第13話 押し付けられた離縁状。
徒歩での参拝がこれほど疲労を伴うものだとは知らなかった。
手ぬぐいで額の汗を拭く。また季節は春に差し掛かる前であり、吐く息も白い。ここで風邪をひいては元も子もないのだが。美耶子は気を引き締めなおして少し先に鎮座する真っ赤な鳥居を見据えた。
鳥居をくぐってしまえば美耶の体力は限界だった。夜明け前に出発したはずだが、太陽はすでに目の高さまで昇っている。そのとき、美耶子は夜のうちに凍っていた雪に足を取られてすっころんだ。咄嗟についた手が雪のせいでひどく冷たい。こんなところで情けない。もうひと踏ん張りだと着物についた雪を払った時だった。目の前に手を差し出され、手の主を見上げる。そこには雪かきすきを持った色白の巫女が微笑みを湛えて立っていた。
差し伸べられた手を借りて立ち上がると、彼女は美耶子が先日お邪魔した社へ目を向けた。
「倉橋さまの奥さまですね」
よく覚えているものだ。美耶子は感心しながらうなずく。
「ええ。伝えたいことがあるんです」
「奥さまは運がよろしい。偶然、倉橋さまは今ここにいらっしゃいます」
「つまりそれまでは別の場所にいたということですか?」
巫女の発言に美耶子は首を傾げる。もちろん伏見稲荷大社ですべての仕事を完結しているとは考えていなかったが、てっきり主に出仕している場所なのだと思っていた。
「お聞きになっていないのですか。……そうでございます。ここ数日は御所に滞在なさっておりました。何やら結界がどう、とか」
巫女に促され、社に足を踏み入れる。
朝ということもあり、社の中は巫女たちの行き来が激しかった。その中を色白の巫女と美耶子がゆったり並んで進む。
そして巫女はとある一室の前で足を止め、膝をついた。潜めた声色で室内にいる人間に話しかける。
「倉橋さま。お客人でございます」
「入れ」
襖越しの声は菊吉のものだった。自然と背筋が伸びる。美耶子はお守りがあったはずの袂を握りしめ、それから襖を静かに開いた。
畳の上で膝を折りたたんで座っている菊吉は、手の中に巻物を広げてなにかを読み上げている。
美耶子が巫女と目を合わせると、彼女はすぐに襖を閉じて去っていった。室内に菊吉の呟きだけが落ちている。
美耶子は袂を握り締め、意を決して口を開こうとした。しかしそれは、とさり、と巻物が畳に落ちる音に阻まれる。菊吉が手に持っていたものを放り出したのだ。
「奇遇だ」
菊吉は疲れているのかくまの滲む目をぎゅっと閉じてから薄く開く。
「私も話したいことがあった」
菊吉の目線は美耶子の袂に向けられている。明らかにそこが空であることに気づいているようだ。
美耶子は「なんでしょう」と尋ねる。
「……これをやる」
薄い懐から取り出されたのは白の立て文。紙の中央には達筆で『離縁状』と書かれている。美耶子は受け取る前に、後ずさって拒んだ。
「やめてくださいっ!」
「受け取れ。もう付き合いきれない」
菊吉の瞳はひどく冷たい。美耶子は必死に首を振った。
「いいえ、……いいえ、受け取りません! どうして突然、そんなことをおっしゃるのです。わたしは今日そんな話をするために山を登ったのではありません!」
伝えなければいけない。美耶子は菊吉の力になれるということを。
美耶子は前のめりになって胸を張った。
「聞いてください! わたしは己一人で化生に立ち向かってみせました。わたしは無力ではありません。菊吉さまのおそばで役に立てるのです!」
喉がかすれる。焦って冬の山を登ったせいだ。けれど、ここで菊吉の気持ちを引き留めなければあとはない。
「ですから!」
たっぷり息を吸って叫んだ。
しかし勢いは菊吉の一言で両断される。
「出て行ってくれ」
美耶子はぐっと喉を詰まらせて眉尻を下げた。
「……どうしてです。わ、わたしは……っ」
「お美耶」
わがままな子をたしなめる親のように名を呼ばれ、美耶子は押し黙るしかできなくなってしまった。
菊吉の顔はひどく消耗している。なのに、なぜ信じてくださらないのだろう。
悲しみは徐々に怒りに変わった。美耶子の悲しみに下がっていた眉は、力をもって吊り上がってゆく。美耶子は目の前に置かれた立て文を乱暴に掴み上げると、菊吉に叩きつけた。
投げられた文はへたり、離縁状の文字が歪む。
「絶対に出て行ったりしませんからっ!」
美耶子は捨て台詞を吐き、わざと足音を鳴らして立ち上がった。菊吉は色のない目で美耶子を見上げると、すぐに巻物を手に取り作業に戻ってゆく。
「屋敷で待っていますから!」
目もくれない様子にありったけの感情をぶつけて、美耶子は苛立ちの気持ちのまま襖を閉めた。
手の中のお里からいただいた草子に目線を落とす。一
美耶子は白い息を吐きながら顔を上げ、通りの向こうを眺めた。あそこに違いない。
豆腐屋はずいぶん古びていた。建物の柱は雨風に食われて傾いている。瓦もところどころ吹き飛んでおり、次に大きな嵐がやってきたら建物がすべてなかったことになってしまいそうだ。
しかし暖簾だけが違った。京紫に染められたそれは鮮やかで、まだ終わっていないという意思を感じさせる。
暖簾をくぐると大きな桶が鎮座していた。その中には水に沈んだ豆腐がたくさん並んでいて、どれも作りたての美しさを誇っている。美耶子は袂を抑えながら桶をのぞき込んだ。お里がいつも持ってきてくれていた豆腐はこれなのだ、と思うと感慨深い。
夢中になって眺めていると、店の奥から笛のような声が聞こえてきた。
「あらあら、何故ここに」
店の家紋が刻まれた前掛けをしているお里が、目を丸くして出てきたのだ。美耶子は深々と頭を下げる。
「地図に唯一、印がついていたもので、いつもはここにいらっしゃるのではないかと」
「どうしていらしたのです。あたくしはお美耶さんに怖い思いをさせてしまったのですよ」
お里は申し訳なさそうに目線を逸らした。美耶子はいいえと首を振る。
「
「ですがそれは言い訳にならないのですよ」
美耶子は微々たる動作で首を傾げかけた。誰への言い訳だろう。おそらく美耶子にではない。
「……菊吉さまに何か言われましたか」
「いいえ、あたくしが自分で申し上げました」
お里は奥から木の簡易な椅子を持ってきた。座るように言われて腰掛ける。足の長さが均等なおかげか座り心地は悪くない。美耶子は行儀よく膝の上に手をそろえた。
「旦那さまと出会ったのは、この店でした。この店は……元来人の手で動いておりました」
美耶子は店の奥を眺める。しんとしていて人の気配はない。
「前代の亭主はもうかなり前に亡くなっておりましてねぇ。化生であるというのに仲良くしていただいたあたくしが、この豆腐屋を継ぐことにしたのですよ」
お里はちいさく、ほろろと鳴いた。これほど寂しさの滲むような声を聞いたのは初めてだ。美耶子は手を握り締め、息をのむ。
「しかし化生のやる豆腐屋など、見えぬ人間もおりましょうから……すぐに経営が困難になります故困っていたのです。そこへ、旦那さまがいらっしゃった」
──お前はずいぶん人に慣れているね
菊吉はお里の事情を見抜いてみせた。そして条件付きで、うちに働きにこないかと言ったらしい。
「条件とはなんですか?」
美耶子が尋ねた時、通りの方から忙しない足音とお里を呼ぶ声がした。お里は目尻を下げて、ご苦労様ですと声をかける。その若い男子はこの豆腐屋の暖簾と同じ門が刻まれた法被を羽織っていた。
「彼は
「おいくつなんですか」
「十五だと聞いておりますよ」
延年は肩からよいしょと棒を下ろすと、空になった桶をお里に見せて快活に笑った。
「お里さん、今日も昼は完売だぜ」
それから美耶子にはっと気づき、今度は礼儀正しく腰を折る。途端纏う空気の変わった様子に、美耶子は戸惑いながら頭を下げた。
「倉橋美耶子と申します。延年さまは町で何を……?」
「見た通り、振売ですよ。菊吉さんが突然社会勉強だと言い出して……美耶子さんは菊吉さんの奥さんですよね?」
美耶子は頷く。元気な少年だ。しかし十五とは思えないほど大人びてもいる。
「それで……条件とは彼ですか?」
お里に向き直り尋ねると、お里はそうですと肯定を示した。
「人間をこの店に置いて繁盛の手伝いをする、代わりに屋敷へ通い女中をやってほしいと。その時にしかと約束したのです」
お里は大きな羽根を小さく折りたたんで俯く。
「もし屋敷の人を傷つけるようなことをしたら、その時は首を切ってくださいと」
だから屋敷に来なくなってしまった。菊吉も理解し、引き留めることなく見送った。妻の仕事に慣れ始めた美耶子は何も知らずに取り残された。
美耶子は裏に働いていた話を知り、目を瞠る。
つまり菊吉は、美耶子をやせ我慢だと思っている可能性があった。確かに、あの時は身の毛がよだつほど恐ろしかった。けれどその後美耶子は立ち向かう心を手に入れているのだ。そして葉を突き付けられるだけの度胸も。
「お美耶さん、お話ができるとよいですねぇ」
お里は美耶子の手を握って言った。どうして話をしろとこれほどまでに念を押して言っていたのか、今ならよくわかる。
化生は話が通じない。会話ができるのは人間同士だけなのだ。
桶の中に
「……はい」
そして帰り際、美耶子は出来立ての豆腐をいくつかいただいた。
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