを許された、ある種アーバンリキュガルとの戦闘における神童だった。それを知らしめるような強さだった。
アーバンリキュガルの、蜘蛛のような足の関節に踵を入れて折る。これは協会に入り訓練を受ける者が、一番最初に習う行為だ。どこにどう力を入れるか、そうするとどうなるか、最初に習う。ふと瞬間だけ、記憶が協会時代の情景に飛んだ。頭を現実に戻し、自分の姿に目を向ける。泥はそんなに付いていないが、やはり血は防げない。
ちゃんと落ちてくれるかな。
思って、クラムは最後の一体を振り向いた。対応の動作が遅かったのは、相手が動かなかったためだ。ずっと群れの後ろにいて、攻撃を仕掛けてくることもなかった。
(おかしい)
クラムはずっと、他との戦闘中も異変を感じてはいた。普通ならすぐに襲ってくる。アーバンリキュガルの中にも臆病な者がいるのかとも考えたが、違う。そんな情動はないはずだ。
じっとクラムを見据え、見つめているのだ。恐れも怒りも、猛りも叫びもなく、ただ見つめている。クラムはこんな対峙をするのは初めてだった。協会や先生や仲間に教わったこともない。
立ち上がれずに呻き蠢いている仲間たちを横にしながら、遠く森のある方を背にしている。
そのさらに遠く向こうには厚く高い雨雲がある。
(あそこから来たのか)
風に揺れる髪の間から雲を見て、視線を対象に戻す。一歩踏み出すと、アーバンリキュガルは目を逸らさないままその分後ろに下がった。その行動にクラムの眉は歪む。二歩三歩、同じように踏み出すと同じ分だけ後ろに下がる。動きを止め、クラムは考える。嫌な予感だった。三歩後ろに下がってみる。思った通り同じ分だけ対象は前へ進んできて、やっぱり、と小さく息をついた。
一進一退、この距離のまま止まるつもりだ。クラムは内心で参っていた。目視で十三メートル。助走の無い状態でクラムのトップスピードで一撃をくらわすため飛び掛かれるギリギリ範囲外だ。
唇を噛む。この距離からの攻撃手段を、クラムは持っていなかった。現状は対峙し続けるしか無い。クラムは足の速さでアーバンリキュガルに勝てるとは思っていなかった。彼らはクラムより早い。疲れというものを持たないからだ。
実際、今の段階でもクラムの息は上がっている。九は実戦では相手にしたことのない数だ。彼らは五.六匹の行動がほとんどで、それ以上は事例がない。
事例がない。クラムは頭の中で反芻する。事例がないものは、報告し、対処方法を作りださなければならない。そのために、生きて戻らなければ。
クラムは右腕がジンジンするのを感じた。じっとしているせいで、感覚が自分に対して澄まされるのだ。今回は、流石に無傷とはいかなかった。それでも、想定以上に身体への傷は少ない。それが服に込められた術の力であるのをクラムは感じていた。アンジェリカへの恩を感じながら、それでも切れた肌を感じる。染みた血の跡では、それが自分のものかわからない。アーバンリキュガルの血も赤いのだ。
目の前の対象は、本当に全くその距離から動かなかった。このまま家に行くわけにはいかない、かと言って追い詰めることもできない。そう、『攻撃してくる』という習性があるから、クラムたち協会の子は彼らと戦うことができるのだ。そうでなければ……戦うことはできない。
クラムのこめかみを汗が一筋伝った。戦いによる暑さからではない、心が冷えるような感覚からだった。アーバンリキュガルをこんなにも長く見つめたことはない。ぞっとした。クラムは実務に入って以来初めて、アーバンリキュガルとの戦闘において恐怖を覚えていた。
先生。
心の中で呟いていた。誰かを求める呟き。その「先生」がどちらのことを指すのか自覚したとき、クラムの心はさらに混乱を極めた。瞳が揺らぐ。クラムの頭の中に描かれたのは、三つ編みの銀糸の揺れる、白い衣の姿だった。
目を閉じ、息を吐き、心の揺らぎを理性で潰す。
先生は、先生なら、時間が掛かればおかしさに気づいて来てくれるはずだ、そうすればこの状況は脱せられる。先生が、
先生が焼いてくれる。
クラムは自分の思考が無意識にたどり着いた答えにショックを受けた。先生に助けられようとしている。違う。つい先日誓った言葉が甦る。私が先生を守るのだ。そうだ。だって、そうでなければ、
(私がいる意味がない)
クラムは駆け出していた。対象は一定の距離を保ったまま離れていく、ああ、空虚だ、頭の冷静な部分で思った。空虚な行為、勢いだけ、意味がない。
それでも、このまま果てまで行けば、あるいはーーー
「クラム!」
広大な丘なのに、よく通る声が響いた。いつも聞く声の、聞いたことのない響き。クラムの動きが止まる、対象も止まる。振り返ろうと顔を横に向けたところで、丘から光の矢が放たれたのが見えた。
それは空に向かって飛び、大きな曲線を描き飛んでくる。どこに落ちるかは計測がついた。光は火だった。先生の火矢はよく飛ぶ。真上から脳天を突き刺すように矢は刺さり、対象は炎に包まれる。だが、微動だにしない。炎の中からじっとクラムを見つめている。
クラムは怯まず、まだ襲ってくる危険性からその様子を見ていた。だからだ。対象が火に崩れ落ちる最後、口が何かを話すように動いたのも、見てしまっていた。
クラムが、最初戦っていた場所まで歩いて戻って来たときには、すでに八匹は炎に呑まれていた。
煌々と燃えている。その隣に先生も立っている。弓を地面につけ支えのようにしながら、炎の方を見つめている。
少しの間、二人で何も言わずに炎を見つめていた。丘の上に気配を感じて、その時間は途切れる。
見上げた先には青年がいた。
追って来たのだろう、クラムの姿と広がる惨状を見て、まだ名前も知らない青年は、ひどくショックを受けた顔をしていた。
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