第3話 母・迫中美佐江
家は高架沿いにあるアパートの二階である。陽大はそこで母と二人で暮らしていた。
「ただいま、お母さん」
玄関で家に向かって声をかける。
リビングに繋がる扉が開いて、母親が姿を現した。四〇代後半だが、まだ三〇代と言っても不思議ではないくらい若々しい。だが瑞々しさは全くなく、目の下には濃いクマが刻み込まれていた。
「遅かったわね」
「ちょっとだけ、寄り道をしていたんだ」
「無事でよかったわ」
母親が手を広げた。
陽大は、鞄を置くと母親の手の中に歩いていく。
母親に抱きしめられ、頭を撫でられるけれど、不思議と温かさを感じない。それをいけないことだと思った。母はこんなにも自分を愛してくれているのに、自分がそれを十分に受け取れない。だからと言って母をがっかりさせたくはないので、せめてもの愛情表現として、母の背中に手を回した。母は、形式上のハグでも安心したようで頬にキスを返してくれる。
「さあ、手を洗いましょう」
母親に手を引かれて陽大は洗面所に入った。
「ちょっと待ってね」
母が、洗面所の奥から小さい子供用の踏み台を取り出してくる。
「はいどうぞ」
踏み台が洗面台の前に置かれた。
「ありがとう。お母さん」
仮面ライダーの顔が描かれた台の上に乗ると、体をVにするように腰を屈めて蛇口を捻る。成長と共に、体勢が窮屈になってきたが手が洗えない訳ではなかった。
そんな様子を母が満足げに見守っている。
「ねぇお母さん、僕は今、何歳になった?」
陽大は、右手と左手の指を交差させ指の隙間を洗いながら母親に尋ねる。決して自分の年齢が分からなくなった訳ではなかった。
「またその質問?」
「僕、早く大人になりたいんだ」
「残念ながら陽大は昨日と同じで、まだ五歳ですよ」
母親が、後ろから頭を撫でてくる。それとなくそれを拒否すると、今日も十七歳だと言ってもらえなかったことに落胆した。
泡を洗い流してタオルで手を拭くと、後ろで待っていた母親が踏み台を片づけてくれる。
「まだ夕食まで時間があるから、部屋でお勉強してきなさい」
陽大は、リビングに入る。ここはこの家で最も広い部屋だった。と言ってもゆうと君や塾長の家に比べたらかなり質素である。リビングはキッチンと繋がっていて、部屋の中央にはソファとローテーブルがある。その前にはテレビがあり、後はクローゼットとわずかな収納棚があるだけで部屋はぱんぱんだった。
テレビ前のローテーブルに深紅のマグカップが置かれているのが目に入る。
「またコップ買ったの?」
キッチンにいる母親に陽大が聞く。
「うん。パパのためにも、そろそろ新しいのを買った方が良いかなと思って。あの人、飽き性だから」
マグカップを覗き込むと、残った紅茶が振動で揺れていた。
母親はまた、父親が生きているという妄想に浸っている。だがそれが迫中家にとって日常の風景であり、特に気にはならなかった。陽大の事を五歳の幼稚園児だと思い込んでいるのも、父の死が原因だと陽大は考えている。当時の記憶は無かったが、ちょうど陽大が五歳の頃交通事故で父は死んだそうだ。父については顔どころか、声も匂いも手の感触も、そして名前でさえも覚えていない。父がどんな人なのか見当もつかなかった。
紅茶のほんのりと甘い香りが漂って来る。
リビングの奥には二つの扉があり、そのうちの一つを開けて陽大は勉強部屋に入った。部屋は四畳ほどの狭さで、勉強机と本棚がある以外は何もなかった。ベットはもう一つの部屋にあり、夜は母とそこで寝ている。
学校の鞄を床に置くと、タブレットを取り出して勉強机に向かう。同時に教科書の適当なページを開いて、それに対応するワークブックも開く。怪しまれないように、数問だけ問題を解くと、後はすぐ握れる位置にシャーペンを置き、タブレットを開いた。
アイドルのライブ映像が映し出される。
電車の中で書ききれなかったコメントの続きを打ち込んでいく。タブレットを机に置き、両手で入力すれば、そこそこの速さで文章が出来上がっていった。
「私は山崎美鈴さんを信じています。彼女は私の憧れであり、尊敬すべき人です。悩んでいるときも、辛い時も、自分が何者か分からなくなってしまう時も山崎さんが輝いている姿を見ると日常に彩りが戻ってきたように感じます。今回のライブも素晴らしかったです。騒動があって大変だったはずなのに、それを感じさせないパフォーマンス。そこに隠されている努力を考えると力が湧いてくるように思います。様々な噂が飛び交っていますが、私は山崎さん本人がバンドメンバーとの関係について否定されていることを信じます。それがファンの務めではないでしょうか。もしそれが嘘であったとしても、やっぱり私は山崎さんを応援し続けると思います。彼女が彼女らしくある事を願うばかりです。長くなりましたが山崎さんには本当に感謝しています。頑張ってください」
陽大は、文章を推敲すると投稿ボタンを押した。
コメントはすぐに多くのアフレイファンの手に届く。早速アンサーコメントが投稿され始めた。想像した通り、陽大のコメントを批判する内容が多数を占めている。中には陽大の事を、「自分は他のファンとは違うとアピールしたいだけの、ナルシスト」と批判する人もいた。そのコメントは目に移らないように削除する。
しばらく誹謗中傷のような言葉が続いたが、中には陽大を擁護するような意見が見え始めた。おそらく山崎美鈴を推す熱狂的なファンたち、崇拝者のものだろう。
「さすが○○さん。真っ当なご意見、感服します」
陽大は、山崎の活動に関して逐一思いを書いてきた。どんな些細な発言や行動にも欠かさず意見し、なおかつ長文でコメントを書き込むようにしていたが、それらは全て山崎を尊重する立場を取っている。それ故に傍から見れば陽大も崇拝者の一人に見えるのだろう。
だが一緒にされたくはなかった。他の崇拝者たちのように、ライブで反山崎派と乱闘騒ぎを起こしたり、反山崎派が経営するバーを襲撃したり、山崎を批判する記事を書いた記者を拉致したりはしない。そんなことをして何がいいのか、陽大には分からない。
「私も○○さんに賛成です。ファンであるならば猶更、山崎美鈴さんを批判するのは見当違いな事です」
自分の意見が肯定されたことは嬉しく思いつつ、それが崇拝者からの物であると考えるとどこかむずがゆさを感じる。そんなこんなでコメント漁りを続けていると、突然背後から気配がした。
慌てて電源を切ってタブレットを机の端に置くと、シャーペンを握り教科書に向き合う。
「お勉強の調子はどう?」
部屋の扉がノックなしに開かれ、母親が入って来た。
「順調だよ、お母さん」
「どれどれ」
母親は机までやって来ると数学の教科書と問題集を取り上げた。
「算数の問題ね。懐かしいわ」
「うん。ちょっと難しくて考えちゃった」
「大丈夫よ。お勉強を続けていれば、きっと将来賢くなるわ。その年でお勉強をやっている子なんて、他にはそういないんだから。同級生は遊んでばかりでしょう?」
「確かにそうだね。お母さん」
「安心して。ママに従っていれば陽大はきっと素敵な人生を送れるわ」
「素敵な人生?」
「そう。良い大学に入って、良い会社に入って、可愛いお嫁さんを見つけるの。そのためにはお勉強を頑張らなくちゃ」
「それは素敵だね」
陽大の表情が曇った。将来の事は何も分からない。自分がどんな大人になるのか、あるいはなりたいのか。理想の大人像を思い描こうとしても、頭の中のキャンパスには靄がかかるばかりである。そもそも、今の自分がどんな人間なのかも分からなかった。人間の形をしてはいるけれど、中身は飲み干したビール瓶のように空っぽに思える。迫中陽大とはいったい何者なのだろうか。
「どうかしたの?」
変な事を考えていたせいで会話が滞ってしまったようである。
「なんでもないよ。僕、お勉強がんばるよ」
「偉いわね。じゃあ夕食は後にして、もうちょっと机に向かっていなさい」
「分かった」
よしよしと頭を撫でられ笑顔を作った陽大だったが、母からの視線が無くなるとすぐ眉間に皺が寄る。
部屋を出た母が扉を閉めると、鍵が施錠された音がした。この部屋の出入り口は外から鍵が掛けられるようになっていた。どうしてそんな構造になっているのかは知らないが、扉の取っ手付近だけ木材の色が変わっているのを見ると、あとから意図的に作り変えられたものだと分かる。まるで独房だなと思いつつ、扉の前に立って耳を近づけてみると、リビングから微かににテレビの音が聞こえてきた。
「お母さんのためにも、勉強しないと」
鍵を閉められると、経験上だいたい三時間以上は出られない。陽大は、溜息を吐くと机に戻った。
タイミングよく鳴ったお腹の音を聞かなかったことにして、シャーペンを握ると、数学の問題を解くことにした。
それから数日後、母親と一緒に陽大は湯船につかっていた。当然母も陽大も裸だ。浴槽の中で足を屈めながら陽大は視線を右往左往させる。成長してからも一緒にお風呂に入る事だけは慣れないどころか、ソワソワした感覚は年を重ねるごとに色濃くなっていく。
「お母さん。話があるんだ」
担任の先生との面談を思い出す。
(この模試で優秀な成績を収めることが出来たら、学校から賞金が出ます。賞金は成績にもよりますが、最大三万円です。アイドルのライブに行くには十分でしょう?)
川端先生はそうおっしゃっていた。
「実は言うの忘れていたんだけど、明日遠足があって」
母親の顔色を伺う。模試の代金は学校が払ってくれたけれど、交通費までは出ない。明日模試に行けるかは母親の返事にかかっていた。
「あら、そんなプリント貰ってないわよ」
「プリントは失くしちゃって」
「あれだけ言ったじゃないの。大事なプリントを貰ったらすぐに渡しなさいって、これで何回目だと思っているの。毎回、毎回プリントを忘れるなんて。あんたきっと病気よ」
「ごめんなさい」
「次忘れたら、精神科の先生に診てもらわなくちゃ」
陽大は、水面から出た自身の細い膝に視線を落とす。
「それで、遠足に行くのね?」
「だから電車賃が必要で」
「後でキッチンにあるお財布から持っていきなさい。お菓子はどうするの?お弁当はいるの?」
「お菓子は要らないみたい。お弁当はお願いしてもいいかな」
「全く。そう言うことは早く言ってちょうだい」
母親が湯船の中から立ち上がった。
「もう出るの?」
「明日のお弁当の準備をしなきゃいけないの。ほら、あんたも立ちなさい」
陽大は、脇を抱えられて立ち上がらされる。
「僕、もうちょっと入っていたい」
「一人じゃ危ないでしょ。おぼれ死んだら、どうすんのよ。もうちょっと大きくなるまで、一人でお風呂はいけません」
陽大は、母親の見えないところで唇を噛んだ。
母親に背中を向けて体を拭くと、一足先にドライヤーを終えた美佐江はキッチンへと向かう。その姿が見えなくなったところでなぜかホッ胸をなでおろしている自分に気が付いた。
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