第4話
真っ赤な絨毯が敷き詰められた豪奢な部屋に、シャンデリアの眩い光を浴びながら、一人の青年が絵を描いている。
それは油絵で、緑色の服を着た猟師が笛を吹きながら虚空を歩いていく絵だった。
青年は包帯(バンテージ)を巻いた手で、右手は正しく左手は逆構えに絵筆を持ち、パレットから抜き取った絵具をキャンバスに塗りたくっていく。
だが、おそらく彼を見た者は皆、彼には絵画の才能がないと気づく。
なぜならそんな緑色の服を着た猟師よりも、もっと優れた描かれるべき題材がすぐそばにあるのだから。
そう、それは彼自身。
爪先まで覆い隠す鴉羽色のローブをまとい、顔のほとんどが隠れているが、白髪とその異相までは隠せない。
充実した脂の満ちた顔でキャンバスを、その向こうにある彼自身の心の世界を赤眼で見抜くその顔には、左眉の上から鼻の上を通りほとんど右の首筋付近まで届く深い傷跡があった。
それは綺麗に切断された後、治癒の力があったばかりに生まれてしまったひどく醜い奇跡だった。隆起し、腫れて膿んだその傷は完全には塞がらず、癒着と剥離を繰り返し血混じりの汗を流している。
白髪赤眼の絵師。
彼は魂を絵筆に封じてしまったかのように、無心に絵を描き続けている。
部屋に入室してきた真嶋慶とエンプティにも気づかずに。
だが、絵筆をポットの水に浸したところで、終末の太陽に似た真紅の赤眼が二人を捉えた。
「おや?」
白髪の絵師は飛び散った絵具で七色に塗り分けられている包帯に覆われた手をぱんぱんと叩いた。
「ごめんね、絵に夢中で気づかなかった。いま、いいところでね。ノックはしてくれたかい?」
「し、しました、セルディム様」
緊張し返答した奴隷人形を、セルディムと呼ばれた絵師がチラリと見やった。
その瞳に冷酷な色が一瞬、走ったようだったが、それはすぐに柔和な雰囲気に飲み込まれて消えた。
「そうか。どうもいけないな、絵のことになると周囲がおろそかになる。失礼したね、君。ええと――バラストグール君でいいかな?」
「好きにしろ」
エンプティは主の顔を盗み見た。
慶は、相手の異貌になんの興味も好奇も感じていないようだった――あの傷を、眼や鼻かなにかと同じように、心からまっすぐに見つめている。
それがどうした、とさえ思っていないかもしれない。
セルディムが笑って手を振った。
「嘘、嘘。冗談だよ冗談。怒った? いやだな、ちゃんと名前ぐらい聞かせてよ。久々のお客さんなんだから。僕はセルディム。この部屋の『フーファイター』だ。君の名は?」
真嶋慶、と答えると、セルディムはその名を味わうように目を細めた。
「真嶋慶、か。聞いたことがないな。ふうん。……ところで、その娘はどうして、君のうしろに隠れているんだい?」
セルディムが、慶を盾にしているエンプティを指差した。
「僕が怖いのかな?」
「その傷が嫌なんだろ、なァ、エンプティ」
「い、いえ……」
エンプティは小刻みに震えている。セルディムはため息をついた。
「やれやれ、この傷のせいだといいんだけど。ま、いいや――それで、真嶋慶。君は何を求める?」
慶は部屋の壁一面に飾られている、白髪の男が描いた絵の列を眺めながら答えた。
「真剣勝負」
「……真剣勝負、ね」
白髪の絵師は安物の安楽椅子に腰かけて、慶を見た。
「また随分と高値の希望だ」
「いやなのか?」
「いやってことはないさ。僕は君のような男から、この蒸気船を護るためにいるのだからね……とはいえ、あまりお勧めはしないな」
「どうして?」
「君は、僕に勝てないから、さ」
にこやかに微笑むセルディムに、慶も不敵な微笑を浮かべた。ただし、不快感が搾り出したように滲んでいたが。
「よく聞けよ、エンプティ。これがいわゆるブラフってもんだ」
「面白いことを言うね。この僕の自信が、ブラフ? ……ふふ、なんだか君を絵にしてみたくなってきたよ」
「俺は高いぜ」
「いくらだい?」
慶はゆっくりと、壁にかけられている絵の一枚を指差した。
火の落ちた暖炉のマントルピースの上に掲げられたその絵には、貴婦人のものと思われる裸の『右腕』だけが描かれていた。
今にも動き出して手を伸ばしてきそうな、そんな魔性の雰囲気をエンプティは慶のうしろに隠れながら感じていた。
「なるほど、『右腕』か」
セルディムが絵を振り返りながら言った。
「残念ながらそれは駄目だ。あれは勝負のトロフィーだからね。そうか、君は肉体を取り戻したいのか。本物の肉体を」
「それ以外に選択肢があるか?」
「あるさ」
セルディムがエンプティを見た。
「『バラストグール』が『フーファイター』へ挑戦した場合、結末は二つある。一つは、フーファイターが保管している『本物の肉体』の一部を受肉し、次の戦いへ進む道。君が選ぼうとしているのはこちらだ。だが、もう一つの道をその人形は話していないようだ。そうだね、君?」
「ひっ……!」
セルディムの冷たい視線がエンプティを捉えた。
「与えられた仕事はしっかりこなしたまえ、奴隷人形。君の魔法が解けてもいいのか?」
「あ、あのっ……」
なにか答えかけたエンプティを、慶が片手で制した。
「一ついいか」
「なんだい、真嶋慶」
「これは俺のモノだ。そうだったよな? エンプティ」
「は、はい……わたしは慶様のものです」
「そうだよな。じゃ、セルディム君。――俺のモノに無遠慮な口の利き方はやめとけ。その薄汚い傷跡を、バッテンに増やされたくなけりゃあな」
セルディムは沈黙した。
悪になるか善になるか迷っている胎児のように気まずげな視線を向けた後、ふっと息をついた。
「すまなかった。そう、それは君のモノだったね。失敬した」
「分かればいい」
「なるほど、確かにこれだけ傲慢な男なら、その人形がもう一つの道を君に話さなかったのも頷ける。絶対にイエスとは言わないだろうな――君は――僕に勝ち、この小さな部屋とボディパーツの新しい主になる、なんてことは」
「そうか、そういう仕組みか。お前を倒せば、俺はお前になれるのか。その――フーファイターとかいうやつに?」
「そうだ。
そうすれば、君は消滅の危険に身を晒されず、いつまでもこの蒸気船に乗り続けることが出来る。
終わらない夜の船に――挑戦者を待ち構えながら。
とはいえ、単騎のバラストグール一匹でいるよりは、ぐっとラクだし、快適さ。
しかしそれでも、売るかい?
喧嘩を」
「当たり前だ。俺は生命を踏み倒しに来たんであって、鎖に繋がれに来たわけじゃない」
「――鎖か、ここが」
セルディムは己の部屋を見回した。
そこは彼のアトリエであり、巣であり、そしてたったひとつの領地だった。
それを敗失することは破滅を意味する。破れた領主に待っているのは、追放だけだ。
「いいだろう!」
セルディムは手で弄んでいた絵筆をポットの中に投げ捨てた。
絵筆の先から煙のような朱色が匂い立ち、水が赤く染まる。
「君の挑戦を受けよう、バラストグール。君は脂貨を、そして僕は『夢の右腕』を賭けて――真剣勝負、ギャンブルだ」
「俺は賭博師だった。だから奪うと言ったものは必ず奪う」
慶は絵師の腕を指差した。
剣のような歯を剥いて、笑う。
「貰った」
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