隔たりについての想い出(昭和編)

ゆかり

第1話 月の輪熊の話

 これは昔話だ。

 放っておけば埋もれてゆく、小さな町の昔話。


 昭和三十年代後半から四十年代前半、その町には二頭の月輪熊が居た。大きな大人の熊だ。

 どちらの熊も、檻の間際まで行って誰でも好き勝手に見ることが出来た。動物園などに数時間乗らねば行けぬ田舎の子供にとって、この熊たちの存在は心躍るものだった。


 一頭は、お好み焼き屋の前で二重の檻に入れられていた。畳一畳あるかないかの狭い檻だ。熊が立ち上がれるだけの高さはあった。

 お好み焼き屋の前の道は路地と言ってもよいくらいの幅しかない。そんな場所に大きな熊がいたのだ。

 この熊は、私が小学生の頃、いつの間にか居なくなった。病気か寿命で死んだのか、何処かの動物園にでも引き取られたのか、ひっそりと居なくなった。


 もう一頭は町の真ん中を流れる高良川(仮名)の川原に、やはり同じような檻に入れられて飼われていた。お好み焼き屋の熊よりひとまわり大きかったから、こちらは雄で、お好み焼き屋の方は雌だったのかもしれない。

 いなくなったのはこちらの熊の方が先だった。檻のあった川原で鉄砲で撃たれて死んだのだ。餌やりか檻の掃除だかの際に飼い主に怪我を負わせて逃げ出したらしい。

 

 高良川というのは、標高2,751メートルに水源を持つ一級河川だ。幾つかの支流と合流しつつ、頻繁に土石流の発生する山の断崖を下り、町の真ん中を通り抜ける。

 日本有数の急流河川だそうだ。

 町に入るまでの高良川は急流荒廃河川などと言われているが、町に流れ込む辺りからは穏やかな流れに変わる。結果、ゴロゴロとした大きな石が川原に置き土産として沢山転がる事になる。

 山を抜け町の真ん中を流れる髙良川は、広いところで川原を含め百メートルほど。町の中央辺りが一番広い。ここでの流れは優しく穏やかだ。だが町の端の方では川原もほとんど無く崖下を流れる谷川そのもの。川幅も狭い。流れも当然激しい。表情豊かな川、とでも言っておこうか。


 マップアプリで空から町を見てみると、山と山との間の僅かな土地に家々がひしめき、それを西と東に二分して、この高良川が流れているのがよく判る。町全体が河川敷のようにさえ思える。


 私はこの川原で石から石へ飛び回って遊ぶのが大好きだった。安定の悪い石に着地するとグラつくが、そこは身軽な子供。直ぐに次の石に飛び移るから転んだことなど一度もない。

 だが、熊の射殺の話を聞いてからは恐ろしくて暫く川原へは行けなくなった。何に恐怖したのかは自分でも判らない。熊が逃げた事実が恐かったのか、熊の怨念を感じたのか、鉄砲や撃った人間が恐ろしかったのか。或いは『生と死』を隔てるものに畏怖の念を抱いたのか。

 とにかく私は、その辺りには絶対近づきたくないと思っていた。


 それでもある日、恐る恐る川原に行ってみた。射殺された場所はずっと川下の方だと聞いて、離れた場所なら……と意を決して行ってみたのだ。だが、そこで私は大きな石に赤い斑点がいくつも飛び散っているのを見てしまったのだ。

「血だ……。熊の血……」

 川の風がどんよりと生臭かった。私は大慌てで家に帰って大人たちにその話をしたのだが、みんな笑って取り合わない。

「ペンキやろ。 誰かが川原でペンキ塗りして飛ばしたんやろ」

 と言うのだ。熊が撃たれたのはもっと川下だと。


 今から思えば確かにあれは間違いなくペンキだったのだろう。本物の血なら、あれほど鮮明な赤のままな筈がない。

 誰かが川原で紛らわしい事をしたせいで、私は川原で遊べなくなった。


 この山間の町には猟師さんも何人かいて、時々、その家の玄関口に死んだ熊が置かれていたりした。その熊には、不意に生き返って襲い掛かって来るかもしれない、という恐さは感じたが、それは正体のはっきりした恐怖だ。

 あの川原で殺された熊の話に感じた恐怖はもっとこう何かが違うのだ。


 そう言えば、この頃よりもっと小さい頃、猟師さんが山から連れ帰った子熊に触らせてもらった事もあった。ころころ、よたよた、可愛かった。

 熊の寿命は長くて三十年ほどらしいが、大人になるのは三年~四年だという。もしかしたら、そんなふうに孤児になった子熊を可愛いからと飼った結果、成長してどうにもならなくなって狭い檻で飼い続ける事になったのだろうか。だとすれば、熊も飼い主も互いに愛着があったのかもしれない。

 切ない結末になってしまったけれど。

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