ダインスレイヴ――「塹壕戦の悪魔」その3
「え?」
塹壕の角に向かって、歩兵銃を構えたまま、その場にいる全員が、息を呑んだ。
驚いてしまっていた。
何故なら、その人影が———
壁を走っていたからだ。
もの凄いスピードだった。カドを曲がる時、勢い余って、遠心力に吹っ飛ばされる、その勢いのままに、からだを真横にし、コーナーのアウト側の土止め板を蹴って、こちらに全力疾走で向かって来たのだ。
非現実的な光景、———しかし、
「
俺は声を涸らして、怒鳴った。驚いて固まってしまえば、間に合わなくなってしまう。悪夢に、呑み込まれてしまう。
俺は、
一斉射撃。
間に合った、俺は思う。一定の距離が保てれば、刃物より銃の方が強い、当たり前だ。
「下だーッ、脚を狙えッ、転がって突っ込んで来るぞッ!」
発砲直後にボルトハンドルを引いて排莢、再装填、すぐに引き鉄を絞る。こっちには今、約十人の兵士がいて、それぞれが構える小銃には、それぞれ十発ずつ弾丸が装填されている訳だから、合計一〇〇発の弾丸で、サーベルを振り回す原始人共と、戦っていることになる。
射撃を躊躇わなければ、一斉射撃のタイミングを逃さなければ、こちらが勝つに決まっているのだ。
そう、———
決まっている、筈だった。
先頭を走っていたアフガン・ストールのそいつは、ピタリと狙いを定めて動かない十挺のライフルの、その銃口を認めると、左手に把持した小楯を前面に出して、野球の「スライディング」の要領ですべり込み、その盾の下端で地面を「ガリガリガリガリッ」と派手に削り取りながら、止まった。
その間、そいつは表情を変えない。
幅:五〇センチ、
縦:七〇センチ
くらいの寸法の、小さな防弾盾。
座り込んだ状態でからだを小さく縮めると、正面からの角度のみ、ギリギリ弾雨を凌げるか、凌げないか程度の、そんなサイズ感。銃撃から身を護るには、あまりに頼りないシロモノ、と言わねばなるまい。
左腕と、左脚で、裏から盾の上下を押さえ付け、銃撃の衝撃に備えているように見えた。左腕をまっすぐに突っ張り、左脚はやや曲げた状態で盾を蹴り込み、がむしゃらな力で、盾を支える。さらに、防弾盾を小ささを補うかのように、右手の幅広のサーベルを上向きに立て、それを盾の右端に添える。
すぐに、他の連中も、塹壕の中を、壁を、或いは上から跳び降りて、こちらに向かって駆け込んで来た。そして、先頭のそいつと同じ様に、すぐにスライディングに移行、直後に塹壕を塞ぐ形で、防弾盾の「壁」が形成された。———速い、そう思った。
連中は、一言で言うと「慣れて」いた。
これら一連の動作は、臨機応変に「何となく」やっているのではなく、繰り返し、血が滲むほど反復して訓練し、からだに叩き込んだ技術に見えた。
十名が放つライフル弾が、連中の貧相な防弾盾を、穿たんとばかりに叩く。連中は、ジリ貧の筈だった。やがて盾と盾の、その隙間に弾丸が突き徹り、何人かが被弾して、そこから総崩れになる。そう踏んでいた。そうなる、筈だった。
しかし、やがて、射撃して、排莢し、再び射撃する、その何巡目かに、僅かな、本当に僅かな「隙」が生じた。
一言で云うと「タイミングが合ってしまった」ということになる。
こちら十人の射撃音がきれいに重なる、そんな一瞬があった。もちろん「たまたま」だ。その威力に、
一瞬の、静寂。
俺たちは全員(斃すなら、今だ———)そう思い、意気込んで、
銃撃に、空白が生じた。時間にして、
一秒。
壁を形成していた防弾盾の一枚が、不意に
「あっ」
その曲刀は、風を巻いて、凄まじく唸りながら、見えないほどの速度で回転し、俺をめがけて飛んで来た。
俺の、眉間めがけて、飛んで来たんだ。真っ直ぐにだ。俺は首を右に振り、必死でそれを避ける。
ド・ッ———!
俺のすぐ後ろにいた仲間の胸に、その鈍色のサーベルが、深々と突き立つのが見えた。———刹那、
ズ・ドンンッ———!!!
と痺れるような振動が来て、見ると、胸板に突き立ったサーベルの
あいつだった。
最初に姿をみせた、
アフガン・ストールの、あいつ。
測ったように盾を跳ね除け、
サーベルを投げ付けてきた、
———あの男。
サーベルを投げるのと同時に地を蹴り、
その軌道を追って猛然と疾駆し、
仲間の胸郭を貫くのとほぼ同時に、
自分が投げた、
そのサーベルに追い付いたのだ。
凄まじい脚力と、疾走力。
息づかいが分かるほどの至近距離から見る、
戦士の、横顔。
アフガン・ストールの間から覗く、
その外気に晒された戦士の眼が、
こちらを見た。
厳しい、武術家の眼だ。
その眼尻が、少しだけ細められた。(やるじゃないか、よく避けた)そう言って、笑っているように見えた。
しかし次の瞬間、男は反対側に首を振り、こちらに背中を向けると、そのまま回転しながらサーベルを引き抜き、横殴りに斬り付けてきた。竜巻のような、凄まじい速さ。
避け切れない、と思った。
だって、速すぎる!
避け切れない、ハズだった。
しかし、恐怖に腰が砕け、体勢が崩れた瞬間に、
足元が滑って、尻もちを
もちろん、ただの偶然だ。
ヘルメットのすぐ上で、重いサーベルが空を斬る。
甲高い、笛が細く鳴るような音―――
俺は、腰を抜かして這いつくばった体勢のまま、両手・両足で土を掻いて逃げた。すでに防弾盾の「壁」は解かれて、連中が、あの禍々しい曲刀を振りかざして、こちらに襲い掛かりつつあるのが見えた。
「ハッ」
俺は、恐怖していた。いや、驚愕していた。そして、体腔の底の方から息をひとつ、深く、短く、吐くと、塹壕の壁を一瞬で、ひとっ跳びに攀じ登ると、猛ダッシュで塹壕から脱出しようとした。
しかし刹那―――
サーベルを手にした別の敵兵が、塹壕に跳び込んでくるのに出喰わした。そいつの手にしたサーベルの切っ先が、少しだけ動いて、俺に向く。しかし俺は、そいつに突進し、そいつの股の間を、動物じみたスピードで
生存本能が、命じた行動。
「あばッ、あぐッ、ぐっ、ぬがああああーーー!!」
何か、声を上げながら、俺は上体を起こし、二本の脚で、猛ダッシュを開始する。
「ぎゃあああああーーー!!」
「やッ、あッ、ぐああああーーー!!」
背中の肌を、仲間たちの悲鳴が叩く。しかし、走るのを止める訳にはいかない。後ろを振り向いては、いられない。
俺は走った。走り続けた。途中何度か、敵兵に遭遇したが、決して、走ることを止めなかった。何処をどう逃げたのか?俺は全く憶えていない。あの地獄を、どうして死なずに生き残ることができたのか?その理由が、今でも、全然分からない。
ただ一つだけ分かっているのは、
確かなのは、
獣となって逃げる俺の、その感情を無くして見開かれた瞳孔に映っていた光景は―――
地獄そのものだった、
ということだ。
連中のサーベルは、危険だった。
連中はサーベルを、腕の筋力では振らない。
全身を水平方向に回転させながら、
或いは縦方向に回転して移動しながら、
その勢いのままにサーベルを振るうのだ。
分厚い地金の、鉈のような形状の曲刀。
肉を骨ごと断ち斬るための、人斬り包丁。
サーベルの自重以上の力が、
人間の体重以上の力が、
慣性と、重力の、
この自然界を支配する壮大無辺な「力学」が、
その鈍色のサーベルの刀身に載り、
襲い掛かる。
車輪のように転がって、風を巻いて縦に回転しながら襲い掛かる分厚い刃物に、頭を、ヘルメットごと頸まで叩き割られて斃れる仲間を見た。
水平方向に回転して、滑るように飛んでくる半月刀に、頭が、なす術なく斬り飛ばされるのを見た。
上から振り下ろされる鉈状のサーベルを、ライフルの銃身を両手で支えて防ごうとするも、その鋳鉄製の銃身もろ共に、頭の鉢を真っ二つに断ち割られるのを見た。
塹壕に群れる味方に、ボーリングの球よろしく激突し、どんどんと脚を、次々に脛を、薙ぎ払い、斬り払い、血だまりに沈めてゆくのを見た。
脚が、腕が、頭が、指が、バラバラと、そこかしこに散らばり、積み上がる。
しかし、もちろん連中とて、決して無事だった訳ではない。
援護射撃は、あった。しかしそれはサーベルを手に戦う者達の安全を、十全に担保できるレベルの「火力」ではなかった。
防弾盾は、あった。しかしそれは銃撃に対して安全を担保するには、あまりに貧弱で、小さ過ぎた。撃たれてしまう者も、かなりの数に上っていた。
しかし連中は、
撃たれてしまってからの暴れっ振りが、
本当に凄まじかった。
例えば、脚を撃たれ、盾が少し下がってしまったところで頸筋を撃たれ、動きが止まって、胸と、腹にも被弾して、しかしそいつは、防弾盾を前方にガッチリと構え直し、血の溢れる口元を一文字に結ぶと、完全に無言のまま、銃撃に向かって突撃し、その間にも何発も被弾して、しかし盾で、銃を構える兵士の群れに体当たりして吹っ飛ばし、さらに全身を、縦に、斜めに回転させながら、敵兵の肉を、斬り刻み、斬り飛ばし、撃たれても、撃たれても、サーベルを振るうのを止めなかった。そうして、そいつ一人が骸と化して動かなくなるまでに、少なくとも十人以上の味方の兵士が、犠牲となった。
連中は、決して休まなかった。一人残らず、常に全力疾走していて、しかも、全く疲れないようだった。
走っている相手に、銃弾を命中させるのは難しい。しかも連中は、ただ真っ直ぐ に走っている訳ではなく、左に、右に、目まぐるしく方向転換しつつ、前転での移動も組み合わせて、ジグザクな進路で、距離を詰めて来た。そして、二十メートルくらいの距離まで来ると、今度は直線的に、真っ直ぐこちらに向かって、低く転がりながら、猛スピードで体当たりして来た。とてもじゃないが、歩兵用の小銃なんかで、防ぎ切れるものでは無かった。
そして、これは当たり前だが、連中は一人では無かった。危険極まりない
たまったものじゃない。
塹壕内に向けて機銃を据え直し、掃射して応戦する者もいたが、連中は、決して怯まなかった。壕の地面に防弾盾を突いて、しかしあの貧弱な盾で、機銃の十二・七ミリの徹甲弾が防げる筈もなく、ボロ雑巾のように被弾し、座り込んだ状態で絶命する。そして、その味方の
連中の一人が、
捨て身の、例の前転動作で向かってくる。
もの凄いスピード。
三・四人でライフルを斉射し、
それが全弾命中する。
三発、四発、五発、………
全然止まらない。
効いてない。
九発、十発、十一発、………
動きが、急激に緩慢になる。
だが、どれくらい効いているのか、分からない。
十五発、十六発、十七発、………
漸く前転する動作を止め、静止する。
地面に、突っ伏した状態。
死んだ。
そう安堵して一息吐き、
全員が銃口を下げた、次の瞬間―――
その
全員が銃口を上げ、発砲する。しかし、間に合わない。一人は、ヘルメットの縁に沿って頭蓋を
こうして、何人もの兵士を道連れにして、漸く、今度こそ、本当に動かなくなるのだ。
そして誰も、そのサーベルを握った骸には、近づけなかった。怖ろし過ぎた。
**
どれくらい逃げたろう?
どれくらい、走っただろう?
気が付くと、眼が回るほどの夕焼けの下、俺は独り、誰もいなくなった戦場に立ち尽くしていた。いや、とぼとぼと歩いていた。目的も無いまま、覚束ない足取りで、ただ何処までも、歩いていた。
そこかしこに、
多数の夥しい数の
五体揃った遺骸は、一つも無かった。
或る者には、腕が無く、
或る者には、脚が無く、
或る者には、十指すべてが無く、
或る者には、頭が無かった。
そして塹壕の中には、
遺骸がうず高く積み上がっていて、
その底には、
まるで汚水のように黒く、人の血が流れていた。
そして視界に広がるそれ等すべてが、
夕陽に焼かれて、
真っ赤に染まっていた。
地獄、だ。
人は、その罪深さゆえに、
等しく、地獄の業火に焼かれて死ぬのだ。
これが、
この戦場で俺が見たもののすべて。
ガレスチナの大地を真っ赤に焼き尽くした、
地獄の獄卒どもの舞い踊る、
殺戮の光景だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます