第30話 静寂の海
ふたりでひと息ついてから、船の現在位置割り出しの作業にかかったが――
周囲の観測データと海図のデータを突き合わせても、現在位置は判明しなかった。
たいへんな事態にぼくたちはあわてたが、ぼくの秘蔵の古式海図データを読み込ませたところすぐ現在位置が表示され、ふたりそろって深いため息をついた。
現在位置は「第1842恒星系」である。
「はー、よかった。まさか現行の海図に載ってないなんて。ナナ、よくこんな古いの持ってたね。これ何十年前のデータ?」
リリィが背もたれに寄りかかりながら言う。
「さあね。仕入れはしたけど、いつのデータかは分かんない」
そう言いながら、航法画面を指さしてみせる。リリィはそれを見て自分のモニターをのぞきこんだ。
彼女は指をしばらく画面になぞらせ、そして止めた。
「あれ、おかしい。作成日と、航路局の電子署名がエラー表示になってる。これってデータが壊れてる?」
「いや、壊れてはないんだ。この海図は一部がいまのデータ形式と違っていて、いまの航海システムだと読み取れないんだよ」
リリィがぎょっとした目でこちらを見る。
「……ええと、ナナ。ちょっとよく分からないんだけど、海図のデータ形式は、少なくとも千年前には現行の形式だったはずだよ。『いまの航海システムだと読み取れない』って、あなたいつのデータこの船に仕込んでるの」
さて、いつのデータだろうか。ぼくもよく知らない。すさまじく古いこの海図、再びシステムに読み込まれる日が来てさぞ喜んでいるだろうな。
たださすがに、千年以上前のデータとは言い切れない。たしかにデータ形式についてはリリィの言うとおりだが、後になってに細部の仕様が変わった可能性がある。
たとえば五百年前に小さな仕様変更があり、それに合わせたシステムのアップデートをしていた場合。当時は全宇宙に通知されただろうが、アップデートが完了して百年も経てば、それが忘れ去られてもおかしくない。
ぼくはそう主張したが、リリィは別のことを追及してきた。
「それって結局、何百年か前、忘れ去られるほど昔の海図データってことでしょ。このさい百年も千年もあんまり関係ない、あなたどうしてこれ持ってるの」
「……いやあ、ほら、その、いつか何かの、役に立つかなー、って」
「それで、この海図買ったの?」
リリィの視線が、なんだかつめたい。
「……はい」
彼女はしばらく口をとがらせていたが、急にふわりと表情をゆるめた。
「はあ……そういう買い物、よくないんだけど――今回はちゃんと役に立った。うん、えらいよ、ナナ」
うーん、こども扱いか――いやでもこう甘やかされるのも案外いいな。
「それで、ナナ。この海図、使えるの? 一部とはいえ、データ形式が違うほど古いものでしょ、航行に支障はでない?」
うん、それはもっともな疑問点だが、おそらく心配はない。
「エラーが出ているのは一部の細かいデータだけで、図面の読み込みはちゃんとできてる。だから海図としての機能は問題なくて、自動操縦との連動もできるはずだよ」
それを聞いたリリィが、指先で少し自分の顎に触れた。
「なら当時のデータを使って航行は可能。だけどその頃なかった支障物や、活動状態が変化した星、衝突した天体等はこの海図からは分からない。それから、現在は使用不能な転移クリスタルが使用可能として記載されている可能性がある、か」
うん。リリィの言う通り、この海図を使用するうえで注意すべきことは、だいたいそのあたりだろう。
それを踏まえたうえで、行き先の検討をする。
ぼくとしては、荷主から預かった急行貨物を積んでいる以上、もう遅れてでもいいから目的地に着きたい。
しかしここからその星系まで、どれだけかかるか分からない。本船のエネルギーがもつかどうかも判断できない。もし無理に航行してエネルギー切れを起こし航行不能になったら、ここまで生きのびた意味がなくなる。
ここはもう、積荷のことはあきらめて、どこでもいいから近い港に入るべき――ぼくはそう考えた。
リリィは義勇団の危険について懸念を示した。
本船は逃げ延びこそしたものの、機密データがこちらに漏洩したことは変わらない。こちらを見つけ次第、再び攻撃をかけてくるはずだ、と。
確かにそうだ。ぼくたちはただ逃げただけで、問題は解決していない。本船が機密データを持っている、あるいはその可能性があるだけで、また狙われる。
義勇団からすれば、この船さえ破壊すれば、それ以上の機密漏洩はなくなるわけだ。この船さえ、破壊すれば。
だとすれば――
「――よし、バラすか」
うん、我ながらいい考えだ。
「バラすって……まさか、あの暗号表を?」
「そう、できるだけ大きくて強そうな国へ行って、そこの軍隊か何かに全部バラす。あの義勇団の暗号だ、解読できれば全人類が救われるから、たぶん他の国とも共有するだろう。そうすれば、機密を知っている人間が無数に増え、義勇団の攻撃対象も無限に増えて……おれたちまで手が回らなくなる」
聞いているリリィはなんだか不安そうな表情だ。
「でも、そんなことして、報復される可能性はないの?」
「大丈夫。あいつらが怖いのは漏れた暗号表のほう。その暗号表が広く共有されてしまったら、おれたちに報復しても何の意味もないよ。この船1隻沈めても、広まってしまった機密情報はもう消えない」
ね? と念を押すように彼女をみると、むこうも視線を合わせてくる。
「そっか、報復がなさそうなら、それでいい。わたしたちが安全確保のためにすることは、あの暗号表をできるだけ早く、できるだけ広く伝えること、だね」
「そういうこと。だから行き先は、ある程度近くて、かつ有力な軍事力でも持っていそうなところがいい。どうかな?」
リリィが頼もしくうなづく。
ぼくは紙コップに残っていたジュースを一気に飲み干した。それを見たリリィも自分の紙コップに口をつけたが、ぐっと飲めずにコップを置いた。
・・・・・・
さて、航路計算をしたいところだが、その前にすこし気になったところを指摘する。航海に直接の関係はないが……
「ねえリリィ、この星系の名前って――」
視線を送って、発言をうながす。
「うん、わたしも気になってた。『第1842恒星系』って名前、普通より一桁少ないんだよね」
そう、珍しい桁数だ。普通は5桁、それ以上になる星系もあるのに。
とても歴史の古い星系はたしかに4桁番号になることがある。だがそれは太古の昔から人が住んでいた、あるいはその往来があったところだけだ。
見れば海図にはたくさんの注釈が付記されている。宇宙船の標準航路らしきラインが幾本も描かれ、場所によって細かく制限速度が設定されている。それに惑星への進入コースと出発コース、管制区域に交信周波数まで。
ここは有人星系なのだ、この海図では。
だがいま観測してみても、ここには何もない。航路のライン上に船は1隻もおらず、航路標識も探知できない。人為的な電波もなく、海図どおりに無線周波数を設定しても何の音声も入らない。
ここにあるのは自然物だけだ。ただひとつ、転移クリスタルという例外を除いて。
ぼくたちが通過した転移クリスタルは、かつて栄えたであろうこの有人星系への直行用のものだったらしい。
ここで紡がれたであろう長い歴史は、すでに閉じている。住んでいた人々は死に絶えたか、他の星系に散り散りになったか。現行の海図に載っていないのだから、いまはこの星系の存在自体が忘れられている。ここの歴史が閉じたのは、いったい何百年前だろう。
ぼくたち船乗りは、全宇宙を収録した立派な海図を持って航海をしている――そう思っている。
でも実は、こんな海図にすら忘れられた海がいくつかあって、そこで人々が紡いだ歴史を抱いて眠っているのかもしれない。
航法画面上で、何も知らない古式海図だけが、その賑わいを誇らしげに表示している。
・・・・・・
古式海図と現行の海図を比較しながら検討すると、ある程度進んだ先に有人星系があることが分かった。現行の海図に載っているから、もう無人になっているなんてことはない。
名前は「第57389恒星系」である。
転移クリスタルを使ったテレポートが2回、通常のテレポートが5回。航行にかかる日数は6日である。エネルギーはもちそうだ。一度目で使う転移クリスタルはこの星系にあり、動作するか不安だったが、さいわいその方向から強い魔力が放射されている。心配なさそうだ。
この場所から通常テレポートを5回も行って、やっと現行の海図の範囲に出られる。この古式海図がなければこんな航路は算定できなかったろう。
海図上で引いたラインが自動操縦装置に認識され、セットされた。自動操縦もちゃんとこの古式海図を正式なものとして認めている。あとは探知装置をすべて起動し、衝突防止装置で障害物を監視していればいい。
自動操縦、「執行」ボタン点灯。
ぼくは船内放送の送信ボタンを押す。
「総員へ伝達する。本船の現在位置は『第1842恒星系』である。検討の結果、新たな行き先は『第57389恒星系』に決まった。これより出発する。なお、現在の位置は現行の海図に記載のない星系であり、この先しばらくの間、古式海図のデータを基に航行する。当時と状況が異なる場面も想定される。航行中は船体の急な動きに注意せよ」
たぶんびっくりするだろうな、あの9人は。「古式海図のデータを基に航行する」って突然言われても、意味がわからないだろう。
あ、そうだ。あいつらも一度くらいシャワーを浴びさせなければ。正直使わせたくないが、6日間の航海で不潔にされたら嫌だ。服の洗濯は……リリィじゃないからいいや、裸で放っておけ。
さあ、行くか。
リリィの顔をみて、目をあわせる。
いいね――?
「執行」ボタン押下。船は古式海図のデータに従い、動き出した。
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