第5話



 こんな話を知っているかい、とセルディムが語り始めた。

 

「僕は雪国の生まれでね。

 収穫が終わって冬になると、曇った空から重たい雪が降り始めるんだ。

 都会の雪と違って、それは家や人を押し潰す災害さ。

 小さくて冷たい焼夷弾みたいに、あれはゆっくりチラつきながら、僕らの生活を脅かす……

 何もしていない僕たちを。

 もっとも、子供の頃からそれが当たり前で、つらいとも苦しいとも思わなかった。

 それは享受すべき運命、単騎の個人にどうこうできるようなものじゃなかった。

 でも空想だけはしていたよ、空飛ぶ靴をつけて、この村から出て行ければどんなに素晴らしいだろう――と」

 

 慶は壁際にかけられた寒村の絵を眺めながら、セルディムの話を聞いている。

 それを確かめてからセルディムは続けた。


「子供の頃の空想なんて、大人になれば忘れてしまう。

 鍬と鋤と雪の生活が、そういったものを全て押し潰してしまうんだ。

 けれど僕はそうならなかった。

 死ぬまでずっと、空飛ぶ夢を見続けた。

 ――なぜって僕は夢を見たから、本当に、この目で」


 ある日、とセルディムが言った。


「朝、目が覚めた僕は胸騒ぎがした。

 起きたら家の中に誰もいなかった時のような心細さを覚えて、あたりを見ると両親と妹はまだ眠ってる。

 突き刺すような肌の寒さが明け方だということを教えてくれる。

 僕は薄い布団から這い出して、靴を履いて外へ出た。

 二階の窓からね。一階なんて、春にならないと降りられないんだ。

 だから冬はいつも、一面の銀世界――ぽつぽつと離れ小島のように民家の二階が僕の家と同じように突き出している。

 地平線の先で、虚ろで曖昧な太陽が燃えていた。

 いつも、その光景。

 吐息も凍る温度、丘の上の耕作地へ続く道を来る日も来る日もシャベルで掘り抜かなければならないだけの苦役の世界――でも、あの日だけは違った。足跡があったんだ」

「――足跡?」


 セルディムは遠い記憶を、言葉のシャベルで掘り返していった。


「僕の村に動物なんていないんだ。みんな雪に潰されて死んでしまう。

 僕らにあったのは、雪に強い種類のわずかな作物と、街で売るための草を編んだ草履や雨傘だけ。

 なのにあの日、窓から這い出した僕が見たのは、地平線の向こうへと続いていく馬の蹄の跡だった。

 僕はね、馬なんて生き物がいるんだなんてこと、知らなかったよ。

 だいぶ後になってから、あの蹄が馬のものだったと知った。

 だけどその時の僕には――それは悪魔の足跡のように見えた。

 僕は戦慄し、恐怖し、何度も目を瞬いた。

 まだ僕は眠ってるんだ――何度も目を瞬きすれば、何度目かには夢が覚めて父さんと母さんの隣で寝てるんだ。

 そう思った。

 だけど、夢は覚めなかった。

 いるはずのない馬の足跡は、僕の知らない世界へ続いていったままだった――太陽の向こうに。

 僕はその空想に強烈に惹きつけられた。

 食べるものにも困る暮らしで萎縮し切った精神に、それは酒より熱く火を点けた。

 僕はそれこそ競走馬のように駆けた。

 どこまでも続くその足跡を追いかけていれば、その先には新しい未来が待っているような気がした。

 一度も振り返ったりしなかった。僕は駆け抜け、そして見た。

 足跡は、銀世界の真ん中で消えていた」

 

 慶はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。


「長く博打をやってると、奇跡としか思えない出来事になんていくらでもぶつかる。だが、そんなものは全部、偶然のまやかしに過ぎない」


 そうだね、とセルディムは寂しそうに慶の言葉に頷いた。


「僕もそう思った。いろんなことが頭の中を駆け巡ったよ。そう、いろんなことがね。

 その生き物は、足跡を逆走して戻ったんじゃないかとか、誰かが足跡を途中でかき消したんじゃないかとか、穴でも掘って蓋をして消えたんじゃないかとか。

 でも僕は、その生き物が『空を飛んだ』のだと信じた。

 いくつもある選択肢から『それ』だけを選んで握り締めた。

 だってそうだろ――そこからわずかな距離にある、普段は山の頂上になっている切っ先に積もった雪に、最後の足跡が刻印されているのを見てしまったのだから。

 もうどんな解釈も通用しない。僕には一つの真実しか見えはしなかった。

 この世界には、空を飛ぶ生き物がいる。蹄を持った鳥ではない生き物が。

 そしてそれはきっと『悪魔』のように強く気高く、そして美しい生き物に違いない」

「……それで結局、お前は、その〈悪魔〉に出会えたのか?」

「いや。残念ながら、僕の夢はそこで途切れた。あの足跡のようにね」


 セルディムは一度、話を止めた。

 だが、不思議な沈黙を保って待ち続ける慶に、思い返したように一言だけ添えた。


「僕は、『悪魔』になりたかった。

 真っ白に塗り潰された世界、何も踏み締めるものがない場所なんて関係ない。

 望めばどこへでも飛んでいける、なんでも出来る、そんな気高き強さに――そして」

 

 セルディムはまとっているローブの裾を持ち上げた。

 そしてそこに隠されていたものを見て、慶は目を見張った。

 青年の足は、人間のものではなかった。

 それは『蹄』になっていた。

 爪先が二つに分かれ、鋭利な牙のように磨がれている。

 ところどころに錆のように血がこびりついていた。


「この蒸気船で、僕は『フーファイター』になった。そして『願い』は叶えられた。僕はどこへでも歩いていける。ほら、こんな風に」


 セルディムは蹴破るように壁に蹄を押しつけると、そのままぐっと壁に立ち上がった。

 重力――そんなものがこの蒸気船でまだ流通しているのだとすれば――を無視して、セルディムは慶を横ざまに見た。


「残念ながら、僕の蹄は馬じゃなく豚の蹄だけれどね。それに、虚空を踏み締め歩んでいくことも出来ない。僕のは不完全な夢だった――だが、それでもまだ、君を滅ぼし、餓えを凌ぐぐらいならまだ出来る」

「――そう思うか?」

「お待たせしたね。勝負について語らせてもらうよ」


 とん、と赤い絨毯に着地したセルディムは、言った。


「ギャンブルは誰にでも出来る簡単至極なものでなければ嘘だ――複雑なルールなんかいらない。

 シンプルであることはよいことだ。

 あらかじめ必要な知識なんてない。高等な数学も不要。

 誰でも勝てる――誰でも負ける。

 それでこそ、ギャンブル」

 

 戦を告げる鼓のように、セルディムが蹄で床を踏み締めた。


「勝負は、『悪魔の空中散歩』。

 ルールはそう、シンプル。

 これから僕はこの領地を出て、蒸気船の中を散策し、六つの足跡を残してくる。

 僕がここへ戻ってきたら、君は僕が残した六つの足跡を探し出す――

 全て見つけられれば君の勝ち、出来なければ僕の勝ち。いいかな?」

「確かに簡単だ、だけどいやだな」

「いや? いやかい」

「いくつか質問させてもらう」


 いいとも、とセルディムが了承した。慶は尋ねた。


「時間制限は?」

「ああ、あるよ。この蒸気船に時間なんて概念はないけれど、砂は落ちてくれるからね」


 セルディムがローブの袂から、ガラス瓶のようなものを取り出して慶に放り投げた。

 慶はそれをあっさりかわし、背後でエンプティがわあきゃあ言いながらなんとかそれをキャッチした。

 振り返りそれを確かめてから、慶が言う。


「あれは?」

「砂時計。体感時間でおよそ二時間ほど――かな。ご不満?」

「いや。――もう一つ、その足跡っていうのは、俺が探せないようなところに捺(お)せるのか?」

「たとえば?」

「船の外壁、あるいは船底、どこでもいいが俺の行動範囲にならない場所だ」

「それはないよ。勝負の前提が崩れる。あの右腕の――」


 セルディムは暖炉の上の絵を顎でしゃくった。


「あの絵が僕をがんじがらめに縛りつけている。君を納得させられないようなルールには出来ないんだ、やりたくてもね」

「ふうん。――その足跡は、蹄鉄の型やなにかで、お前以外の誰かが捺せた場合、それは有効か?」

「言ってることがよく分からないな。誰かって?」

「たとえば、ほかのバラストグールやスレイブドール。お前が入り込めないような小さな隙間に蹄鉄か何かで足跡をつけられたり、あるいは十個も百個も偽の足跡をばら撒かれたりしたら、俺の負け」

「へええ、面白いな。賭博師っていろんなことを考えつくんだね。想像もしていなかったな、そんなやり口。ま、心配はいらない。足跡は必ず『僕自身で捺す』よ。道具も使わない。自前の蹄があるからね」


 軽く足を持ち上げて笑うセルディムに、またもやエンプティが怯えたように震え始めた。慶はそれを睨んでから、セルディムに向き直る。

 

「やめろ」

「わかったわかった――あとは? もうない? なら、これを渡しておくよ」


 セルディムが手首のスナップを利かして一枚の紙片を慶に投げ渡した。

 慶は弾くようにそれを掴み取ると、指で挟んで照明にかざす。

 それは、名刺。

 流線型の筆記でセルディムの名が書かれ、その横に小さな親指大の蹄の跡がスタンプされていた。土か何かで捺したのか、ぽろぽろと破片が落ちている。

 

「これは……」

「僕の蹄の『型』さ。それを参考にしてくれ、地図のようにね。おっと、安心してくれ。それが『足跡』ということはない。

 それじゃ、僕は散歩に行ってくるよ。

 ――空中を歩くかどうかは、僕の気分次第だけどね」


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