来客

 電話がかかってきたのは村から帰って二日後のことだった。朝の八時ごろ、毎日クラムは朝食後にキッチン周りの掃除をしているので、電話のあるリビングのそばにいた。結果クラムが応対したが、先生の所在を尋ねてくる声だけで相手が誰なのかはわかった。

「シーバリさん」

  シーバリは相手がクラムとわかると、いきなり話し始めて名乗らなかったのを詫びて笑った。

「木材の加工が終わったから、さっそく向かいたいのじゃがね、大丈夫ですかい?」

  クラムは部屋を見た。クラム以外誰もいない、静かな部屋。先生がまだ日課に出ているなら、しばらく戻ってこない。

「ちょっと待っててもらってもいいですか?」

  シーバリさんはかまわんよと笑う。

「一時間までなら待っててあげよう」

  冗談に笑い、受話器を切らないように本機の上に寝かせ、クラムは廊下を軽く駆ける。一時間も待たせるわけにはいかない。

 クラムは灯台に入った。先生は毎朝灯台に登っている。何をしているのか詳しくは知らないが、聞いたことはある。曰く「点検」をしているのだそうだ。

 硬い靴の足音が、灯台の階段に新しく響くようになった。この靴の硬さが何故なのか、わかったのは戦いについて考えたときだ。足技をよく用いる私のために、頑丈なものを用意してくれた。

 足音は螺旋状の階段の続く空間を上まで伝わっていく。先生もこれだけでクラムに気づくだろう。夜のうちに冷えた灯台の壁は朝もまだ冷えていて、吸う空気が潮風が混じっていてもどこか冷たい。

 上まで来ると、寒さは消えた。朝の潮風と太陽の光が見える。柵と柱のみで外まで開けたこの場所は、中央の光台とそこから天井まで繋がる太柱以外は、三六〇度見渡すことができる。

 先生は柵のそばから海を見ていた。髪が潮風に揺れている。近づいていこうとすると、先生はクラムへ顔を向けた。足音で気づいていたのだろう。

「どうしたんだい、珍しいね」

  朝のこの習慣にクラムが同行することはほとんどない。用事がなければ、灯台には上がらない。地上に出るアーバンリキュガルに、一刻でも早く対応しなければならないからだ。

『先生に私は必要ない』

 先生の隣まで来たとき、先日の思考がふとよぎった。キュッと唇を噛みそうになったが、瞬間、強く通り抜けていった潮風に前を向く。

 遠く、遥か彼方まで、海原と空が広がっている。朝の爽やかさが喉を伝わっていく。世界の美しさが目に染みて、クラムの瞳が海原のように朝の光を反射する。

「ここから見る景色は好きです」

  先生は微笑んだ。

「いつでも上ってきていいよ」

  クラムが上らない理由を知っていても、先生はそう言う。先生がここから何を見ていたのか気になったが、急ぎの用である本題を伝える。

「シーバリさんから電話で、今日行ってもいいですかって」

 よく磨かれたモノクルの奥の目と視線が合う。早いね、と先生は呟く。

「構わないと答えておいてくれるかい、降りるのはもう少し後になるから」

  クラムは笑顔になる。お客様が来るのは滅多にないことだ。「わかりました」と答え、急いで電話に戻り伝えないとと足早にその場を去る。風のような少女にグラスバードは可笑げに笑う。

 しかし、クラムの姿が消え、再び海の方を見たグラスバードの表情にはすでに笑顔はなかった。潮風に乗って感じるものに、クラムの見ることのない冷えた目を向けていた。


 電話で了承の返答を伝えると、シーバリの嬉しそうな声が聞こえた。

「少しものが多いからの、村の若者に手伝ってもらうことになったんじゃ。数人人が多くなるんじゃが、よろしく伝えといてくれるかの」

 わかりましたと伝えて受話器を元に戻してから、ふと大丈夫かなと心配になって、部屋の天井の隅を見た。

 心配なのは、来る人が増えることによる先生の反応についてだが、こればかりは仕方ないと納得するはずだ。修理してもらうのだから。

 流れのまま窓を見る。内側はともかく、外には砂や潮風による汚れが多少ある。窓ガラスは掃除しておいた方がいいかもしれない。クラムの焦点はそのまま窓に映る自分の姿に移った。すでに制服のように先生にもらったワンピースは馴染んでいる。グローブのことを思い出し、リビングの入り口の台の上に近づく。専用の入れ物に置いてあるのを手に取り、腰のあたりにある金具に穴をひっかけて付ける。この服を掃除で汚すのはさすがに今はまだ憚られる。

 キッチンの棚に行き戸を開けると、下の段の箱を取り出し、蓋を開ける。中から取り出したのは、料理の時に使っていたエプロンだ。今使っているのの一つ前のものだが、掃除用に使おうと捨てずに取っておいたのだ。

 後ろ手にリボンを結び、部屋を見渡す。窓から入る太陽光で、電気をつけていなくても十分に部屋は明るい。

 掃除道具を取りに、灯台に繋がる出入り口のそばの物置に行く。他の部屋の厚い木のドアと違って、この物置の戸は軽く簡易的だ。取手の形状も他とはタイプが違う。ただ磁石でくっつくだけのような作りだ。少し勢いをつけて引っ張って開け、中の電気をつける。

 直接電球がついているだけなので、見てしまうと光がきつい。目を逸らしながら中を探す。空気に埃っぽさを感じて片目を瞑る。物置には窓がないから、換気がしづらいのだ。

(掃除の間、ここは開けておこう)

 バケツと雑巾だけ取り出して、クラムは玄関へ向かった。


 銀の蛇口を捻り、バケツに水を入れる。雑巾と共に手を入れると、冷たい水が手から体に染みていくように感じる。透明な飛沫を小さく上げながら、硬く絞り、水の跡が残らないようにしながら窓を拭いていく。

 木戸のある窓は全部で八枚だ。半分の四枚を終えたとき、先生が灯台から戻ってきた。廊下を歩いてきた先生と、拭いていた窓越しに鉢合う。

 綺麗に磨かれた窓ガラスを見上げ、クラムが手に持っているものを軽く見て、サッシに手をかけ窓を開ける。

「掃除してくれてるのかい」

「はい。窓が綺麗な方が作業しやすいかと思って」

  そうかい、と少し笑う。クラムはシーバリの言っていたことを続けて伝えた。

「物が多いので、村の人に数人一緒に来てもらうそうです」

 言葉に、少しだけ顔が歪んだのがわかる。やっぱり少し嫌なようだ。

「……そうかい」

  答えながら、廊下の先へ目を向けている。その様子にクラムは提案する。

「先生、外に出ておきますか?それなら私から伝えておきますけど」

  意外にも、先生はその提案に首を横に振った。いや、私は家にいるよと。クラムは少し首を傾げたが、九時の鐘の音がして思考は途切れた。今は掃除をしなければならない。わかりましたと答えて、裏庭を早足に駆けていく。クラムのその姿が角を折れて消えるまで見送って、グラスバードは窓を閉めた。

 

 シーバリたちが家に着いたのは十時のことだった。先生は家にはいるものの、灯台に籠ることにしたようで、来客の対応はクラムが行った。

 ドアを打つ音に玄関のドアを開けると、にこやかに笑うシーバリがいた。

「やぁ、お嬢さん。二日ぶりですな」

  シーバリの後ろには材料の木材や金具を積んだ荷車、それに村の若者らしき人が二人、一緒にいる。よく見ると一人は、前に村で会ったダスキートに付いている一人だ、何故かクラムを見て驚いているように見える。

 目をやって確認してからクラムは視線を目の前に戻し、外へ出て玄関の戸を閉めた。

「お待ちしてました、今日はよろしくお願いします」

 一礼して、先生は別でやっていることがあり手が離せないと説明する。

「おそらく、あとで来るかもしれません」

 シーバリにだけそう言うと、あの人らしいなと笑った。

「外での作業だけになりますか?」

「ええ、そうなるでしょうな。どれ、今の状態を見てもいいですかな。何せわしも久しぶりなもんじゃから」

  クラムは頷いて、今いるところから見える、一番近い木戸のある窓に案内する。

 シーバリは木戸に触れ、ほう、と昔の自分が作ったものを懐かしんで観察していた。しばらくしてクラムの方を振り返り笑う。

「いやぁ、昔のもんですから、どうやって作ったか忘れてましてな。勘で材料を持ってきたら、なんと新しく考えてたものが、昔の自分が作ったものと同じなんじゃよ。いや全く、人は変わらんのじゃね」

  ハハハ、と軽快に笑う声と話にクラムもつられて笑顔になる。昔の先生もこんな気持ちだったのかな、とふと思った。

 作業はすぐに始まって、若者たち二人は材料を荷台から降ろしていく。クラムも手伝おうとしたが、もし棘が残っていて刺さるといけないから、ということで、手袋をしていないクラムは参加できなかった。

 一瞬腰につけたグローブのことが思い浮かんだが、これはそういうものではないと心の中で首を横に振る。

 ありがとうね、と気のいい笑顔の青年が笑う。もう一人の若者は、最初の挨拶以来目が合わない。

 大人しく外から見守ることにしたクラムは、玄関のそばの石段に座った。

 テキパキ動く三人を見ていると、くあっとあくびが出る。昼になり暖かくなって、草原には黄色く小さな蝶が不規則に飛んでいる。きっと花でも探しているのだろう。閉じた膝に肘をついて、手に顎を乗せる。穏やかな気候で、眠たくなってきた。このまま寝てしまってもいいかと目を閉じていると、軽く瞼の裏が陰った。

「何、してるの?」

  誰か近づいてきているのはわかっていたが、見て意外だったのは、目を合わせなかった方の青年がいたためだ。白く細く、弱々しい印象を与えやすそうな見た目通りの、繊細な声だった。たぶん年は少し上だろうが、年よりも若く見えて、親近感が湧いた。

「昼寝しそうになってました」

 笑顔で答えると、青年も笑う。

「作業どうですか?」

 続けて尋ねると、青年は後ろを向く。少し汗をかいた襟足が見える。

「順調だと思うよ、僕は手伝いで来てるだけだから、詳しい内容はわからなくて、言われたことをやるだけなんだけど」

  そうなのか、とクラムは空になった荷台を見る。確かに、ここにいる人は集められただけで本職ではないだろう。

「前にダスキートさんとのところで会いましたよね」

「そうだね。ダスキートさんには最近ついて行くようになったんだよ」

 昔お世話になったから、ある程度成長したらそうするつもりだったんだ、と話してくれるのを聞きながら、同年代と話らしい話をするのは久しぶりだなと感じる。協会にいた頃の回想していると、ふと青年がクラムの服をじっと見ているのに気づく。目を合わせて首を傾げると、また最初のように少し目を逸らしてしまう。だが、最初とは違って言葉が続いた。

「その…服、すごく綺麗だね、似合ってる」

  言い慣れないのだろう、ぎこちなかったが、クラムは笑顔になる。ありがとう、と言うと青年も笑顔を見せた。そのとき、おおい、と後ろから声がする。

「木戸を外していくぞー!」

  もう一人の若者が呼びかける。そばでシーバリもこっちを見て笑っている。

「しまった、行かないと」

 慌てた青年の様子にクラムも笑う。

 ああ、なんて穏やかな日だ。

 クラムも次は何か手伝えるかもしれない。そう思い立ち上がったときだった。瞬きの最中、閉じた目の遠くで、鳴き声が聞こえた。

 開けたクラムの目の色は驚きに染まっていた。動きを止めたクラムを青年は見る。

「どうしたの?」

  その言葉が終わる瞬間には、クラムは声のした方を振り返り、駆け出していた。青年の静止を意味する伸ばされた手はもはや届かない。

 鳴き声が聞こえたのはグラスバードも同じだった。同刻、再び灯台の上にいたグラスバードは、柵の前に立ち、狼の如く丘を駆けていくクラムの姿を見つめていた。

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