第4話「時の部屋」
気がつくと、私は408号室の中にいた。
見慣れたはずの部屋の様子が、まるで違って見える。古びた壁紙は剥がれておらず、窓ガラスは埃一つない輝きを放っている。部屋の中央には、新品のテーブルと二脚の椅子。漆塗りの茶托には、湯気の立ち上る煎茶。そして窓際には、巨大な設計図を広げる二人の女性の姿。
私は自分の姿を窓ガラスに映して確認した。グレーのスーツは、確かに建築家姉妹と同じデザイン。肩のライン、襟の形、スカートの丈まで寸分違わない。手元の時計は23時を指している。でも、これは夢なのだろうか。
「夢ではありませんよ」
振り返ると、北条姉妹が微笑んでいた。瓜二つの容姿だが、たたずまいに微妙な違いがある。姉の美咲はより凛とした雰囲気、妹の麗子はどこか柔らかな印象を漂わせている。
「私が美咲。妹の麗子です」右側の女性が言った。「この408号室は、私たちの最後の作品なの。そして、最高傑作でもあります」
「この設計図をご覧なさい」美咲が巨大な図面を指差した。「通常の建築図面には決して使わない記号の数々。これらは全て、時間を操作するための装置なの」
図面には複雑な計算式が書き込まれ、奇妙な記号が散りばめられている。天井の高さ、窓の位置、壁の厚さ。全てが緻密に計算され、何かの法則に従っているように見える。
「黄金比だけでは足りなかったの」麗子が続ける。「私たちは、時間という次元を建築に組み込もうとした。この408号室は、その集大成」
美咲が壁に手を当てる。「この壁の向こうには、昭和から平成、そして令和へと流れる時間が詰まっている。でも同時に、このアパートが建てられた時の記憶も」
「でも、それは禁断の研究だった」麗子の声が暗く沈む。「建築における時間操作。誰も認めてくれない私たちの理論」
「だから竣工前夜、私たちは決断した」美咲が窓際に立つ。月明かりが彼女の姿を透かし、まるで古い写真のように見せる。「この部屋と共に、時の狭間に身を隠すことを」
「事故死を装って?」
姉妹は静かに頷いた。
「山下さんは、この真実に気づいた最初の管理人だった」麗子が説明を続ける。「彼女は深夜の巡回で、この部屋の異変に気がついた。そして...」
「松原さんという入居者を装って、もう一人の自分を演じ始めた」美咲が言葉を継ぐ。「それは、この部屋が持つ力。誰もが自分の中にある、もう一つの可能性に気づかされる」
窓の外では、景色が目まぐるしく変化していく。高層ビルが消え、また現れる。若い並木が成長し、また若返る。街灯がLEDから水銀灯に変わり、また戻る。そして最も驚くべきことに、空の色さえも変化していく。現代の濁った空が、30年前の澄んだ青に戻り、また現代に戻る。
「この現象は、竣工前夜から始まったの」美咲の声が響く。「私たちの実験は成功した。でも、それは同時に失敗でもあった。時間を操ろうとした私たちが、逆に時間に取り込まれてしまった」
「でも、それは必ずしも不幸なことではなかった」麗子が茶碗を手に取る。湯気が立ち上る様子が、まるで時の流れを可視化したように見える。「この部屋で、私たちは永遠に建築について考え続けることができる」
「そして、時々素敵な来客もある」美咲が微笑む。「山下さんも、松原さんも、そしてあなたも」
二人の姿が、一瞬透け上がる。まるで古い写真のように。
「そうして私たちは、この部屋の管理人となることを選んだの」
「山下さんと松原さんは...?」
「彼女たちも、この部屋の真実に気づいた人たち」美咲が答える。「でも、まだ準備が足りなかった。この部屋が求めていたのは...」
その時、管理人室から非常ベルが鳴り響いた。甲高い音が、二つの時間の境界を揺るがすように響く。姉妹の姿が、一瞬揺らめいた。
「あら」麗子が眉をひそめる。「予定外の来客ね」
「もうこんな時間」美咲が壁の時計を見上げる。「あなたは、現実の時間に戻らなければ」
廊下から慌ただしい足音が聞こえてくる。村瀬さんの声。そして...知らない男性の声。警察か、はたまた別の管理会社の人間か。
「五十嵐さん!どこにいるんです!」
姉妹は穏やかな表情で私を見つめた。
「もう行かなければ」麗子が言う。「でも心配しないで」
「大丈夫」美咲が椅子から立ち上がる。その動作には不思議な優雅さがあった。「あなたはもう、この部屋の真の管理人なのですから」
「真の管理人...?」
「時を見守る者として」麗子が微笑む。「この部屋には、まだたくさんの秘密が眠っているわ」
「そして」美咲が付け加える。「山下さんと松原さんも、きっとまた会いに来ます。23時になったら...」
テーブルの上の茶碗から、まだ湯気が立ち上っている。その香りは、妙に懐かしい。まるで遠い記憶の中の香りのように。
足音が近づく。ドアが開く音。振り返った私の目の前には、現代の408号室が広がっていた。古びた壁紙、曇った窓ガラス。でも、確かにその向こうには、もう一つの時間が流れている。
「五十嵐さん!」村瀬さんが駆け寄ってくる。「無事でしたか。警察の方が...」
私は頷いた。そして、窓の外を見る。そこには、かすかに30年前の景色が重なって見えた。高層ビルのない街並み、若い並木道。そして、遠くの空には、懐かしい夕焼けの色。
「大丈夫です」私は答える。「これが私の新しい仕事の始まりなんです」
村瀬さんは怪訝な顔をしたが、それ以上は何も聞かなかった。ただ、彼の手元の時計が23時を指している。
この時間から、私の本当の仕事が始まる。時を見守る、408号室の管理人として。そして、きっとまた会える。山下さんと松原さん、そして北条姉妹と。
二つの時を持つこの部屋で、これからも23時の訪問者を待ち続けよう。
(完)
『23時の管理人室』~消えた先輩とアパートの謎~ ソコニ @mi33x
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