第14話

亜希ちゃんは、Webの方も忙しくなって、休みがちになっていた。それでも、会社で顔を合わせていたしお弁当もありがたいことに継続してくれている。


 畑もレベルも違うけど、私にとっては切磋琢磨し合える相手。

 これまで、自信をなくしていただけで亜希ちゃんはやっぱりすごい。


 そして、レオも。レオは、父親が画家で母親が画商だそうだ。

 2人とも、小さい時から絵を描いてきた人達。私はまだ絵を始めてから半年もたっていない。亜希ちゃんとレオが絵の世界にいた時間とはケタ違いに少ない自分が惨めに思えた。

 

 恵まれた環境に居た人が羨ましい。

 優しい両親、生活に困らない財力、サラブレッドの血。


 私といえば、耳が聞こえなくなってから始めた油絵。年齢だって2人よりもぐんと上。間もなく30歳になる。到底追いつけない時間と環境に悲しみよりも怒りがこみ上げる。


 それは、自分に対しての怒り。どんな状況だって自分のやりたいを貫いている人は大勢いる。私は、これまで何をしてきたんだろう…。小さい頃に好きだったことって思い出せない。親のご機嫌取りに忙しい私には、自信を持って好きだと言えることなんてなかった。


 亜希ちゃんもレオも好きだ。でも、環境を味方につけて私が欲しい技術を持っている二人に、羨ましいという嫉妬心も湧いていた。


 この前、美大クラスに行ったからかもしれない。絵に対する姿勢も技術もすべて刺激的だった。

 ナツキちゃんの言っていることは正解で、低レベルが行ってはいけない場所だ。私は、やっと一つステップアップして今度は自画像のデッサンに入っただけ。油絵の具の使い方を覚えた程度。

 

 これから将来をかけて受験を控えた子たちの邪魔はできない。

 みんな、志望大学に合格して欲しいと遠くから祈るしかできない悔しさもある。


 むしゃくしゃしてそのまま絵にぶつけた。

 お酒を飲みながら、スケッチブックに思いのままを描きまくる。


 今なら、闇の中の手がリアルに描けるかも…。集中することで、ぐちゃぐちゃな黒い感情から気持ちをそらしたかったんだと思う。2人とも私の好きな人だから、こんな気持ちになった自分も嫌いだった。


 初心者のデッサンクラスを卒業して、今度は火曜日のデッサンクラス。仕事も、土日の方が休日出社手当がでるから、今度は平日休みでシフトを組んだ。

 

 平日の午後ということもあって、定年後の高齢の方や主婦の人がいて人数も6名程度と少なくて落ち着いたクラス。


 “今日は、この石膏像を描いていただきます。まずはスケッチブックに十字線を引いてそれを当たりにして構図をとります。台座も入れた方が構図が取りやすいので、初めての方は台座も入れて大まかに形を描いてください。静物デッサンと同じように光の設定も意識して描いてみてください”


 海斗さんが言い終わったと同時にレオが入ってきた。


そーっとしているつもりだろうが、当たり前に目立つ。


「レオ、学校は?」

海斗さんがちょっと怒り気味で問いかける。

「もう、3年生は自主勉ばっかだから。自主休み」

「ズル休みだろ」

 そう言ってレオを小突く。

「俺もデッサンやっていいですか?」

「大人しくやれるならな」


 うんうんと言って、みんなに挨拶して私の隣にイーゼルをセットした。

 やりづらい…。圧倒的なレベルの差。


 私は、まだまだ顔のパーツがうまく描けない。目も鼻も口もどこか歪。十字に引いた線の意味がわからなくなってしまう。


 この前までの私なら、レオにどうやるの?って素直に聞けていた気がする。恥ずかしいとか思っていなかったのに。


 海斗さんが教えにきてくれた。やっぱり、美大クラスとは大違いだ。手がかかるだろうな。美大クラスだけでやった方が、海斗さんも自分の作品にもっと時間も取れるだろうに…。


 気付いてしまった嫉妬心と劣等感が醜い。そんなことを感じて、自分を小さくさせていた。

 

 二時間必死で石膏像と格闘して、また授業の終わりに添削をお願いする。

 集中しすぎて息をし忘れていたのかというくらい、ふうっと大きく息をした。


 レオは楽しそうに、まだスケッチブックに向かっていた。

 ふと見ると、笑ったり、怒ったり、泣いたりといくつもの表情をしている私が描かれていた。


 「レオ!それ私?すごい…」

 “うん!石膏像はつまらないからさ。みんなもお互いをモデルに描けばいいのに。人の顔のパーツを観察できて、ちょっとは面白いよ”

「そうなんだ」

 レオのスケッチブックを手に取って、じっくり見る。

 レオがあっちの方を見ながら話し出す。

“えーっと。人物はー、顔のパーツの感覚をとるのが難しいから、そのためのぉ石膏デッサンー…なんだよ!”


 多分、後ろで海斗さんが言わせている。レオが海斗さんみたいなポーズをしたから思わず笑ってしまった。


 “今日も美大クラスにおいでよ!それまで時間があるから、一緒に公園に行こう。みなみ、モデルになって”


「受験シーズンでしょ。この前は甘えさせてもらったけど、もう行かないよ」


 感情が隠せないレオは、仏頂面をした。


「公園には付き合うよ。特に予定ないから」


 レオはやった!と両手を上げた。多分その視線の先に海斗さんが睨んでいたのか?そっとその手をひっこめた。二人のやり取りの間に立って、なんだか面白い。


 海斗さんがレオと話があると言うので、私は先に公園に行く。

 

 いつもの猫が居ない。鼻が冷たくなるくらいの寒さで、ストールをグルグル巻きにしてホットコーヒーを買ってベンチに腰を下ろす。


 すぐに、レオとなぜか海斗さんも一緒に来た。


“俺と2人は、心配なんだって”


 海斗さんがレオを小突く。いつも、海斗さんはレオを小突いているな笑。何気に2人は仲良しだ。


 “こいつが手を出さないとも限らない。頭の中はそういうのばっかだろ。お前の歳は”

 “そんなことしねーから!”


「いや、もしされても私殴れちゃう思いますよ笑。私そんな、しおらしい年齢じゃないので笑」


 “そういうことも、させたくないの”

 “だから、そんなことしねーから!新しい課題のために、みなみにモデルをして欲しいだけ”


「今度の課題は何?」


 “絵を描きなさい”

 レオが言う。


「だから、何の絵?」


 “『絵を描きなさい』が課題だよ。実際に入学試験にもなっているんだ。どう解釈するかは自分の頭で考える。追い詰められてしまっても楽しく表現できるのか。描きたいものを自分なりに表現できなければ、時代から取り残されるっていう意図があるみたいだよ”


 海斗さんが丁寧に教えてくれた。


 “仕方ないな。せっかくだから、二人を描こう。あっちで立ってて”


 “お前に描かれるなんて、恐怖でしかないな。どんな生物にされるんだか”


 海斗さんと2人の絵を描いてくれるなんて、ちょっと嬉しくなる。

この前のお礼もしたかった。

 

「この前は、ありがとうございました。本当に勉強になりました。色々な人の分だけタッチもさまざまですね。楽しかった」


 “それは良かった。強い刺激になってないと良いけどってちょっと思ってた”


海斗さんが、私の心を見透かしているようで驚く。素直に、あの時から抱いた劣等感や嫉妬心、焦燥感を話す。自分の生い立ちのこととかも…。また、ごまかし笑いが出ている自分に気付きながらも、全部を吐き出した。


 “聞こえなくなってからの世界は生まれ変わった感じなのかな。今の感情は、成長の証だと俺は思うよ。辛いだろうけど、価値観が変わる時はその苦しさを乗り越えないといけないんだ。それは、誰かが手を取って導いてくれるわけじゃない。年齢が高いからって、すんなりクリアできるわけじゃないんだよ。自分にしか出来ない課題なんだ。これまで純粋に羨ましいと思っていたことが悔しいに変わるって、自分がそこに近づいているからでる感情でしょ。大丈夫。みなみさんは一生懸命、絵に向き合っているのを俺はちゃんと知っているから。俺だけじゃなく、みんなわかっているはずだよ。劣等感や嫉妬心、焦燥感…。そういう感情があったって、誰もみなみさんを嫌わない。大丈夫。これまでのみなみさんのままで大丈夫だよ”


 海斗さんの“大丈夫”が私の心に染みわたる。私は、泣き笑いのぐちゃぐちゃな笑顔のまま海斗さんを見る。海斗さんは、優しい笑顔で私を包み込んでくれていた。

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