第14話 すれ違う思い。

 久々に嵐がやってきた。春も間近、吹雪ではないが叩きつける雨風は冷たい。

 美耶子みやこは曇天を見ないふりして薙刀の刃に手を添える。赤い液体は拭き取られていて、汚れていた様子の見る影もないが、美耶子は刃が吸っている血の量をしかと覚えていた。その分ずしりと重く感じている。この重みは菊吉きくよしに捧げるものだ。


 ふうと細く長く息を吐く。

 もう一度、きちんと話をしたい。感情的になって出て行くとは、己の未熟さに額を抱えたくなる。


 藍色のこしらえぶくろに薙刀を戻す。嵐は美耶子を浮足立たせた。凶兆の証であることはよくわかっているが、鈍色の雲に空が覆われた夜は菊吉が帰ってくるのだ。


 奥の部屋から順に行燈あんどんへ火を灯してゆく。屋敷の中が、ぽつぽつと温もりを携えた。美耶子は廊下に佇んで、玄関が開くのを待った。

 半時経てば、戸に近づき足を畳む。もう半時経った頃には、片手に草子があった。


「……」


 雨粒が地面を叩く音の中に異分子が混じっている。ぴんと張った紙に雨がぶつかる、鈍く奥行きのある音だ。美耶子は草子を脇に置いて、戸の裏に泥を含んだ足音が聞こえるのを待った。


 がらり、と戸が開く。

 まず視界に飛び込んできたのは、化生も食ってしまいそうなほど大きく黒々とした蛇の目であった。次に泥のついた足袋と、細身の足元、黒の羽織が見え、美耶子は頭を下げた。


 菊吉は美耶子の後頭部を見つめ、黙ったまま傘の水気を払う。そして汚れた足袋を脱ぎ、屋敷に上がって、やっと口を開いた。


「実家に帰れ、と言ったはずだ」

「はい」


 美耶子は静かに答える。


「言葉の意味が分からないか」

「いいえ」


 首を振り、毅然として顔を上げた。

 菊吉の表情は歪んでいた。それは思っていたものよりもずっと悲しげで、寂しそうで、悔しそうだ。


 美耶子は絶句した。なぜそんな顔をしてまで言うの。

 この人は何を考えているのだろう、と必死に考えた。あの日は頭に血が上っていて菊吉の表情など見ている暇もなかった。あの時もこんな表情をしていたのだろうか。


 じわりと鼻の頭が熱くなる。


「わたしはここにおります」


 鼻声の混じった声色で、美耶子は告げた。

 瞬間、美耶子の肩に衝撃があった。上体は大きく後ろに崩れ、足を放り出す形になる。尻に鈍い痛みが走ったとき、視界に影が差した。


 うっすらと目を開くと、美耶子の肩口には菊吉の足があった。

 その足で蹴飛ばされたのだと悟る。


「……私はひどい人間だ。だからお前はすぐにでも実家に泣きつこうと考える。そして荷物をまとめて家を出るんだ。結婚間もなく離縁し、私たちに繋がれた縁など元からなかったものになる」

「何をおっしゃってるんです」

「これが、私の望むものだ」

「いいえ」


 美耶子ははっきりと首を振った。


「そんな顔をなさって、何が『私の望むもの』ですか」

「嘘は言っていない」


 美耶子は襟ぐりを掴まれ、強い力で持ち上げられた。胸元が苦しく、目の端に涙がにじむ。けれどその悲しげな表情を捉えて離すことはしなかった。


「わたしを信じてください」

「土台無理な話だな」


 手が離れ、美耶子の体は床に放られる。咳き込みながら行く先を目で追った。


「……わたしは菊吉さまの留守中、屋敷にやってきた烏天狗を追い払いました!」


 美耶子の部屋へ勝手に入ろうとする菊吉の手が一瞬止まる。しかし知らぬと言った素振りで、部屋に大切にまとめていたものを次々と廊下に出し始めた。菊吉の肩を引き留めようとするが、容赦ない力で突き飛ばされてしまった。


「聞いてください!」

「嘘を言っていたのはお前の方だ。丁寧にまとめて、出る準備など始めからできていた」

「違うの!」


 菊吉が今手に持っているものは父から渡された蒔絵まきえのきれいな文箱ふばこを包んだものだ。よろめく美耶子の胸に押し付けられて、必死に否定した。


「顔も見たくない」


 ふっと部屋を照らしていたともしびが消えた。行燈の火が尽きたのだ。暗い室内に白い煙が細く漂っている。

 美耶子は鋭い言葉に視界が大きく歪むのを感じた。頬が熱くなる。押し付けられた包みを受け取ってしまう。

 そのとき、菊吉の表情に少しの安堵がよぎった。


 不意に、ぽろりと涙が零れ落ちる。

 出て行かなくてはいけないのだ。美耶子は理解した。この人がそう望んでいる。


「……はい」


 板張りの床に水玉模様が浮かんだ。


「はい」


 壊れた人形のように、美耶子は頬を伝う涙をぬぐうこともできずに頷いた。


「美耶子は出てゆきます」


 こらえるようなしゃっくりを上げ始めたころには、菊吉はすでに自室へこもってしまっていた。

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