事例3-14

 果てしなく広がる浅い水面。どの方角を見ても、星の輝く暗闇の空の下に水があり、遥か遠くの地平線では暗闇と星の輝きを反射する真っ黒な水がその境界を曖昧にして存在していた。そこは真空になっているかと思うほど呼吸するのが困難な空間だ。どうすれば酸素を取り込むことができるのかわからず、その苦しみに悶え、転がり、全身がびっしょりと水に濡れている。

 中空には今までに見たことないほど大きな月が浮かんでいる。その月があるから、星の輝きも、境界が曖昧となった地平線もなんとか視認することができている。月光は濡れた体を刺して、全身が緩慢な痛みに覆われていた。

「まだお前さんは見えていないのかい」

 月と俺の間に大きな影が落ちる。体の痛みが少しだけ和らいで、息苦しさだけが俺を苛む。

 誰がそこにいるのだろうと思い顔を少しだけ影の方へ向けるが、月明かりが逆光となってその存在の顔を確認することは叶わない。

「ああ……違ったね。少しは見えるようになったようだ」

 女の声だった。だが、本当に女なのか怪しかった。それほどにその影は大きい。その存在の輪郭も少しぼやけている。確実にそこにいるのに、それが何かわからない。

 俺はそれを見たことがないはずだ。が、懐かしい感覚がした。

「お前さんにとって、ここは苦しいだろう」

 呼吸すらままならないのに、「女」の言葉に答えることなど不可能だ。

「だが、うつつもそんなものだとお前さんは知っている。であればここも同じだ。あちらもこちらも大した違いはない――苦悶に耐えることだけがすべてのものへ同じように与えられている。その苦悶を見つめることができる人間が羨ましいのだろう、お前さん」

 そう言われた瞬間に聖の姿がはっきりと思い浮かんだ。だが、こんな苦しい思いを聖にまでさせたくない。

「まったく、お前さん……どこまでもお人好しだな。私が『それ』を授けたのはお前さんが望んだからだというのに――しかし、現に生きるものは元来そういうものだったな。私の期待が大きすぎたのかもしれない。だが、それを悪いことだとは思わないよ。お前さんがやっと、少しだけでも見えてきたのなら、それでいい。人の生は短い。その中で少しでも見えてきたのなら、それはお前さんの望みの片鱗が叶ったということだ」

 なんのことを言っているんだ、コイツは。

「困ったね。またその目を曇らせるつもりかい……だが、人の子には一進一退という言葉があったか。人はそんなものだと知っているのに、これだけ長くいると忘れてしまうものだな」

 顔は見えないのに「女」がうっすらと笑っているのだけはわかった。声もどこか嬉しそうだ。

「水鏡……」

 その声を聞いて俺の口が勝手に動いた。どうして言葉を発することができたのか不思議だった。

「ああ、わかっているじゃあないか。そのとおりだよ」

 ようやく思い出した。俺はこの声を聞いたことがあった。

「その右目は、私の分け身が引き起こしたものだったな。なんの因果かとあのときは笑ったよ――いや、因果などというものではないか。お前さんが望んだことだったな。何でも自ずと引き寄せられるものだ。お前さんが心底望めば、お前さんの人としての生にも自ずと様々なことが巻き起こるのだろうさ」

 畜生、好き勝手に言ってくれる。俺の人生に分け入ってきたくせに。まるで他人事だ。

「どこまでいっても他人事だよ。だが、それに情を傾けるか否か、それは『余所者』である私の勝手だ。お前さんに文句を言われる謂れもないよ」

 心の悪態をすべて見透かされている。だが、それすらも嬉しそうだ。だから俺は安心して悪態を曝すことができる。

「……お前さんが思っているほど私は『お人好し』ではないよ。先も言っただろう、すべては私の勝手にすることだと」

 冷淡な言葉だと思った。でもその声は今までよりもずっと穏やかだ。

 そうだった。「僕」は既に知っていた。神はそこにいるだけで、何かをするのは常に人の心だ。だから神の為すことも、すべては人の心に原因がある。人が何かを願わなければ、望まなければ、何も起こらない。それは神に縋るという意味ではない。人が心を動かして初めて因果が発生する。

 人の心が通い合わなければ愛情が生まれないのと同じように。

 あんたがいなければとっくに終わっていた人生だ。心を通わすだなんて、そんなのは綺麗事だと思っていた。

「それはお前さんが勝手に思い込んでいるだけだ。お前さんが現を生きているのは……綺麗事があるかもしれないと思えたのは、お前さんが生きてきたからだ。因果が逆なんだ。だから、そうだね……人の子が言うようなことを言葉をお前さんにあげようか」

 その声は今までで一番楽しそうな響きを含んでいた。

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