事例3-13
「自分のことを全部わかってる人間なんていない。他人についてもそうでしょ。人類がみんなわかり合えるなら世界はこんな形をしていない」
「……スケールが、大きいな……」
「マクロでもミクロでも同じことだ。でもね、皐月さん……」
左手に重ねられていた熱がふと消えたかと思うと、次は左頬に同じ熱を感じた。目を瞑っていてもわかる及川の男らしい親指が日野の目から零れ落ちる涙を拭う。
「俺はそうやって、手探りで世界を捉えようとする皐月さんが好きなんだ。皐月さんは自分のことを嫌いな人間だって言ったけど、俺は皐月さんのそういうところも全部、欲しいよ。わかり合えないってわかってても、皐月さんのことを全部知りたい。全部ひっくるめて愛させてほしい」
優しいのに強く揺らがない言葉だった。日野は自身が及川のように力強い言葉を恋人に向けて言えない人間だと思うと、一層みすぼらしい気持ちになった。
「……俺は、こんな無自覚で醜い部分なんか捨てたいんだ」
「皐月さんがゴミと思うものでも俺は全部拾っていくよ。皐月さんがそういうものを捨てて、忘れても、俺はずっと抱えて生きていく」
「……やめてくれよ……」
涙が止まらない。どうすれば止まるのかわからない。日野は戸惑ったまま、小さな声で抵抗の言葉を呟くしかできない。
だが、そんなささやかな抵抗で止まるような人間性を及川は持ち合わせていない。
「俺の生き方を皐月さんは止められないよ」
「……欲張りはいつか身を滅ぼすぞ」
「俺の身が滅ぶまでこの生き方で、皐月さんのそばにいる。それだけだ」
「……本当に、やめてくれよ……」
これは抵抗ではなく懇願だ。だが、及川の語るとおり及川の生き方は所詮他人である日野に変えることはできない。
――だからこそ、お前なんだな。
良くも悪くも及川は変わらない。それは日野が日野皐月である限り、及川から向けられる愛情が変わらないことの証明でもあった。無自覚の愛情に、いつの間にか安心しきっていた。その愛情を自覚した今、日野はようやく目を開くことができる。
明るく甘い色を宿した恋人の視線は今はまっすぐに左目を見つめている。きらきらと輝く光そのものだ。だがその光がずっと日野の表情を見ていたと気づくとすっかり涙は止まってしまい、次は恥じらいの思いが心を満たす。
「やっと見てくれた……あ、バラの色が……」
「……おい、人の心を読もうとするの、やめろ」
「読みたいんじゃなくて皐月さんが花びらを出すからわかってしまうだけじゃん」
「それをやめろっつってんだろ。色から読み取ろうとすんな」
「おうい、夫婦喧嘩は終わったか? いつまでもちちくりあってんじゃねえぞ! 落ち着いたんなら後始末手伝え。言っておくが、及川は救急車な」
村雨洋司はなんだかんだ面倒見が良い。人をよく観察しているからこそ面倒を見ることができる。日野と及川を周囲が放っておいてくれたのも、村雨の采配なのだろう。村雨の号令に日野はすぐさま立ち上がり、涙のあとを乱暴に拭う。
「今行きます!」
振り返ると会館の入り口に村雨が立っているのが見えた。文句のような檄を飛ばしてきた男はその言葉とは裏腹に、いかめしい顔へ少しだけ笑みを浮かべている。
「ええ〜、俺結構平気なんですけど、本当に病院に行く必要あるんですか?」
「そんなもん医者に聞け! 観念して胃洗浄受けてこい、バカ野郎!」
ベンチに座ったままの及川の文句へ被せるように村雨が怒鳴る。ほんの少し浮かんでいた村雨の笑みが一気に憤怒の表情に変化して、日野はまた、曖昧な微笑みを作る羽目になった。
(次回、事例3完結です)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます