第12話 烏天狗の訪問。

 もうすぐ五日になる。

 近頃、菊吉きくよしは遅くに帰宅する。お里は屋敷に来なくなってしまった。そのことを菊吉に頃合い見計らって報告すれば「知っている」とだけ返答があった。


 昼間の屋敷には美耶子みやこ一人だけ。ここは低い山の中腹で、ご近所もいない。

 ふと美耶子は孤独であることに気づいた。

 不安で、宙ぶらりんで、そして妙に居心地がいい。けれどこの居心地の良さは、美耶子が心の中で無理やり作り出した感情なのだとわかっていた。


 縁側に腰掛け、今日もしとしとと降る小雨を眺める。薙刀を握るための肉刺だらけな手は、ところどころにあかぎれのある妻の手になっている。どこの新婦もこの変化を喜ぶ。けれど美耶子は違った。


 菊吉と目指している家族の姿はこれではない。けれど一生共に過ごしたい。苦しみのない表情の菊吉と笑っていたい。そして同じ墓に入りたい。この関係を何と呼べばいいのだろう。名前があれば、菊吉も歩み寄ってくれるのだろうか。

 雨はずっと降りしきっている。


 ざく、と庭の土を踏みしめる音に顔を上げる。

 伏見稲荷で仕事をしているはずの菊吉がそこに立っていた。相も変わらず目元はくまがひどく、肌つやも悪い。風が吹き込み、植木が音を立てて揺れるのにすら敏感な様子だった。菊吉は微かに目を細めると美耶子を認めるなり歩み寄ってくる。足取りは見た目以上にしっかりしているが、美耶子の視界外に消えた途端倒れてしまいそうだ。


「お早いお帰りですね」

「……今日は別件があった。伏見に帰る途中に寄っただけだ」


 菊吉に手首を掴まれる。美耶子は抵抗せず差し出すと、手のひらを見せるように言われた。細い指の腹で手のひらを撫でられ思わず手を握ってしまいそうになる。


「なにを……」


 しかし指先の動きを追えばそれは五芒星ごぼうせいだということに気づいた。

 菊吉は薄くつぶされた懐から赤くて小さな平たい袋を取り出す。美耶子の手のひらに乗せられたそれには達筆で『御守』と書かれていた。


「こ……これは?」

「肌身離さず持っていなさい。それから……しばらく帰ることができない」


 それだけを言うと菊吉はきびすを返した。しばらくすると玄関口の方から男性二人の掛け声が聞こえてくる。駕籠かごかきのものだ。

 美耶子は遠のいてゆく声に耳を傾けながら、朱色のお守りを握りしめた。







 菊吉は帰らないと言った。

 代わりにその晩──雲が月を隠す深い夜、一人の訪問者がいた。ばさばさと空気をかき混ぜるような羽の音に、お里かと思い庭に出る。しかしそこにいたのは高下駄に袈裟と麻の法衣、顔は真っ赤で黒くつややかなくちばしを持つ化生。疎い美耶子でもそれが何かわかってしまう。


からす天狗てんぐ……」


 それは肯定を示すようにカァと一つ鳴くと、黒い羽を小さく折りたたんで縁側に立っている美耶子に歩み寄ってきた。護身用に立てかけてある薙刀を手探りで掴み、警戒の意思を見せる。


「何用ですか」


 烏天狗はもう一つ鳴き声を上げると羽をはためかせて飛び上がり、美耶子へ距離を詰めてきた。ぎょっとしつつも刃先は天狗に向いている。あと一寸すこしで刺さってしまう、という近さで烏天狗は止まってみせた。


「その、そちのものではないな?」


 気とは聞きなれない言葉だ。

 烏天狗は美耶子の首元に顔を伸ばして鼻を動かす。美耶子は全身の毛を逆立てる勢いで、薙刀のつかで化生の体を弾き飛ばした。


「無礼ものっ」


 突然やってきたものに許される行為ではない。

 美耶子はまなじりを吊り上げて、薙刀を振りかざす。裸足のまま庭に下り間合いを詰めるが、烏天狗がひょいひょいと後ろへ退すさるので、一歩を大きく踏み出して刃先を目の先に突き付けてやった。


 空気の流れがぴたりと止まる。

 烏天狗は美耶子がなぜにそれほど怒りを見せているのかがわからないようで、呑気のんきに後頭部を掻いていた。


「久方ぶりに“”が流れてきたとやらで、あやかしどもが騒ぎ立てておる。なんと紛らわしい」


 そう吐き捨てると、烏天狗は美耶子の袂に羽の手を差し込んでくる。慌てて袖を引っ張るが、その曲芸のような早業でいた。


「か……っ、返しなさい!」


 その手に握られていたのは菊吉からいただいたお守りである。

 取り返そうと手を伸ばすが──接触するという寸前で右手が何かに弾かれてしまった。痺れるような衝撃に、美耶子は左手にあった薙刀を落としてしまう。

 美耶子の情けない姿を見て烏天狗は鼻で笑った。


「目当ての気はれより漂っているようだ。……この守り、預からせてもらう」

「ま、待って! 待ちなさいっ」


 手を伸ばすのは諦めて薙刀を拾い上げた。足の裏に粒の大きな砂利が食い込むが、美耶子はひたすら烏天狗を追い続ける。烏天狗は美耶子の必死の形相を傍目にばさり、と地から飛び上がった。その一瞬、風に煽られるのを捉えて薙刀をいつもより遠くに構える。これをすると、敵は刃渡りがぐんと伸びたように錯覚する。いや、実際に伸びているのだ。


 美耶子はできる限りの力で薙いだ。鋭く研がれた手入れの行き届いている刃先は烏天狗の羽に触れる──いや、きちんと傷をつけたようだった。

 ひらひらと黒い羽根が庭に舞い落ちると同時に、赤い液体が庭を汚す。

 しかし烏天狗は少しのふらつきだけを見せて、遠くの山裏に姿を消していった。







 やった。


 美耶子は雲が流れくっきりと月が浮かぶ夜空の下で山の端を眺めながら思った。

 庭に落ちた赤い液体はおそらく烏天狗の血。美耶子の薙刀は化生を傷つけることができることを知った。つまり、精進すれば菊吉を守れるということ。菊吉が鵺に怯えなくて済むのなら、偽らないありのままの姿で一生を共にできるのだ。


 美耶子は脳裏に菊吉を思いうかべて袂に手を伸ばす。しかし思った重みはなく指先は空振りした。驚いてひっくり返してみるが、菊吉からもらったお守りがない。先ほどの烏天狗がすっていったのを思い出し、肩を落とす。


 なんて申し開きをしよう。素直に烏天狗に奪われてしまったと言えば許していただけるだろうか。

 あれこれと考えていたとき、烏天狗のぼやいていた言葉が脳内に響き渡った。


──


 それがあのお守りから漂っているとかで、取られてしまったのだ。あれは菊吉が用意したはずのもので……。

 美耶子は咄嗟に立ち上がった。


 到底信じがたい解を導き出してしまい、頭を抱える。なぜなら美耶子の推理が正しいのであれば、菊吉は再び鵺の脅威にさらされようとしているからだ。

「久方ぶりに」という言葉が十八年ぶりを指しているのであれば、「佳き気」とは菊吉が纏う化生にしかわからない何かということになる。


 これはまずい。


 美耶子の顔がさっと青ざめた。

 早くお知らせしなければいけない。

 今すぐにでも菊吉のもとへ行きたいところだが、夜分遅くの訪問はあまりいいものではないだろう。それに菊吉が伏見稲荷大社に必ずしもいるとわかっているわけでもない。


 ともかく明日の朝早くに、このことを伝えに行かなければ。

 美耶子はうずうずする気持ちを胸の奥に抑え込み、早朝の出発のために荷造りを始めた。

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